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 採卵から六日経っても、怜子は誠志になにも言わなかった。  調達部門で企画管理を主とする怜子の課は、来年度予算策定に向けた繁忙期を迎えていた。採卵当日も、休んだのは午前のみで、青い顔をしながら午後から出勤していた。  採卵手術を受けた患者は、採卵から三日目と六日目にクリニックへ架電し、胚の発達について培養士から説明を受ける決まりだった。最近の怜子は連日終電帰りで、すれ違いがつづいていたが、毎朝の出勤時には必ず顔を合わせた。なにも言わないということは、今回もだめだったのだろうと察した誠志だったが、「検体」の件について話せていないことが気にかかっていた。 『今夜、家で夕飯食べませんか?』  通勤電車に揺られながら、誠志は怜子にスマートフォンでメッセージを送った。ほどなく履歴に「既読」と表示されたが、怜子から返信はなかった。  月の半ばで、誠志の仕事は比較的落ち着いていた。七時には退社し、駅ビルのデリカッセンで二人分の夕食を買って帰った。怜子が好きな豆のサラダと雑穀のカンパーニュ、魚介のテリーヌ。  温かい料理を選ばなかったのは、ことの顛末(てんまつ)を予期していたからかもしれない。怜子の帰宅は、日付が変わってからだった。 「お疲れさま、怜子さん」  先に食事も風呂も終えた誠志が、パジャマ姿で出迎えた。怜子は夫が就寝済みだと思っていたらしく、驚いた様子だった。一瞬見開いた目をふと逸らし、怜子が「ごめんなさい」と謝った。 「今日は一日、バタバタしちゃって……」 「ええよ、気にせんと。もうすぐ予算審議会やもんね? 晩メシ冷蔵庫にあるから、よかったら食べて」 「ありがとう」  怜子は自室にコートとバッグを置いてから、リビングに戻ってきた。ソファでCSの海外サッカー中継を見ていた誠志の横に腰を下ろして、デリのテイクアウトを食べ始めた。  硬いパンをかじる合間に、怜子が消え入りそうな声で「ごめんなさい」と繰り返した。誠志は妻に向き直り、「せやから、ええって」と微笑んだ。 「忙しいのわかってんのに誘ったの、こっちやし。怜子さんは悪うない」  すると怜子は弱々しくかぶりを振って、「違うの」と言った。 「採卵、今回も全滅だった」  怜子はパンを皿に置き、がっくりと肩を落とした。  卵子は七個採れたが、三日目まで残った初期胚は二つ。いずれもグレードが良かったので、その時点で凍結はせず、培養を継続した。だが両方とも分割が止まってしまい、胚盤胞にはならなかったという。 「ホント、ポンコツよね。私の身体って」  自嘲がちに笑う怜子を、誠志が静かに見つめた。 「そないなことあれへん。怜子さんがポンコツなら、俺の方がもっとポンコツや」  誠志が言うと、怜子がにわかに息をつめた。怜子が例の検体について口を開くかと思い、誠志は黙って妻を見つめた。しかし彼女は寂しげに目を伏せて、食べかけのテイクアウトを片づけた。 「ごめんなさい、なんだか食欲がなくて……残りは、朝ご飯にいただきます」  冷蔵庫に向かった足で、怜子は自室に引き上げた。 取り残された誠志がテレビを見ると、ひいきのチームがだめ押しの三点目を入れられたところだった。誠志は顔をしかめてテレビを消した。  四周期連続の採卵は負担が掛かり過ぎるとのことで、怜子の治療は一周期休みとなった。  締め日が近づくにつれて、誠志も仕事が立て込んできた。深夜まで残業がつづき、夕食はコンビニで調達して自席で済ませることも多かった。  その日は受発注システムトラブルが営業支援部に混乱をきたし、ようやく解決したのは定時過ぎだった。部員総出で残務処理にあたったが、誠志の部下たちは皆、月末の残業過多で疲弊していた。誠志は自分が泊まり込む覚悟で、彼女らを先に帰らせた。  十一時を回ると、オフィス内もだいぶ閑散としてきた。誠志はひと段落したところで、九階のコンビニに向かった。昼食は、トラブル対応の合間にあんパンを牛乳で流し込んだのみ。夕食も食いっぱぐれて、空腹は限界に達していた。  ランチタイムには芋を洗うような店内も、この時間だと人気(ひとけ)まばらだ。弁当の陳列棚はほぼ空で、おにぎりや巻きずしがちらほら残っているだけだった。誠志が最後の鮭にぎりを手に取ると、背後で「あっ」と聞き覚えのある声がした。 「二葉さん、こんばんは」 「五十嵐さん」  振り向いた誠志に、育人がぺこりと頭を下げた。顔を合わせるのは怜子の採卵日以来だ。不妊治療の一環とはいえ、思いがけず無防備な姿を晒してしまった相手にどう接するべきか、誠志はとっさに迷った。 「こ……こんばんは」  ひとまず会釈を返すと、誠志を見上げてくる育人の表情は穏やかだった。説明会で見たときと、なんら変わらない。くだんの採精などなかったかのようで、誠志は妙に意識している自分が恥ずかしくなった。あれはあくまで検体採取に過ぎず、フェラチオ呼ばわりする方が不謹慎なのだ。  育人はクリニックのスクラブ姿で、手には栄養ドリンクを握っていた。 「残業ですか? 大変ですね」  誠志がねぎらうと、育人が「二葉さんも」と返した。その目がちらりと鮭にぎりに向けられたことに気づき、誠志は「いります?」と差し出した。 「えっ! い、いえ、そんな、二葉さんのおにぎりじゃ……」 「若い子が遠慮せんと。僕はパンでも食べますんで」  誠志が手渡した鮭にぎりを、育人は拒まなかった。好物なのだろう、「ありがとうございます」と頬を染めた。素直な反応に、多忙のあまり荒みがちだった誠志の心が和んだ。  会計を済ませて、二人並んで外に出た。コンビニの自動ドアのわきに、従業員用ラウンジの入り口があった。 「僕、なかで食べて行きます」  ラウンジを指さして、育人が言った。クリニック内は飲食禁止なのだ。 ふと離れがたさを覚えた誠志に、育人が「よかったらご一緒しませんか?」と聞いた。心のうちを見透かされたようで誠志はドキリとしたが、「喜んで」と冗談めかして返した。  広々としたラウンジに、ファミレス式のソファ席がずらりと並んでいた。窓際のカウンター席からは、ビル街の夜景を一望できた。育人はカウンターの奥に座り、誠志も隣に腰掛けた。 「培養士さんってお忙しいんですね。いつもこんなに遅いんですか?」  惣菜パンの袋を破り、誠志が聞いた。育人はおにぎりのフィルムを左右にそっと引きながら、「いつも……ではないです」と答えた。 「今は、仕事上がりにマウスピースの練習してるんです。院内試験が近いので」 「マウスピース、ですか?」  首をかしげる誠志に、育人は「って言っても、わかんないですよね」と苦笑した。 「精子や卵子って、ものすごく小さいじゃないですか。だから、こう……顕微鏡で見ながら、マウスピースで息を吸ったり吐いたりしてピペットを操作するんです」  育人が唇をとがらせて、ふうっと息を吹くしぐさをした。心ならずも先日の採精シーンが頭をよぎり、誠志は育人の唇から目を逸らした。誠志の動揺をよそに、育人が説明をつづけた。 「院内試験に合格したら、患者様の胚を扱えるようになるんです。だから、動物の胚で練習するんですけど、もう口が()りそうで……」  屈託なく笑う育人に(やま)しさを覚えて、誠志はごまかすようにパンをかじった。 「試験って、難しいんですか?」  なんの気なしに聞いた誠志だったが、育人はみるみる表情を曇らせた。 「あ……すみません、聞いちゃまずかったですか?」 「あっ、いえ、そうじゃなくって、僕……この試験、もう三度目なんです」  育人は軽く笑ってみせて、言葉をつづけた。 「ストレートで通る人もいるし、大体みんな二度目で受かるのに、僕はまた落ちちゃって。センスないのかなあって……でも、絶対諦めない。おこがましいですけど、僕のちからでコウノトリを呼び寄せたい。患者様に、赤ちゃんを抱かせて差し上げたいんです」  育人の真剣な面差しが、誠志の目を釘づけにした。目標に向けて七転び八起き、ひたすら研鑽を積む不器用な姿――。誠志は既視感を覚えた。怜子の求婚が誠志の琴線にふれたのは、正にそれが理由だった。育人が妻と重なって見えて、誠志は息をのんだ。  誠志の沈黙を誤解したらしく、育人が「すみません」と恥じ入った。 「一人で熱くなっちゃって……半人前なのに、口ばっかり。試験受かってから言えって感じですよね」  育人の自嘲を打ち消すように、誠志が「受かりますよ」ときっぱり言った。 「試験、絶対受かります。センスとか関係あれへん。五十嵐さん、この世で一番すごい才能て、なんだかわかります?」  誠志の強い視線に射抜かれて、育人の瞳が戸惑いに揺れた。 「え……なん、だろう……なんですか?」 「努力する才能です」  誠志はニカッと、人懐っこい笑顔をみせた。 「どんだけ打ちのめされても、苦しゅうても、諦めんと努力しつづけられる才能ですわ。五十嵐さんにはそれがある」  熱っぽく語りながら、誠志は育人の肩に手を置いた。華奢で頼りなげな感触とは裏腹に、きっと多くの夢を――いのちを、支えるであろう肩だった。 「なんちゅうても、『ヒトを育む』育人くんやから。絶対ええ培養士になれますって。僕が保証します!」  改めて育人の肩をぽんと叩き、誠志が激励した。育人はぽかんとして誠志を見つめていたが、やがて赤い顔でうつむいた。 「あ……ありがとう、ございます……」  小さな口でおにぎりをかじる育人は、かわいらしい小動物を思わせた。誠志はつい気安く接し過ぎたかと悔やんだが、育人の横顔から嫌悪感は見てとれなかった。  窓の外では、けぶる雨に色とりどりのネオンがにじみ、幻想的なモザイク模様を描いていた。
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