第一章 眠る月夜のノクターン

1/26
前へ
/100ページ
次へ

第一章 眠る月夜のノクターン

たとえ私が叫ぼうとも、天使のうちのだれが聴いてくれよう。―『ドゥイノの悲歌』 ◆  外灯が夜空を背景に辺りを照らしだしている。にじむ光を眺めていると、心の一部が少しだけ温められる心地がする。  唯人(ゆいと)はひとり家を出て、散歩している途中だった。分譲マンションの各階にはめ込まれた電灯。車のヘッドライトが夜の闇を切り裂くとき、鮮やかな光のコントラストに、束の間目を奪われる。そんな風景のなかにだけ現実を見出せる気持ちになる。  父親は仕事が忙しいのか、めったに家に帰ってこない。会社で寝泊まりしているのかもしれないし、行くあてがどこかにあるのかもしれない。どっちでもいい、と唯人は思う。自分には関係のないことだ、と。十歳で母親と死別したきり、唯人はずっと父親と二人きりで暮らしてきた。距離感を測りかねるよう に、最近は会話も減っていた。それを気にとめる余裕も、必要もないに等しかった。 (夜は、誰もいないのがいい)  清涼な夜気を胸いっぱいに吸いこみながら、唯人は思う。昼間は学校があるし、夕方は遊びまわる子供や、犬を連れた人や、立ち話をする主婦で通りは騒がしく煩わしい。その点、深夜に近い時間だと、時折自転車か車が通りすぎるくらいで、歩いている人とすれ違うことは皆無だった。この頃、毎日のように眠れない夜が続いていた。処方された眠剤を飲むべきかもしれない、と頭の片隅で考える。けれど、夜の散歩を覚えると、かえって眠ってしまうのはもったいない気がしていた。昼間見たくないものを、夜は容易に隠してくれる。住宅街の輪郭や水路、心の奥の屈託さえ闇のなかに沈下する。
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加