エピローグ

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エピローグ

 子会社の頃からずっと営業畑ひとすじだった誠志だが、四月一日付で総務部に異動となった。年度初めの総務部は、新入社員・転入者の受け入れ対応等で多忙を極める。誠志は年下の先輩社員から指導を受けつつ、慣れない業務に奮闘した。  第一週はまともに昼食も採れない目まぐるしさだったが、二週目半ばには多少落ち着いてきた。オフィスフロアのエレベーターは、九階の中間ロビーから十九階まで昇降するものと、二十九階から二十階までをつなぎ、そこから九階へ直行するものと二種類あった。昼休憩のラッシュタイムで、誠志が乗ったときには余裕のあったエレベーター内が、二十階に着いた頃にはすし詰め状態だった。 「あ……」  二十階でドアが開くと、スクラブ姿の育人と目が合った。操作盤の前に立っていた誠志は、一歩後ろに下がって一人分のスペースをつくった。小さく「おいでおいで」をすると、育人が恐縮しつつすべり込んできた。誠志の胸に育人の痩躯がすっぽり収まって、穏やかな鼓動がつたわった。  九階まで一気に降下し、耳の奥がツンとするのは、オフィスフロアの従業員にはお馴染みの感覚だった。ドアが開くなり足を踏み出して、二人並んでコンビニに向かった。  昼どきの店内は、いつもに増して混み合っていた。割り増しの混雑の原因は、地味なスーツに身をつつんだ新入社員たちだろう。グランドテラス品川には、天日化成を含めて大企業の本社が多い。「金のたまご」たちは、本社で導入研修を済ませてから、全国の配属先に散らばるのだ。 「新入社員研修、順調ですか?」  鮭とツナマヨのおにぎりを二個ずつ手に取って、育人が聞いた。誠志はオレンジと紫の野菜ジュースを調達し、「まあ、ぼちぼち」と苦笑した。個性豊かな新人たちに誠志がさんざん手を焼かされていると知る育人は、「ハハッ」と誠志をまねて笑った。  育人からおにぎり四個と、食べきりパックのチョコレート二袋を受け取って、誠志は「場所取っといてくれへん?」と頼んだ。 「ええ天気やし、外行こ。噴水んとこ」 「うん、わかった」  レジ待ちの長蛇の列に誠志を残し、育人は店を後にした。  グランドテラスのエントランス前には大きな広場があった。大きな階段状の噴水や遊歩道に沿って据えられたベンチ、オープンカフェなどを有し、品川有数の観光スポットであると同時に、オフィスで働く人々の憩いの場ともなっていた。  遊歩道に沿って植えられた桜の木々には、柔らかな新緑がちらほら見受けられた。桜の下のベンチで、育人が「おーい」と手を振っていた。誠志は隣に腰を下ろして、薄紅色の天蓋を見上げた。 「週末までもたんやろなあ。花見、行けんかったね」  残念がる誠志の横で、育人がおにぎりのフィルムをはがしつつ「別にいいじゃん」と肩をすくめた。 「また来年行けば。来年だめなら、その次で」  あーんと大きく口を開けて、育人が鮭にぎりにかぶりついた。 「それよりさ、見て見て、これ」  早々におにぎりを平らげた育人が、スクラブのポケットから一枚のはがきを取り出した。はがきには、まだ目も開いていない嬰児の写真が印刷されていた。その下に、「ありがとうございました」とメッセージがあった。 「これは?」  首をかしげた誠志に、育人は「初めて僕の顕微授精で生まれた子」と、満面の笑みを浮かべた。 「他院で五年近く治療されてて、うちに転院してもなかなか授からなくて……これでダメなら諦めるって最後の移植だった。無事に生まれて、本当に良かったよ」  最先端の生殖医療に携わるからこそ、命の誕生には人智の及ばない領域があることを、育人はよく知っていた。毎日幾つもの命のたまごを温めても、そのなかで胎内に戻れるのはごく一部。さらに着床し、無事出産まで至るのはわずか数パーセントだ。誠志の恋人は、奇跡をつくる仕事をしている。 「ほな、お祝いせんと」  誠志がニッと笑い返した。今夜は何時に帰れるか聞くと、「九時までには」と返ってきた。 「ご馳走準備しとくわ」 「ありがとう!」  色違いの野菜ジュースを飲む二人の前を、大きなベビーカーが通っていった。手前がブルー、奥がピンクのベビー服を着た、男女の双子が乗っていた。恐らく誠志より年上の母親が、なるべく道の片側に寄せようと気を配りながら押していた。  ふいにそよいだ風で、誠志の頭上から桜の花弁が舞い落ちた。ひらりと一枚、男の子の額の上に着地した。つづけて降ってきた花びらを、女の子がもみじの手で掴んだ。  育人は双子のいとけないしぐさに目を細め、おもむろに立ち上がった。 「うーん……よしっ。頑張ろっと」  空に向かって両手を突き出し、育人が意気込んだ。誠志もすかさず腰を上げて、「俺も頑張ろっと」と育人の口調をまねた。どちらからともなく笑い合い、二人でオフィスへの道を戻った。  陽の光を透かした育人の前髪に、薄紅色がひとひら散っていた。誠志が優しく払ってやると、育人が「ありがと」とはにかんだ。 「……来年は、花見行こな。その次も、また次も」  誠志のささやきに、育人の頬に差した朱がより濃くなった。かわいい恋人に上目遣いで見つめられて、キスしたい衝動を堪える幸福は、なにものにも代え難い。誠志がふと見上げた空はどこまでも青く、たまご型の雲がぽっかりと浮かんでいた。 〈了〉
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