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人里離れた山奥に。それもこんなに雪の積もった真冬の山に。人が立ち入る筈が無い。
だから雪花は油断していた。雪山には似つかわしくない薄い白の小袖一枚でふらふらと辺りを彷徨うのは、別に目的がある訳でもない。時々ふうと息を吐いて黒い裸の枝を凍らせては歩く。針葉樹の枝に重く積もった雪に風を当てて、とさりと落ちて舞う風花に目を細める。深い雪に閉ざされたこの地は、雪花だけの世界だ。いや。頭上で囀る小鳥や足元を跳ねてゆく兎は居るから、雪花だけの、というのは正確ではない。けれどそれらは少しも邪魔をしないので、雪花にとっては景色と同じなのだった。
そんな閉ざされた山に旅装の男がひとり現れた。意図して踏み込んできたのかうっかり迷い込んだのかは分からない。重要なのは今ここに居て、雪花の姿を見てしまったということだ。もし少しでも辺りの気配に注意を払っていればこんなことにはならなかったろう。雪花は己の失態に唇を噛んだ。
男は惚けたようにこちらを見ている。事態を把握してはおらぬようで、ぱちぱちと目を瞬いて雪花を見つめる。雪花はすっと手を上げた。雪山で旅人が凍えて果てるのはよくあることだ。だからこの男がそうなったとしても誰も首を捻らない。春になれば山菜採りの翁にでも見つけてもらえよう。姿を見られたとあってはこのまま山を下らせる訳にはいかない。
緩く吹いていた風が勢いを増し、雪花の髪が舞い上がる。背に垂らした黒髪は雪花の背丈と変わらぬ程に長い。それが徒にはためいて舞い散る風花と交ざる。
「綺麗だ」
男の口から溜息が漏れた。
「どうせ死ぬんなら、その前に好いモンが見れて幸いだった」
己の定めを悟ったように、それなのに何ひとつ分かっておらぬように、男が相好を崩す。その頬に舞う雪が張り付き、吐く息が白く凍る。風に嬲られ雪に打たれて、男はやがて膝を突いた。朦朧とした意識が雪に埋もれてゆく。その微かな意識の端に雪を踏む音を捉えて男は薄く目を開けた。
「ああ、本当に綺麗だ。仏さんみてえだ」
いつの間にか吹雪は収まり日が射し始めていた。雪に負けない白い肌が日の光に透ける。俯いた黒髪が艶やかに揺れる。そんな雪花を見上げて男は笑った。ほう、と息を吐き、それきりまた目を閉じて雪に頰を埋める。
「今日のことは、他言しないと誓えるか?」
雪花の問いに男は僅かに身動ぎした。
「我と出会ったことは、決して誰にも話してはいけない」
男は僅かに動く。深く遠く意識を手放しながら。雪花の言葉は届いているのだろうか。
「それを守れるのなら……」
雪花は男の頰に手を触れた。雪を払い、冷えきった頰をそっと撫でる。冷たい肌の下で血の通う気配がする。まだ生きている。雪花の胸がとくんと打った。
雪花は雪に棲む妖だ。人と交わることは無い。姿を見られれば命を奪い、その存在を隠して生きてきた。だから。
綺麗だ、と男は微笑った。
雪花はそんな風に見つめられたことが無かった。初めて向けられたその視線は、雪花の冷えた胸の奥に灯りを点した。
*
「どうして」
雪花の目から涙が落ちる。ぽろりころりと転がって、足元に積もってゆく。
「誰にも言ってはならぬと、申し上げたではございませぬか」
目を覚ました巳之吉が惚けているのか、それとも本当に忘れているのか、雪花には判断がつかなかった。ただ祈っただけだ。どうぞ平穏が続くようにと。初めて触れる人肌の温もりが、いつまでも傍に在るようにと。
「お別れでございます」
縋りつく巳之吉に雪花は静かに告げた。
己の存在を決して人に知られてはならない。
その大切な約束事は雪花の魂の深いところに刻まれている。喩えば知られたらどうなるのか。雪花は知らない。知らないが、それは身の破滅だと本能が知っている。だから終わりなのだ。何もかも。
ぱりぱりと足元から音を立てて凍ってゆく。夏の暑い最中に。雪深い山の中であっても、雪花は些かも凍えることなど無かったのに。
「雪花!」
愛しい男が雪花に取り縋って喚く。ああそうか愛しいのだと。雪花は悟った。あの日雪山で点った灯りは、そんな風に育ったのだ。けれど凍りつく。煌めく氷に閉ざされてゆく。
人の一生は短い。どちらにしろ早晩、ふたりの生は分かたれることとなったろう。その生の短さ故に人の心は移ろい易い。今は涙に暮れる巳之吉も、やがて忘れて山を下りる。
それでいい。
雪花は思った。それが巳之吉の幸せに違いないのだから。
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