第一章 眠る月夜のノクターン

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◇  玄関先で「行ってきます」を言って歩きだそうとしたとき、見慣れた後ろ姿を見つけて、梨沙(りさ)は知らぬ間に息を止めた。見た瞬間に、視線がどうしても吸い寄せられる背中。少ししわの寄った高校の制服や、寝癖のついた髪型にも。 (――唯人くん)  今日こそ声をかけよう。「おはよう」って言おう。「元気?」だけでもいい。  とにかく何でもいいから、話しかけなくちゃ。  その思いとは裏腹に、時間だけがおそろしい速度で梨沙を置きざりにする。家が近所なのだから、目にする機会はたくさんある。会話できる頻度は、それ以上にあるはずだった。  それなのに、声をかけるどころか、視線を合わせることもできない。 (莉愛が好きだったひと。そして、私の好きなひと)  梨沙の姉――宮家(みやけ)莉愛は、去年の九月に亡くなった。  突然の交通事故だった。唯人と自転車で二人乗りをしていた矢先、坂道を下った交差点でバイクと正面衝突したのだ。結果――姉の莉愛だけが永遠に帰らぬ人となった。 (唯人くんは今も、自分を責め続けてる) 唯人を見かけるたび、その思いが手に取るように伝わってきた。 (たぶん莉愛が死んだのは、自分のせいだと思ってるんだ……)  その後悔は今も、深く彼を蝕んでいる。  莉愛が生きていた頃、唯人は頻繁に家に来た。三人一緒に過ごすうちに、梨沙は気づかない間に惹かれてることに気づいたけれど、梨沙はしょせん「幼馴染みの妹」にしかなれなかった。それでも、気が置けない関係ではあったはずだ。 (前は、見かければ普通に話すことができたのに)  梨沙は遠ざかる背中から目を離せないまま唇を噛む。  唯人はもう誰も必要としていないようだった。梨沙は、唯人に拒絶されてしまうのが怖かった。関係が近かった分、安易な気休めも向けられなかった。彼は自責の念で心を覆いつくし、自分の殻のなかに閉じこもっているようだった。そして、それ以上に彼は深く悲しんでいた。「悲しみ」という言葉が、心に追いつかないくらい。 (唯人くんは、まだ莉愛のことが好きなんだ)  その思うと、梨沙の胸は突き刺されるように痛んだ。  莉愛のことも唯人のことも、梨沙はとても好きだった。  だから、どんなに悲しくても前を向いてほしかった。 「梨沙、まだいたの? 遅刻するわよ」  洗濯物をベランダで干してる母親の声がかかる。  思ったよりも長いあいだ、立ちどまっていたらしい。 「はーい」  梨沙はつとめて何でもないふりをする。  いつも唯人は、梨沙の時間を少しだけ止めてしまうのだ。中学三年になる梨沙は、できれば唯人と同じ高校に通ってみたかった。そのためには成績をこれ以上落とすわけにはいかない。 (唯人くんは、私の気持ちに気づくこともない)  そう思うと、心の奥がまた少しだけ鈍く軋む。  梨沙は歩きだしながら、遠ざかる唯人の輪郭を何度も反芻し続けていた。
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