56人が本棚に入れています
本棚に追加
7
誠志は終電で会社の最寄り駅に向かった。明日も朝には出社しなければならない。近くに宿をとるつもりだった。
グランドテラス品川の周辺には、宿泊施設が点在している。そのなかに、天日化成が社内出張者向けに割引サービスを契約しているビジネスホテルもあった。素泊まりなら七千円弱と、立地からすると破格だ。誠志がホテルを目指して歩いていると、ふいに「二葉さん」と声を掛けられた。振り向くまでもなく、誰に呼ばれたかわかった。
「育人くん」
私服の育人は、いつものスクラブ姿にも増して幼げだった。オーバーサイズのパーカーにスキニージーンズという格好が育人の華奢さを際立たせて、路上の暗がりでは少女に見まがいそうだった。
育人は斜め掛けにしたショルダーバッグを正し、「出張帰りですか?」と聞いた。誠志のキャリーバッグには、会社のノートパソコンと、数日分の着替えが詰めてあった。
「帰りっちゅうか、これから出るとこかな」
「前泊入りですか? お疲れさまです」
「うーん……まあ、そんなとこ」
歯切れの悪い誠志に、育人が首をかしげた。
「育人くんは仕事帰り? 相変わらず遅うまで大変ですね」
誠志が水を向けると、育人が「実は……」と切り出した。丁度そのとき、ぐうっと育人の腹の虫が鳴いた。
「あっ……す、すみませんっ」
暗がりでもそれとわかるほど赤面した育人に、誠志がふき出した。
「ハハッ、晩メシまだやの?」
「きょ、今日はちょっと、ばたばたしちゃって……」
育人がうつむいて口ごもった。誠志が「ほんなら、食い行きます?」と誘うと、育人は上目遣いで「はい」と答えた。
再開発地区の近未来的な風景から一歩踏み込むと、品川の路地裏には昭和情緒が色濃く残っていた。誠志が行きつけにしている小料理屋は、通りに置かれた目印の掛け行灯から数メートル奥に入った旗竿地に、ひっそりとたたずんでいた。
小ぢんまりとした店内に、カウンター席が五席と、テーブル席が二卓あった。誠志たちの他に客はおらず、カウンターの奥で若い板前が皿を拭いていた。色白で楚々とした雰囲気の、歌舞伎の女形を思わせる美丈夫だ。店主の息子の善幸だった。
カウンターに立っているのが善幸だと気づき、誠志は引き戸の前でぴたりと足を止めた。しかし、店のなかから「いらっしゃい、誠志さん」と呼ばれ、観念してのれんをくぐった。
誠志の後について入店し、物珍しげに店内を見回していた育人に、善幸が「もしかして、『イクト』さんですか?」と尋ねた。
「えっ、なんで名前を」
育人が目を白黒させて、善幸が意味ありげな微笑を浮かべた。
「それは……」
「あー、今からなんか、腹ふくれるモンて頼める?」
善幸の言葉を遮り、誠志がカウンターの端に腰を下ろした。育人も戸惑いつつ隣に腰掛けて、誠志と善幸を交互に見やった。
「うすいえんどうの卵とじはいかがです? 豆ごはんもつけられますよ。今朝、新鮮なのが入ったんです」
善幸の横で、育人が「わあ、いいですね」とはしゃいだ。無邪気な様子に、誠志が口元をほころばせた。
「それ頼むわ。あ、俺のは軽めでええよ」
「承知しました。お飲み物はいつもので?」
「ん、俺はな」
あいづちを打って、誠志は育人に「なに飲みます?」と尋ねた。
「あ……僕は、ウーロン茶で」
恐縮する育人に、善幸が「承知しました」とにこやかに繰り返した。
「すみません。僕、お酒弱くて」
育人がしおらしく謝ると、善幸は鍋に湯を沸かして「酒なんか飲めない方がいいです」と言った。
「オヤジなんて、今日も二日酔いで店出られないとか言って。板前失格ですよ」
えんどうのさやを手際よく剥きながら、善幸が肩をすくめた。
「おいおい、飲み屋の息子がそないなこと言うてええの?」
誠志が苦笑してたしなめた。善幸は「ええんです」と誠志の口調をまねて、沸いた鍋に豆を放り込んだ。
「オレが店継いだら、もっとドリンク充実させますよ。ノンアルコールカクテルとか、フレッシュジュースなんかも取り扱って……タピオカもいいなあ」
誠志の前に焼酎の水割りを置き、善幸が声を弾ませた。誠志は酒をちびちびやりながら、「大将の目ぇ黒いうちは、この店でタピオカ飲めへんやろなあ」と突っ込んだ。善幸は子どもっぽくむくれて、「誠志さんはいじわるばっかり」と毒づいた。
二人の気安いやりとりを見ていた育人が、「二葉さんは……」と遠慮がちに口を開いた。
「常連さんなんですか?」
誠志より先に、善幸が「ええ」と答えた。
「以前は週に三日とか……ご結婚されてから少しご無沙汰でしたけど、最近また贔屓にしていただいてます」
含みのある言い方に、誠志は渋い顔で黙りこくった。
善幸が火に掛けた親子鍋から、まろやかな芳香が漂った。茹で上がった豆を出汁にくぐらせ、溶き卵でとじて、皿に盛りつける善幸の手さばきは鮮やかだった。
おひつに蒸らしてあった豆ごはんが茶碗に盛られて、卵とじと一緒にカウンターに並んだ。ほかほかと湯気を立てる逸品に、育人が「わあっ」と目を輝かせた。
「温かいうちに召し上がってください」
善幸に促されて、育人が「それじゃ、遠慮なく」と茶碗を手に取った。誠志は育人の皿より軽めによそられた卵とじに箸をつけた。
「いただきます!」
山盛りの豆ごはんが、みるみる育人の胃袋に消えていった。育人はおいしい、おいしいと連呼しながら、「これなら週三で通っちゃいますね」と納得した。
「せやろ? ここの料理、めっちゃうまいんですよ」
気持ちの良い食べっぷりを微笑ましく思いつつ、誠志も卵とじに舌鼓を打った。育人の笑顔と料理の滋味深さに、すさんでいた心が温まっていくのを感じた。
「――て言うか、久しぶりですね」
ほどよく回ってきた酔いも手伝い、誠志が思い切って口にした。
「えっ?」
「育人くんに会うの。前回の採卵日ぶりや」
育人はリスのように頬袋をふくらませたまま、みるみる赤くなった。わかりやすい反応に、誠志は「ハハッ」と声を立てて笑った。同時に、育人から嫌悪を示されなかったことに胸をなでおろした。
「避けられとんのちゃうか思て、オッサン夜も寝られへんかってんで」
誠志が恨みがましさを装うと、育人は真に受けて「ごめんなさい」と眉尻を下げた。
「実は、顕微授精の試験に合格しまして……提携先の大学病院で研修してたんです」
育人が面映ゆげに打ち明けた。
「おっ、すごいやん! おめでとう!」
「二葉さんが励ましてくださったお陰です」
まだ中身の残った茶碗を一旦置き、育人が誠志に向き直った。猫を思わせるつり目でまっすぐ見つめられて、誠志はにわかに息を凝らした。
「僕、絶対諦めないなんて強がり言いましたけど、本当は……培養士向いてないのかなって、不安で仕方なかったんです。でも、二葉さんに勇気づけられて、もう一度頑張ろうって思えました」
ほのかに頬を染めて、育人が微笑んだ。まぶしさに誠志が目を細めるなか、育人が「ちょうど昨日から復帰したところなんです」と言葉をつづけた。
「ずっと憧れてた顕微授精の操作をはじめて任されて、感動しました。二葉さんたちご夫婦の胚も、いつか僕がお預かりできるかもしれません。そのときのために、手技を磨いておきたいなって……」
それまで穏やかに育人の述懐を聞いていた誠志が、ふいに顔を曇らせた。育人は「あっ」と漏らして、しゅんと肩を落とした。
「ごめんなさい。胚移植のこと聞きました。また採卵からでお辛いのに、僕は自分のことばっかり……」
ひざの上で拳を握り、下唇を噛んだ育人に、誠志が慌てて「ちゃうちゃう、そうやなくて」と弁解した。
「治療、しばらく休むと思います」
「えっ……」
育人が絶句し、店内に沈黙が訪れた。ややあって、カウンターの内側で片づけをしていた善幸が「オレちょっと、オヤジ見てきます」と奥の階段に向かった。
「睡眠時ナントカってやつで、たまに息止まってるんですよね。二日酔いでくたばられたんじゃ堪んないんで」
善幸の軽口に、誠志が「大将によろしゅう」と返した。善幸は「それじゃ、ごゆっくり」と片手を振って、場を辞した。
トントンと階段を上がる善幸の足音が途絶え、二人のあいだに再び沈黙が流れた。しかし、誠志の横顔を見上げる双眸は、言葉よりも雄弁に育人の懸念をつたえてきた。
誠志は力なく笑い、「言うてしもたんです」と打ち明けた。
「僕の精液ちゃうて、わかったこと」
育人が信じ難そうに目をみはり、誠志はことの顛末を話して聞かせた。淡々と語る誠志を育人は黙って見つめていたが、やがてぽつりと「愛してないんですか?」と聞いた。
「奥様のこと――愛して、らっしゃらないんですか?」
「愛かあ……」
誠志は自嘲がちに笑い、グラスの底に残った水割りをあおった。飲み慣れたはずの酒なのに、頭がぐらぐらするほど酩酊した。
「いーっつも、一所懸命なんよ。怜子さん。力になりたかってん。けど、俺じゃあかんてわかっただけやった」
空になったグラスを置いて、誠志は育人に向き直った。
「結局、自己満足の独り相撲や。『愛してる』て、どないな気持ちか俺にはわかれへん。怜子さんとは寝れるけど、寝たいて思う相手はもっと、他におるし……」
誠志の昏いまなざしが、育人を間近に捉えた。誠志が身体を少し前に傾けただけで、互いの吐息が合わさった。育人は一瞬びくんと肩を強張らせたが、茶色がかった瞳にとろりと微熱を帯びて、おもむろにまぶたを閉じた。
きれいな卵型の顔の、頬からおとがいへの優しい輪郭を、誠志の親指がたどっていった。鼻先数センチの距離で、誠志が口を開いた。
「怜子さんより、育人くんがええな――おんなじベッドに入るんは」
育人の頬を撫でながら、誠志があやすように言った。すると育人は愕然として目をみはり、苦しげに顔を歪めた。
ぱしんと乾いた音を立てて、育人の大きな手が誠志の手を叩き落とした。
「最低……そんなこと言う二葉さんは、最悪です」
今にも泣き出しそうな声で、育人が言った。去っていく背中をぼんやり眺めるだけの自分に、誠志は反吐が出る思いだった。
もはや起き上がる気力もなく、誠志はカウンターに突っ伏した。ほどなく階段を下りる足音がして、善幸の声が降ってきた。
「おーい、オッサン。ここで寝ないでよ」
営業時間外の気安さで、善幸が誠志を揺り起こした。誠志はカウンターにへばりついたまま、「ヨシちゃあん」と情けない声を上げた。
「あかんわ。今夜、お前んち泊めて」
誠志の肩を揺する善幸の手が一瞬止まり、
すぐに「はあっ?」と呆れた。
「なに言ってんだ、このゲス不倫野郎」
気心の知れた間柄ならではの辛辣さに、誠志が苦笑した。
「ゲス不倫て……そら、あんまりやない?」
「ホントのことだろ。しかも、若いって聞いちゃいたけどあそこまでとは……まさか未成年じゃないだろうな」
「ハハッ、さすがにないわ」
静まり返った店内に、遠くから車の音が聞こえてきた。音は徐々に大きくなって、店のすぐそばで止んだ。
「ほら、タクシー呼んでやったから、家でもホテルでも、どこへなりとも帰んな」
善幸が誠志を抱え起こして、強引に追い出した。「いやや、いやや」とくだを巻く酔っ払いに、善幸がフンと鼻を鳴らした。
「誠志さんって、いつもそう」
長いつき合いの相手に、酔ったふりは通用しなかった。誠志はすがるように善幸を見たが、取りつくしまもなかった。
「人に優しくするふりして、逃げてばっかり。いつまでも他人の夢に相乗りしてないでさ、自分に正直に生きたら? アラフォーのオッサンでも、まだ遅過ぎることないでしょ」
誠志をのれんの向こうに押しやって、善幸がさとした。
「ったく、一言多いわ……なんでもお見通しでかなわんなあ」
律儀な板前見習いは、店の門から通りまで誠志を見送った。誠志はタクシーに乗り込むと、窓を開けて善幸を見上げた。善幸は端正な唇に柔らかく弧を描いた。
「おやすみ――バイバイ、誠志さん」
元恋人の微笑を、誠志は「おう」と軽く受け流した。
「ほな、また」
タクシーが走り出し、誠志がふと後ろを振り返ると、善幸はまだ見送りに立っていた。リアウインドウ越しに目が合った瞬間、善幸があかんべえと舌を出した。年下の友人らしい気遣いに、誠志は破顔して前を向いた。
最初のコメントを投稿しよう!