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 年が明けて間もなく、怜子は三度目の採卵日を迎えた。  不妊治療では、女性の月経開始日から、次の月経が始まるまでを一周期と数える。説明会の直後から採卵周期に入った怜子は、卵子を育てるための自己注射を毎日腹部に打ち、十二日目に初めての採卵に臨んだ。採れた卵子は、四十歳にしては多めの十個。だが受精させられない未熟卵が三個、三日目までに成長が止まってしまった胚が四個と脱落していき、残りの三個も胚盤胞には育たなかった。気を取り直して臨んだ二度目の採卵も似た過程をたどり、多少のことではめげない怜子もさすがに落胆していた。  採卵はいつも朝一番に行われる。誠志はオフィスでメールをチェックしながら、ちらりと時計を見やった。時刻は八時五十五分。怜子は二十階で術衣に着替えた頃だろう。  品川ARTクリニックの採卵件数は、年間二千件を数える。休診日は元旦のみで、毎朝五、六件は採卵が入っている。怜子によると、患者一人あたりの施術時間は十五分ほどで、十一時にはその日の採卵が完了するらしい。  朝の新着メールは、主にアメリカからのものだ。時差の関係で、日本時間の未明あたりに発信されるメールが多い。駐在員宛ての返信をしたためていたら、誠志のスマートフォンがふいに振動した。いつもなら個人用の端末を勤務中につかうことはないが、液晶画面に表示された「品川ART」の文字に目をみはった。怜子になにかあったのだろうか――。 「はい、二葉です」  誠志はスマートフォンを手に席を立った。電話会議向けにパーティションで区切られた一角へすべり込むと、電話から『もしもし』と遠慮がちな声が聞こえた。 『お仕事中に申し訳ありません。今、少し、よろしいですか?』  みずみずしい低音に聞き覚えがある気がしたが、誰のものか思い出せなかった。誠志の戸惑いを察したらしく、相手は『あの、僕、五十嵐です』と名乗った。 『培養士の――「ヒトを育む」、五十嵐です』  誠志の頭で、三カ月前の説明会で目にしたきれいな顔と、電話の声がつながった。 「ああ、『育人くん』か。どうされました? 妻になにか……」  そう口にしかけたところで、誠志は育人の言葉を思い出した。育人が担当しているのは、怜子の卵子ではない。誠志の精液だ。 「……それとも、僕の『検体』に問題が?」  誠志が声をひそめた。数秒間の沈黙を経て、育人が『大変恐縮ですが……』と切り出した。 『クリニックまでお越しいただけませんか? 今すぐに』  五分後、誠志がクリニックを訪れると、受付嬢が心得た様子で「少々お待ちください」と内線を掛けた。すぐに育人が飛んできて、誠志は待合室とは反対側の廊下に連行された。 「お呼び立てしてしまってごめんなさい。どうしても二葉さんのご協力が必要で……」  廊下の突き当たりに小部屋があり、ドアプレートに「採精室」と記されていた。育人がドアを開くと、消臭剤の香りが漂った。  室内は二畳ほどで、中心に革張りのシングルソファが置かれていた。正面に壁掛けの液晶モニターが据えられており、ネットカフェの個室を思わせた。 育人は誠志をソファに座らせて、誠志の足元にひざまずいた。見上げてきた育人と目が合い、誠志は「あのう」と口を開いた。 「やっぱり、僕の精液に問題があったんですよね?」  採卵では、医師が女性の卵巣から卵子を採取した直後、胚培養士が夫の精子をふりかけるか直接注入して受精させる。採卵に臨む際、女性は夫をともない院内の採精室で精液を採取するか、あるいは当日の朝自宅で射精したものを所定の容器に収めて持参する。どちらも妊娠率は変わらないとのことで、怜子が選んだのは後者だった。  今朝、誠志が怜子に託した検体の数値が芳しくなく、受精につかえなかったのだろう。誠志は詫びを口にしかけたが、育人が「違うんです」とかぶりを振った。  育人が思いつめたような目で誠志を捉えた。 「二葉さんの血液型を、教えてください」  初診の際に提出した問診票で、院側は把握しているはずだ。ダブルチェックだと気づき、誠志は「A型です」と答えた。 「……やっぱり」  育人が目を伏せてつぶやいた。  戸惑う誠志に、育人が「お願いがあります」とあらたまった。 「今ここで、採精していただけませんか? 奥様の提出された検体が、二葉さんのものではない可能性があります」 「は……はい?」  育人の言葉がにわかにのみ込めず、誠志は目を白黒させた。育人は心苦しそうに顔を上げて、「検体の数値が」とつづけた。 「これまでとあまりに違っていたんです。もちろん、男性の体調によって数値はだいぶ変わってきますが、ここまで大きな変化は僕も見たことがなかったので……」  育人がポケットからA4用紙を取り出して、誠志に手渡した。そこに記された数値を見て、育人は愕然とした。運動率70パーセント、奇形率20パーセント、直進率75パーセント。濃度に至っては2億毎ccと、いつもの誠志の値を三倍近く上回っていた。 「取り違えの可能性も考慮して、取り急ぎ、検体の血液型検査を行いました。結果はB型でした」  言葉を失う誠志に、育人が「時間がありません」と告げた。 「今日は奥様を入れて五件、採卵が入っています。本当は奥様が最初の予定だったんですが、先生に相談して最後に回してもらいました。ですが精液処理もありますので、あと二十分以内に二葉さんの検体が必要です」 「ちょ、ちょっと待って」  誠志はめまいを覚えて、育人の言葉を遮った。 「今、ここで、二十分以内に出せちゅうことですか?」  動揺のあまりつめ寄ると、育人は悲壮な面持ちで「おっしゃる通りです」と答えた。 「無茶なお願いだとは重々承知しています。でも、精液がないと採卵できないんです」  育人の言う通りだった。凍結・解凍で壊れることがほぼない受精卵と異なり、受精前の卵子はもろく、凍結保存しても無事に解凍できるとは限らない。解凍できても、その後受精させて胚盤胞まで育つ可能性は、受精させてから凍結する場合と比べて著しく低い。  怜子が別人の精液を持ち込んだ理由はわからない。だが、怜子の真意がどこにあるにせよ、この日のために毎日自己注射を打ち、たまごを育ててきた彼女の努力を無駄にはしたくなかった。  育人が誠志の手に検体容器を握らせた。フタと本体のラベルに、誠志の氏名とID番号が赤色で印字されていた。 「僕は外しますので、採精が終わられましたら、そちらに置いてください」  育人が部屋の片隅を指さした。郵便受けのような小さな扉があり、育人が取っ手を引くと、カウンターがうかがえた。隣の部屋とつながっており、検体の受け渡しができるようになっていた。  それでは……と育人が去って、小部屋には誠志が独り残された。液晶モニターの下の書棚に、成人指定のDVDや雑誌、写真集などが並んでいた。ふくよかな乳や尻を晒す女たちの姿に、誠志はげんなりとため息をついた。  誠志はその方面に淡白なたちで、自慰も週に一、二度するかどうかだった。今朝出したばかりなのに、今すぐ射精しろなどと、土台無理な話だ。  プラスチック容器を握り締めたまま誠志が呆然としていたら、ドアがコンコンと遠慮がちにノックされた。 「あの……大丈夫ですか?」  ドア越しに尋ねられて、誠志は乾いた笑いを漏らした。 「いやー、あかん。どうにもならんですわ」  状況のままならなさに、笑うしかなかった。 三カ月連続の採卵で、怜子の薄い腹には、自己注射の内出血の跡がいたるところに残っていた。「グロいよねえ」と苦笑していた怜子の顔が頭をよぎり、誠志を無力感が(さいな)んだ。  かちゃりとドアが開き、育人が入ってきた。育人は神妙な顔で誠志の正面にしゃがむと、誠志の手から採精容器を取り上げた。 「い……五十嵐さん?」  育人は誠志の戸惑いを意に介さず、誠志の開いた両足のあいだに身を乗り出した. 「申し訳ありませんが、こちらとしても、検体がないとどうにもなりません」  育人が誠志のベルトを外し、スラックスの前をくつろげた。 「ちょっ……い、五十嵐さんっ!」  誠志は慌てて腰を引こうとしたが、育人が誠志の内腿をわしづかみにして阻止した。 「お願い……お願いですから、出してください。でないと、たまごが死んじゃう。そんなの耐えられない――」  くっきりした二重のつり目が水気を孕み、熱っぽいまなざしで誠志を捉えた。誠志が絶句した隙に、育人が誠志の股間をまさぐり、ボクサーブリーフの窓から陰茎を取り出した。 「うあ……っ!」  誠志が抵抗する間もなく、育人の小さな口が柔らかいペニスをのみ込んだ。熱い舌で絡め取られ、口腔の奥へと導かれて、誠志の肩がびくんと跳ねた。  育人はすぼめた唇でペニスを支え、裏筋に舌のへらを密着させてすり立てた。端正な顔立ちを崩し、リスのように頬袋をふくらませてフェラチオにいそしむさまが、誠志の劣情を否応なくかき立てた。  誠志はもともとゲイ寄りのバイセクシュアルだ。女性とも性交できるが、自分からふれたいと思うのはもっぱら同性だった。ゆえに、通常の夫婦生活より効率的に「ゴール」を目指せる不妊治療には、内心助けられていた。  説明会で目を奪われた美貌が、誠志に奉仕している。毎日働く職場から、ほんの八階隔てただけの場所で――。倒錯的な状況に興奮を禁じ得ず、誠志の下肢に熱がわだかまった。むくむくと()ち上がった陰茎を、育人が頬の裏側の肉でしごいだ。 「っは……でそうに、なったら、おしえてください……」  緩急をつけてペニスをしゃぶるあわいに、育人が低くささやいた。誠志には返事をする余裕がなく、かろうじてうなずいた。  熱く猛るペニスの上で、育人の頭が小刻みに揺れた。かたちの良い後頭部に流れる髪を撫でてみると、さらりとした手ざわりだった。無意識のうちに手ぐしで()いていたら、誠志の手の動きに合わせて、育人が誠志の陰嚢を揉みはじめた。 「いっ……い、いがらしさ……っ」  ルックスは少女のようでも、育人はがっしりと男らしい手をしていた。大きな手で袋を揉みしだかれながら、ストローよろしく竿を吸い上げられて、誠志の腰がビクビク跳ねた。  誠志が最後に男と寝たのは、怜子とつき合う前だった。育人の採精は「治療」に過ぎず、色恋の意図はない。頭ではわかっていても、こうして間近に感じると、自分がいかに飢えていたかを思い知らされた。  育人はおちょぼ口で輪をつくり、誠志の根元とカリ首を行き来した。唾液と先走りにまみれたペニスが、育人の柔らかな唇と擦れ合って、ちゅぷちゅぷ濡れた音を立てた。亀頭をぱっくり咥えられたまま、舌先で鈴口をえぐられた。その瞬間、誠志の下肢を電流のような性感が駆け抜けた。 「あ、あかん、あかんあかん……いがらし、さっ、ン……も、でる、出てまう……っ」  ソファのひじ掛けを握り締めて、誠志が情けない声を漏らした。すると育人は誠志のペニスを吐き出して、そっと根元を握った。 「前かがみになってください。容器のなかに出しましょう……そう、そうです」  誠志の思考は混沌としていたが、なんとか指示通りに背を丸めた。育人は右手で誠志のペニスをしごき、左手の容器めがけて射精を促した。  ほどなく、とばしりがプラスチックをパタパタ打つ音がした。誠志の腰にわだかまっていた熱がみるみる抜けていった。 「はあ……で、でた……ぁ」  誠志は深く長い息を吐き出して、ソファの背にもたれた。呆然とする誠志の前で、育人はてきぱきと誠志の下着を直した。  ズボンのファスナーを上げられたところで、誠志はようやく我に返った。 「すっ、すみません!」  慌ててベルトを締め直した誠志に、育人が「いえ、こちらこそ」と返した。 「申し訳ありませんでした。こんな、患者様に無理やり……」  採精容器を握り締めて、育人が言いよどんだ。深々と頭を下げられて、誠志はますます縮こまった。 「そんな、謝らんといてください。悪いのはこっちやし……僕独りやったら、きっと出されへんかった」  誠志が早口でまくし立てた。育人はおずおずと顔を上げて、「お役に立ちましたか?」と聞いた。 「そらもう、めちゃくちゃ助かりましたわ!」  誠志の熱弁に、育人があっけにとられた。育人がぱちりと目をしばたかせて、誠志は「あっ……」と凍りついた。 「えろうすんませ……す、すみません。こないな、やのうて、その……こんなオッサンに言われたら、気色悪いですよね」  いつもなら標準語などたやすいのに、冷静になろうとするほど強く訛った。誠志のたどたどしい言葉遣いに、育人がふき出した。 「お役に立ててよかったです。これで奥様の卵子が助かります。貴重な卵子を無駄にしてしまうほど、つらいことはないですから」  育人は感慨深げに言って、採精容器を大事そうに抱えた。きれいな微笑に誠志が見とれていたら、育人が不思議そうに首をかしげた。誠志は気恥ずかしくなり、「いや、その」と口ごもった。 「仕事熱心なんですね、五十嵐さんは」  まだ少しあやしい標準語で誠志が言うと、育人の表情がパッと明るくなった。 「はいっ。いのちを――ヒトを育む、大事な仕事ですから。頑張ります!」  そう意気込んで、育人は採精室を辞した。  二畳半のスペースで再び独りになった誠志は、今しがたの出来事を思い返した。誠志のものを懸命に頬張る育人のけなげな面差しも、つぼみがほころぶような笑顔も、誠志の脳裏にくっきり焼きついていた。  誠志は夢見心地のまま、ふらふら危うげな足取りで、エレベーターに向かった。
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