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幸せな日々だった。
薪を拾ってそれを売り、兎を獲って茸を集める。慎ましくても満たされていた。巳之吉はいつしか己の罪を忘れ雪花に気を許した。巳之吉の手首の墨を見ても雪花は睫毛を伏せただけで何も訊かなかった。
そうして巳之吉は思い出す。
「そう言えば」
それが禁忌だなどと巳之吉は知らない。
「お前と初めて会った日に雪女を見た」
思い出した事柄を雪花に告げたかっただけだ。ちょっと変わった出来事を、二人で笑って話したかっただけだ。
突然の告白に雪花の目が見開かれる。けれど巳之吉は知らないから。わなわなと震え始めた雪花の様子を、物の怪に怯えたのだと思った。
「大丈夫だ」
巳之吉は雪花を抱き寄せた。宥めるように背を摩り、髪を梳く。
「取り殺されそうになったが、何故か見逃してくれたんだ。そうしてお前に会った」
雪花は巳之吉の胸に顔を埋めた。けれど一度ぎゅっとしがみついて、それから体を離す。
「雪花?」
両手で巳之吉の胸を押す雪花の頬を涙が伝った。巳之吉は雪花が泣くのを初めて見た。思えばこれまで、瞳を潤ませることはあっても涙を流したことはなかった。巳之吉は初めて見るその様を呆然と見つめた。
夏の暑い日だというのに、雪花の涙は溢れる端から固まってころころと二人の間に転がった。
「どうして」
ころころと。氷の欠片が雪花の足元を埋めてゆく。幾つも幾つも転がって積もってゆく。燦々と降り注ぐ日の光を照り返してきらきらと輝く。暑さに溶けることもなく、きらきらと。
「誰にも言ってはならぬと申し上げたではございませぬか」
涙声の雪花が訴えた。そうだったろうか。巳之吉は記憶を手繰ろうとしたが思い出せなかった。そのときのことは、吹雪に閉ざされたように朧げなのだ。いいや。実際、嵐の只中に在って何も見えていなかったような気もする。けれど間違いなく雪女に会った。そんなことよりも。
「雪花!」
巳之吉は焦って雪花の腕を掴んだ。雪花の足元を埋めた氷が彼女自身をも凍りつかせてゆく。足元からきらきらと。巳之吉は必死で雪花の手を引いた。
「いいえあなた」
けれど雪花は首を振る。小柄で華奢な雪花の身を、巳之吉は氷の中から引き上げる事が出来ない。いいや。引き上げるどころか、雪花はびくとも動かなかった。
「お別れでございます」
雪花は微笑んだ。諦められずに腕を掴んだままの巳之吉の目の前で、雪花は姿を変じていった。凍った白い手足がこげ茶の枝になり、流れる黒髪が艶やかな葉に変わる。溢れた滴が花となり、白く枝を飾る。
「雪花!」
雪花は見る間に凍りついた。巳之吉は為す術もなくそれを見守って、凍った花にしがみつく。
「そんな……雪花……」
こんなことがあり得るだろうか。人が花木に変じるなどと。そんなことは信じられない。認められない。
「雪花。雪花……!」
巳之吉は冷たい木に縋った。氷に閉じ込められた物言わぬ木に愛しい妻の面影を探した。美しい山茶花の花。白く可憐で慎ましい。
「雪花、どうして」
泣いても喚いても、雪花は帰って来ない。巳之吉は訳が分からない。訳が分からぬものを認められる道理もない。だからいつまでも。巳之吉は動かぬ木を揺すり続けた。
真夏の日差しに晒されて尚、氷の花はきらきらと輝いていた。
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