[1] 二〇〇二 冬休み 1

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[1] 二〇〇二 冬休み 1

 田舎にまっすぐ伸びた二車線の国道、正面にも背面にも田んぼという立地に洋食屋がある。駐車場には軽自動車が一台と軽トラが二台、その横の生垣にはうっすら雪が積もっていて、自転車が立てかけられていた。自転車の持ち主である少年は、曲がった制服の襟を直すと、店のガラスに映った自分の姿を見る。風で乱れた髪を少し整えて、入り口の前に立つ。控えめな看板に『Moon river』と書かれているのを確認すると、ドアにしっかり固定された木製の取っ手をぐっと握って押した。 「いらっしゃいませ」 ドアの上にあるベルがカランカランと鳴るのと同時に、コーヒーの香りがした。カウンターの向こうから声が聞こえる。艶のある黒髪ボブに、上品なブラウス、その上にエプロンをした三十代後半くらいに見える女がちらりと入り口を見た。 「あのー、この店でいつも冬休みにバイト募集してるって聞いたんですけど」 少年はそう言って、カウンターの上に無料のバイト情報誌を置く。最後のページについていた履歴書を広げて見せた。 「あら、高校生? どこの制服かしらそれ」 女は淹れ終えたコーヒーをカウンターの端に座る客に出すと、少年の前に来て履歴書を見る。 「へえ、有工の制服って今そんな風になってるのね。私が高校生のときは学ランだったのにおしゃれになったわねえ」 履歴書には県立有澤工業高校と書かれている。 「刈田、まことくん?」 「りくです。かりた、りく、です」 「ああ、睦くんね。アルバイトはしたことある?」 「親の手伝いで工事現場ならやったことあります」 「あらそう、接客業はないかしら」 「ないっす」 緊張しているのか、受け答えがぶっきらぼうで、まなざしも鋭い。細く整えられた眉毛で表情の険しさが増している。カウンターの端でコーヒーをすする客が、読んでいた新聞を置いて心配そうに見ていた。千歳が履歴書を確認しながら、 「じゃあ、初めての接客業ってことねえ」 と言うと、張り詰めた表情だった睦は少し不安げな表情になり 「だ、だめすか?」 と言いながら千歳を見た。高校二年生ってこんなに子供っぽかっただろうか、と思いつつ、千歳は睦を落ち着かせるようにゆっくりとした口調で答える。 「だめなことないわよ。そんなに難しい仕事じゃないから。いつから来られるかしら?」 それを聞いた睦は眉を八の字にして、驚いたような顔をしている。 「え、冬休みの最初の日から来れますけど、合格すか?」 合格という言葉の大げさな響きがおかしかったのか、千歳は口元に笑みを浮かべて 「そうよ、合格。じゃあ冬休みが始まったらきてもらえる? 私は店長の悠木です。悠木千歳。よろしくね、睦くん」 と自己紹介をする。睦は「よろしくお願いします!」と素早く頭を下げた。 「寒かったでしょ、外。コーヒー飲んでいかない?」 「いや、今、俺、財布持ってないんで……」 「ふふ、もちろんサービスよ」 座るよう促された睦は、会釈をして椅子に腰かける。濃い茶色のウォールナット材で設えられたカウンターはよく磨かれていて、暖色の照明をぼんやりと反射していた。店内を見渡すと古い洋画のポスターや、COLORADO、と書かれたナンバープレートなどで、アメリカ風の装飾がされていた。控えめにBGMが流れている。千歳がコーヒーを淹れる様子を見てみると、豆をきっちり計量して、お湯も正確な量を淹れているようだった。 「コーヒーってそうやって淹れるんすね……」 睦は思わず話しかけてしまった。千歳はうなずきながらカップを差し出す。 「はい、どうぞ。砂糖とミルクは要る?」 「あ、要ります」 両方をたっぷりと入れてかき混ぜる。いつも家で飲んでいるインスタントコーヒーとは全然違う香りがして、口に含むとやはり全然違う味だった。 「おー……、うまいっす」 千歳はエプロンで手を拭きながら 「そう、それはよかった」 とほっとしたような笑顔を見せた。カウンターに置きっぱなしだった履歴書を手に取る。 「あら、携帯も持ってるのね」 電話番号の欄には固定電話に加えて携帯電話の番号が書かれている。 「ああ、でもうち裏に山があるから、電波全然入らなくて。用事ある時は家の電話にかけてもらった方が確実かもっす」 「そうなの。わかった」 千歳は自分の携帯に電話番号を登録する。 「ごちそーさん」 カウンターの客が席を立つ。睦の後ろを通る際に 「頑張れよ!」 と肩を叩いてレジに向かった。支払いを終えると寒そうに、小走りで軽トラに乗り込み去っていく。 「あの人は、常連さんで島内さん、っていう人。多分バイトに入ったらいつも顔を合わせると思うわよ」 もう客は居らず、二十席ほどある店内には、コーヒーを飲む睦と、食器を片付ける千歳が居た。千歳はゆったりとした所作で調理場との間にある棚へ食器を運ぶと、中に声をかけた。 「片桐さん、お皿よろしくね」 すると、よく通る声で 「はいー! 休憩終わったらやります」 と返ってきた。それを聞いた千歳は一度置いた食器を、水がはられたシンクに入れる。 「あら、そうだわ」 コーヒーを飲みながら店内を眺めている睦を一瞥した千歳は、調理場の中へ入っていくと、頭に三角巾を被った女を連れて出てきた。 「片桐さん、この坊ちゃんアルバイトで来てくれることになったから、紹介するわね。刈田 睦くん。有工の生徒さん」 千歳より二回りくらい年上に見える小柄の女は、割烹着姿にタバコの匂いを漂わせながら睦の前に立つと 「あら! 今年も短期バイト雇うんですか! 店長!」 と無遠慮な視線を睦に向けてくる。 「いつも来てもらってたじゃない、大丈夫よ」 「でも」 「大丈夫よ~、片桐さん心配性なんだから」 千歳は片桐の肩をポンポンと叩きながら言うと、片桐はあきらめたような笑顔で 「わかりました、店長がそう言うなら大丈夫でしょ! ね!」 と言いながら睦の方をみてピースサインをした。睦はどう反応していいかわからず、苦笑いをするだけだった。 「ところで、どうしてアルバイトしようと思ったの? 何か買いたいものでもあるの?」 千歳が尋ねると、睦は少し黙った後、 「バイクが欲しくて」 と言った。 「ああ、ハーレーダビッドソン?」 と片桐が口を挟んだ、首をぶんぶんと振って 「いや、違います」 という睦に、千歳が 「ちょっとうちのアルバイトのお給料じゃ、足りないわねえ。」 と笑う。 「あたしはバイクって言ったら夏也さんのハーレーダビッドソンしか知らないんです」 カウンターの後ろの棚を指さして、片桐は少し恥ずかしそうに笑いながら、調理場へ戻っていった。棚には小さな写真立てが飾られており、その横にヘルメットが置いてあった。 「でも、バイクを買える足しになるといいわね。あ、でも免許は?」 「夏休みにとりました」 「へえ、最近の高校は理解があるのね」 もちろん学校には内緒だったがそれについては適当に流した。睦は、短期アルバイトの給料が少なそうなことに内心がっかりしたが、それを悟られないよう笑顔で会話を続ける。コーヒーを飲み終えて、壁にかけられた時計を見ると、午後五時半を指していた。そろそろ帰ろうと立ち上がったところでドアのベルが鳴る。 「あら、尚斗くん、こんばんは」 千歳の視線の先には、紺のモッズコートを着た少年が立っている。サイズが大きいのか、本人が細いのか、膨らんだ上半身に小さな顔と、棒のように細長い脚がどこかアンバランスだった。服にぽつぽつとついている雪を手で払っていると、調理場から片桐が顔を出して一度引っ込み、タオルを持ってきて少年に渡した。 「ほれ、これで拭きなさい!」 ボソッと「ありがとう」と言いながらタオルを受け取る。なんとなく帰るタイミングを失ってしまった睦はその様子をじっと眺めていた。睦の視線に気づいたのか、少年が 「どうも」 と挨拶すると、睦もつられて頭を下げた。 「この坊ちゃんは、矢村尚斗くん、夜は片桐さんと交代して尚斗くんが調理場に入ってくれてるの」 千歳が睦に説明すると、片桐が 「あたしの孫、仲良くしてやってね」 と睦にピースサインした。 「尚斗くん、この坊ちゃんは刈田睦くん、冬休みの短期バイトで来てもらうことになったのよ」 千歳に紹介された睦は立ち上がって 「刈田っす、よろしくお願いします!」 と言った。睦と尚斗は同じくらいの背丈だが、短髪で黒目がちの童顔である睦に比べて、耳にかかるくらいの髪に切れ長の目の尚斗は大人びて見える。 「二人とも同い年だから、すぐ友達になれるわね」 「あ、じゃあ高二すか?」 てっきり自分より年上だと思っていた睦は、急に親近感を覚えた。 「うん、高二」 睦は尚斗が制服を着ていないことが気になった。 「どこ高? 俺は有工だけど」 「西校。西校の通信制」 コートを脱ぎながら尚斗は調理場に入っていく。ロッカーの開く音と閉まる音がした後、また戻ってきた。 「よろしく」 そう言って出された手を、少し戸惑った後、睦は握って 「お、おう、よろしく」 と返した。握手をするなんて外国人みたいなやつだなと睦は思った。 外はだいぶ暗くなっており、この地域にしては珍しい雪がまた降り出していた。睦が自転車に積もった雪を払っていると、片桐が走り寄ってきた。 「こんな天気で自転車なんか乗ったら危ないよ! 送っていくから自転車は荷台に乗せなさい」 片桐が運転する軽トラの助手席に乗って、まっすぐな道を走っていると、サイドミラーに映る『Moon river』の灯りが、暗闇の中で温かく光っていた。
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