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品川ARTクリニックは、天日化成東京本社と同じ複合商業施設「グランドテラス品川」にあった。二十八階にある誠志の職場からは、二十階までエレベーターを下るだけなので、ドアツードアで五分とかからない。六時五十五分、誠志は慌ただしく離席した。
「締め日にすみません。八時半には戻ります」
営業支援部の島をそそくさと通り抜ける誠志に、締め日でてんてこまいの部員たちは見向きもしなかった。直属の部下数人だけが、「はあーい」と気だるげに返事をした。
クリニックのウェブサイトで写真は目にしていたが、実際訪れるのは初めてだった。受付は高級ホテルのフロントを思わせるしつらえで、誠志が駆け込むと、華やかな受付嬢がぺこりと頭を下げた。
「説明会にご参加ですか?」
「あ……は、はい。妻は先に……」
怜子の職場は駅を挟んで反対側のオフィスビルにあり、今日は現地集合の約束だった。
誠志が待合室に入ると、正面の大きな液晶モニターに「当院における体外受精のご説明」と映し出されているのが見えた。左右に十台ずつ据えられた二人掛けのコンパクトソファはほぼ満席で、一席だけ空いたソファから、怜子が誠志に手を振った。
「ごめん、遅うなって」
誠志が怜子の隣に腰を下ろしてすぐに、受付の奥から男女が三人現れた。
三人のうち、五十代半ばとおぼしき、白衣をまとった女性は院長だ。もう一人の女性は紫色のスクラブ姿で、怜子と同じ年頃に見えた。揃いのスクラブを着た隣の男性に、なにやら指示している。男性は二十歳そこそこか、高校生といわれても違和感がないほど幼げだった。彼は緊張した面持ちで、手元の資料に目を凝らしていた。
ほどなく始まった説明会では、まず院長が不妊治療の概要を語った。妊娠のしくみや、一般妊娠治療と高度治療の違いなど。恐らく怜子はとっくに心得ているものだが、誠志は初めて知る内容が多かった。当事者意識の欠落を責められているかのようで、どことはなしに居心地の悪さを覚えた。
精子と卵子を身体の外に取り出して受精させる「体外受精」は、高度生殖医療、略してARTに分類される。なお、しばしば混同される「人工授精」は、あらかじめ洗浄・濃縮した精子を子宮内に直接注入する治療方法で、一般妊娠治療の一種だ。「タイミング法」で妊娠に至らなければ人工授精へステップアップし、それでもだめならARTへ移行する。あるいは、精液検査の結果が人工授精に必要な最低ラインに満たない場合、人工授精は飛ばしてARTに臨む。誠志たちのケースは後者だった。
体外受精のうちでも、精液から一匹の精子を選び出して卵子に注入する方法は「顕微授精」と呼ばれる。精子の状態が特に悪く、卵子にふりかけただけでは受精が困難な場合に採用される方法とのことだった。
説明が受精卵の発達過程に及んだところで、院長は隣に控えていた女性にマイクを託した。女性は「培養・検査部門長の原田です」と名乗り、受精卵の培養と凍結、移植について説明をつづけた。
スライドショーに、受精卵の写真が次々と映し出された。分割を繰り返して発達し、三日目に「初期胚」として凍結保存できる。あるいは五、六日目まで培養を継続し、「胚盤胞」と呼ばれる成熟した受精卵として凍結することも可能だという。透明なアメーバにしか見えないそれが、人間の赤ん坊になるとは想像できず、誠志は密かに肩をすくめた。
ふと原田の横に目をやると、くだんの若い男がノートパソコンでスライドを送っていた。ダークブラウンの前髪が落ち掛かる柳眉の下で大きな瞳がまたたき、長いまつ毛がふるえた。きれいな卵型の顔は色白で、ベージュピンクの唇がよく映えた。少女のように愛らしいかんばせだが、まなじりがツンと上向きのつり目は勝ち気そうだった。アンバランスな美貌に、誠志はいつしか見入っていた。
「――それでは、当院の取り違え防止システムについて、胚培養士の五十嵐よりご説明いたします」
原田がマイクを下ろし、隣の男に手渡した。五十嵐と呼ばれた男は「は、はいっ」と声を裏返して立ち上がり、緊張しつつもバトンタッチした。
「ええと……ただいまご紹介にあずかりました五十嵐です」
可憐な見た目に反して低い声で、五十嵐が説明を始めた。精子や卵子などの検体には、夫婦ごとに色分けしてID番号を明記する。移動の際は、必ず二人一組でダブルチェックを行う。同じ作業台に、違う夫婦の検体を出すことは厳禁――。
たびたび言葉につまったが、五十嵐の説明はわかり易かった。ARTの手順については患者が自力で調べられても、取り違え防止のプロトコルは病院ごとに異なるため、直接聞かないとわからない。怜子も熱心に聞き入り、徹底した管理手順に安堵していた。
説明会は一時間ほどで終了した。その後、個別の質問を受けつけるとのことで、参加者たちが院長の周りに群がった。怜子は原田に近づいて、なにやら話し込んでいた。
怜子の後ろで手持ちぶさたにしていた誠志は、原田の後ろで同じく所在なげにしていた五十嵐に気づいた。
「五十嵐先生」
誠志が話しかけると、五十嵐は飛び上がって驚いた。
「せ、先生じゃないですよ! 僕は培養士なので……」
恐縮する五十嵐はますます幼く見えた。胸元のネームタグには、「五十嵐育人」とフルネームが記してあった。
「いくと、くん?」
「えっ? あ、はい」
だしぬけに名を呼ばれ、育人がハッと顔を上げた。五センチほど低い位置から見上げてくる育人に、誠志の口元がほころんだ。
「ヒトを育む……か。このお仕事にぴったりですね」
誠志の言葉に育人は一瞬きょとんとしたが、すぐに「ありがとうございます」と破顔した。
原田との話を終えた怜子が、誠志の背中をポンと叩いた。
「お待たせ。ごめんね、誠志くん、会社戻らなきゃいけないのに……」
怜子が心苦しそうに言った。「怜子さんもでしょ」と誠志が返し、夫婦のやりとりを見ていた育人が、「大変ですね」といたわった。
「お二人ともお忙しいなかお運びいただいて、ありがとうございました」
育人に深々と頭を下げられ、誠志が「いえいえ」と両手を振った。
「僕は職場、このビルなんで。二十八階までエレベーターでぴゅーん、て」
誠志がニッと笑ってみせると、育人が「そうなんですか」と感心した。
「ええ。もしかすると、九階とかですれ違ってたかもしれんですね」
「ホントですね」
九階はレストラン街とオフィスフロアの境目で、中間ロビーになっている。オフィス行きのエレベーターが並ぶ横に、コンビニと、オフィス従業員専用のラウンジがあった。
和やかに言葉を交わす誠志と育人を見て、怜子も微笑んだ。
「五十嵐さんも、胚の培養を?」
怜子が聞くと、育人は「とっ、とんでもないです」と泡を食った。
「僕はまだ見習いで……主に、精液の処理を担当させていただいてます」
「へえ、それじゃお世話になってるのは僕か」
初対面にしては気安過ぎる誠志の口ぶりに、怜子がたしなめるような目を向けた。しかし育人は大真面目で、「こちらこそお世話になってます」と頭を下げた。
「これからも、大切にお世話させていただきますね」
ある意味滑稽にもとれる台詞だったが、育人のまっすぐな視線を受けて、誠志はにわかに息をのんだ。
「誠志くん、そろそろ」
怜子に促され、誠志ははたと我に返った。
「あ、うん――五十嵐さん、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」
姿勢を正していとまを告げた誠志に、育人が「こちらこそ」とはにかんだ。
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