氷雪の花

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 巳之吉は軽く揺すられて目を開けた。 「もし。大丈夫ですか?」  声を掛けられて顔を上げると美しい女が見下ろしている。一体どうしてそんなことになったのか、巳之吉の体は半ば雪に埋もれていた。どうやら気を失っていたようだが仔細が思い出せない。 「ああ」  身を起こしながら巳之吉は己の形りを確かめた。大丈夫。手甲も脚絆もしっかりと身を被っている。 「こんな山奥まで一体どうして」  巳之吉に手を貸しながら女が訊く。添えられた手は相当に冷たくて巳之吉は怖気を震った。物の怪にでも魅入られたかと思ったが続く女の言葉で得心がゆく。 「わたくしはこの先で夫と二人、薪を拾って暮らしております。昨日から夫が戻らぬ故こうして探しておりました。雪のなか背格好の似たお前様を見つけて駆け寄りましたが……。ここでこうして出会ったのも何かのご縁でございましょう。どうぞ我が家にお立ち寄りくださいませ。このように身体が冷えていては凍えてしまいます」  巳之吉はごくりと唾を呑み込んだ。抜けるように白い肌の女だ。笠と蓑で覆われてはいるが、頬や指先でそれと分かる。おまけに吐き出す息が酒のように甘かった。  この埋もれるような雪の中、戻らぬ夫を探して歩き回っていたとは健気なことだ。けれど巳之吉は鼻白む。山女がこんなに上品な話し方をする訳がない。何か訳ありなのだろう。そも、夫のこととてありがちで嘘くさい話だ。関わらぬが身の為。分かってはいる。分かってはいるが、こんな上玉に誘われて乗らぬ手があるだろうか。巳之吉は促されるまま、女について立ち上がった。 「どちらからいらしたのです?」  女に問われて巳之吉は言葉に詰まった。無意識に手甲に被われた手首を掴む。家に招かれ囲炉裏端に通されて旅装束を解くように勧められたが、冷えるからと理由をつけて断っていた。 「どちらから……」  言い淀む巳之吉に女が問いを重ねる。 「わたくしは雪花(ゆか)と申します。お前様、お名前は?」 「名前……」  女の問いは難しいものではない。雪山で助け起こし家に招いた者への問い掛けとして至極真っ当だ。けれど巳之吉は答えられない。  巳之吉は(くに)で悪さをしてここまで落ちてきたのだ。隠してはいるが、右の手首足首にはその証の墨が入れられている。記憶が曖昧で郷からどれくらい離れたのかも分からぬ今、胡散臭いこの女に馬鹿正直に名乗る訳にはいかない。 「もしや雪の中で気を失って記憶が……」  巳之吉の態度をどう解釈したのか、雪花の言が躊躇いがちに途切れる。巳之吉はその勘違いに飛びついた。 「かもしれません。何ひとつ分からない。けれど明日になれば思い出すやもしれません」  顔を曇らせる巳之吉に雪花は気遣わし気に微笑んだ。 「そうですね。今日はもうお休みなさいませ。さあ、この薬湯をどうぞ。ぐっすり眠れますよ」  巳之吉は勧められるままに薬湯を飲んだ。警戒心が頭を擡げないでもなかったが、温かそうな湯気に抗えなかった。雪の中で冷え切った体は囲炉裏の火にあたっても中々解れなかったのだ。  果たしてその薬湯はよく効いた。直ぐに瞼が重くなり、温まって弛緩した体が泥のように沈む。巳之吉は勧められるまま、女が用意した薄い寝床にその身を滑り込ませた。  眠りは深く、重く、濃密だった。濃い霧が質量を待って伸し掛かってくるようだった。しかしそれは決して不快ではなく、寧ろこの上なく心地好い。酒のように甘い香り。包み込むような弾力。甘い霧に抱かれて巳之吉は夢をみた。  白い女が手招きしている。美しい女だ。誘われるままに身を重ね、絡み合う。けれど巳之吉がどんなに熱く貫いても、女の肌は雪のように冷たかった。  次の日も、雪花の夫は戻って来なかった。巳之吉は夢に引き摺られるようにずるずると居続けた。独りでは心細いと雪花もそれを喜んだ。昼間は雪花と共に雪山を歩き回り、夜は一組しかない寝床に並んで眠る。同じ布団に入っても、特段どうこうする訳ではなかった。雪花には戻らぬとはいえ夫がある。巳之吉も隣に感じるひんやりとした体温を無理に奪おうとは思わなかった。  けれど三日経っても、十日が過ぎても、夫は帰って来ない。山を歩き回っても、厚く積もった雪が輝くばかりで人の気配は見つけられなかった。 「もしかしてもう……」  雪花の目に涙が滲む。巳之吉は震える肩にそっと手を置いた。潤んだ目が向けられて、雪花が巳之吉の胸に顔を埋める。言葉を掛けることは出来なかった。何を言っても気休めで、慰めにすらならない。巳之吉はただ黙って雪花の背を撫でた。  その晩、二人は結ばれた。縋りついてくる雪花を愛おしいと思った。雪のように白い身体は、夢とは違ってちゃんと人並みに温かかった。
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