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6
三度目ならぬ四度目の正直で、怜子の採卵は成功裏に終わった。前回の反省を踏まえて、今回は三日目にグレードの良かった初期胚三つのうち一つを凍結した。残り二つは培養を継続し、片方は途中で分割が止まってしまったが、もう片方は五日目で胚盤胞になった。
次の周期で、怜子は初めての胚移植に臨んだ。移植周期では自己注射が必要ないが、ホルモン補充のための飲み薬と経皮吸収パッチが処方された。怜子は飲み薬が合わなかったらしく、副作用の吐き気に悩まされた。嘔吐のたびに目元を濡らし、「注射の方がマシだわ」とこぼす妻に、誠志はなにもしてやれなかった。
年度初めは慌ただしく、夫婦とも終電帰りの日がつづいた。誠志は深夜のコンビニへたびたび足を運んだが、育人に遭遇することはなかった。避けられているのかもしれないと寂しく思ううちに、胚移植日を迎えた。
胚移植は、初期胚と胚盤胞を立てつづけに子宮へ戻す「二段階移植」と呼ばれる方法で行われた。先に初期胚を移植することで、子宮が着床に向けたシグナルを出しはじめる。数日後、準備万端となったところで胚盤胞を戻すのだ。妊娠率は怜子の年齢で七割ともいわれ、現状における妊娠への「最短ルート」だった。
これで子どもができれば、「夫婦」から「家族」になる。そもそも怜子は出産ありきで誠志に求婚し、誠志も納得の上で婚姻届に判を押したのだ。結婚という一大プロジェクトの、幸福な帰結のはずだった。
だが、怜子は夫以外の男の子どもを産むのだと信じている。怜子が持参したB型の男の検体を、誠志が育人に導かれて射精したものにすり替えられたとは、つゆほども思っていないだろう。
怜子の行為は著しくモラルに反する。糾弾するのはたやすいが、誠志もすねに傷を持つ身だった。
両親からは、帰省のたびに「早く孫の顔を見せろ」と催促される。誠志は両親が不惑を過ぎてようやく授かった一粒種で、孫を切望するのも無理はなかった。だが誠志は、恋愛結婚に至るだけの情熱を異性に注げない。たびたび押しつけられる見合い話を断る口実も尽きてきた。そんな折、怜子の「オファー」は渡りに船だったのだ。
仕事に打ち込む彼女の姿はまぶしかった。努力が報われるとは限らない不妊治療にも、仕事と同じ懸命さで取り組む彼女は、誠志の頼れる妻だった。
夫婦の情は確かにあった。ただし、理性ではどうにもならない衝動や、執着含みのものではなかった。誠志は怜子を、自分のものに――自分だけのものにしたいと思わない。だからこそ、検体を差し替えられても、さほどショックを受けなかったのだ。自分が独り占めしたい相手は他に居るのだと、わかっていたのに気づかぬふりをした。
打算まみれの婚姻関係を押し通し切れない弱さは、お互い様だった。誠志に妻を責める資格はない。このまま目をつむり、怜子の妊娠・出産を見守る良き夫であればいい。それが最善だと、誠志は自分に言い聞かせた。
それなのに、おぞましい考えが頭から離れないのだ。
今回の移植が失敗すると、怜子の不妊治療はふりだしに戻る。怜子はきっと、次の採卵時もB型の精液を持ってくるだろう。そうすればまた、あの採精室で育人と――。
そんな期待は、命への冒涜だ。胚培養士の使命に燃える育人が知ったら、心の底から誠志を軽蔑するだろう。誠志自身、己のさもしさに虫唾が走った。それでも妄執から逃れられず、忌むべき劣情が誠志のなかでどろりと澱んだ
妊娠判定日は、胚盤胞移植から一週間後だった。怜子は日付が変わってからほろ酔いで帰宅し、寝支度を整えていた誠志に「だめだった」と告げた。
「やっぱり、私の腐ったタマゴじゃダメなのかしらね」
怜子がソファに身を投げて笑った。空虚な笑顔を見ていられず、誠志はソファの前に膝をついた。怜子と目線の高さを併せようとしたが、怜子はクッションに突っ伏して、顔を上げようとしなかった。
誠志は小さくため息をつき、「怜子さんのせいやない」と言った。
「俺のオタマジャクシかて、全然あかんねんから」
誠志の言葉に、怜子は顔を伏せたまま「そこは問題ないはず……」と口を滑らせた。直後、しまったというように怜子が凍りつき、そんな妻の様子に誠志は苦笑した。
「ごめんな、怜子さん。怜子さんはちゃんと対策打っとったのに。検体、俺のと交換してしもたんや」
怜子が飛び起きて、信じ難そうに誠志を見た。切れ長の目がうるみ、目元や口元などに年相応のしわが寄った。
「ごめんなさい……ごめんなさい、誠志くん」
誠志の尊敬する妻は、こういうときに泣くことをよしとしない。彼女が「女の涙」を見せる相手は、きっと他に居るのだ。打ちひしがれる妻を、誠志は黙って見つめた。
「……他の男のタネで妊娠しようとした妻を、非難しないの?」
怜子がおずおずと尋ねた。誠志は答えに迷ったが、ややあって本音を口にした。
「そっちの方が優秀なら使たらええって言うたんやけど、育人く……培養士さんが、あかんって。せやから差し替えたんよ」
優しい嘘すらついてやれない自分はなんと不甲斐ない夫かと、誠志は慚愧した。気の毒な妻は「あはっ」と乾いた笑いを漏らし、再びソファに横たわった。
「なんだか、もう……なんなのかしらね……」
怜子の声は疲れ切っていた。瞑目し、そのまま寝入ってしまいそうな妻に誠志が「怜子さん」と呼びかけた。
「俺、ここにおった方がええ? それとも、どっか行って欲しい?」
立ち上がった誠志の影が、怜子の平らな腹に落ちた。怜子は目を開けるのも億劫そうに、「どうかなあ」とつぶやいた。
「……一緒には、居たくないかも」
遠慮がちに言われて、誠志は「了解」とうなずいた。一旦自室に引き上げて、出掛ける準備を済ませてからリビングに戻ったが、怜子はソファに横臥したままだった。
「ほな、また」
玄関のドアを開けて、誠志がちらりと後ろを振り向いた。妻から「うん、またね」と返ってきた声は、先ほどよりも安らかだった。
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