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 ホテル暮らしも三日目を数える金曜の昼休憩中、誠志がコンビニのレジに並んでいると、ふいにスマートフォンが振動した。怜子からのメッセージだった。 『お話したいことがあります。今夜帰って来られる?』  そっけない文面に、首をかしげる猫のファンシーなイラストが添えられていた。誠志は同じ猫のスタンプで『了解です』と返し、順番の回ってきた会計を済ませた。  ゴールデンウイークを控えて、営業支援部は普段の月末以上に慌ただしかった。日本のカレンダーが適用されない、海外との取引の調整に追われるうちに、気づけば終電間際だった。発車一分前にプラットホームへすべり込み、誠志は安堵のため息を漏らした。  三日ぶりに帰宅したマンションは、灯りが消えたままだった。怜子が待ちくたびれて寝てしまったのかと思ったが、玄関に怜子の靴はなかった。大型連休までの営業日数が残り三日を切り、怜子も忙殺されているのだろう。  夫婦間でも義理堅い怜子は、きっと少しでも早く切り上げようと気を揉んでいるに違いなかった。誠志はキャリーバッグを自室に置き、リビングのソファに腰を下ろした。 「無理せんでええよ、と……」  怜子にメッセージを送ると、すぐさま返信があった。両手を合わせる猫のスタンプと、『今タクシーに乗りました』という一文だ。誠志は『お疲れさま』とスタンプを返した。  スマートフォンをコーヒーテーブルの隅に置くと、テーブルに置かれた一枚の紙が誠志の目にとまった。左上に「離婚届」と書かれたA3用紙を手に取り、誠志は不思議な感慨を覚えた。テレビドラマなどで間接的に知っている書式が今、目の前にある。怜子から婚姻届を渡された際にも同様の思いを抱いたが、戸籍謄本を入手する過程で多少の当事者意識は湧いた。しかし今回必要なのは、この紙切れ一枚だけなのだ。  書式の左側は、「夫」欄を除き、怜子の几帳面な筆致で記入済みだった。右側は証人欄だ。離婚には証人が二人必要となる。一人は怜子の母親で、もう片方の署名は友人のものだった。怜子の父親の名はなかった。  元通産官僚の父親は、怜子が物心ついた頃から厳格に接してきたという。怜子が私学最高峰といわれる中高一貫校を経て、父親の母校である旧帝大に進学し、一流企業でキャリアを築いてきたのは、ひとえに父親の期待に応えるためだった。優秀な長女に期待をかける父親はしかし、満足することを知らなかった。キャリアのために私生活を犠牲にしてきた娘が四十路に差しかかるなり、父親は怜子に「そろそろ子どもの一人でも産め」と要求した。  怜子に面と向かって言ったことはなかったが、誠志は怜子の父親を忌み嫌っていた。独善的な期待で娘を縛り、自己実現の道具にしている。確かに怜子は、父親の敷いたレールをひた走ることで、世間一般からみれば成功した人生を歩んできた。しかし、あの男は娘の血のにじむような努力にねぎらいの言葉ひとつ掛けることなく、次から次へと無理難題を突きつけた。誠志への求婚も、不妊治療も、父親に縛られつづける怜子の悲痛なあがきだった。  怜子が離婚について父親にどう話したのか――あるいは伏せたままなのか、誠志には知る由もない。ただ、誠志は自分との離婚が、怜子にとって父親の呪縛から逃れるきっかけとなるよう祈った。  誠志はソファにもたれて、CSのスポーツチャンネルをつけた。プレミアリーグの中継が始まってほどなく、玄関が開く音がした。 「ごめんなさい、遅くなっちゃって……」  怜子が息せき切らせてリビングに入ってきた。誠志は「おかえり、怜子さん」と微笑んで立ち上がり、冷蔵庫に向かった。 「お疲れさん。連休前て、ほんまにしんどいよなあ」  缶ビールを二本取り出してリビングに戻ると、怜子がソファに座って離婚届を手にしていた。空欄が埋められて完成した「紙切れ」を、怜子がしげしげと見つめた。  誠志は怜子の横に腰を下ろし、「はい」とビールを差し出した。怜子はA3用紙をテーブルに戻し、冷えた缶を受け取った。  誠志の指がプルタブに掛かり、プシュッと小気味よい音が立った。怜子がちらりと隣を見やり、自分も倣って缶を開けた。 「乾杯しよか」  誠志がニッと笑ってみせると、怜子はためらいがちに顔を上げて缶を掲げた。銀色のふちがコツンとぶつかる様子は、どことなくキスを思わせた。  身体の交わりを互いへの労わりで代替し、穏やかに暮らす選択肢もあったかもしれない。だが、モラトリアムの先に怜子の求めるものはなかった。誠志が温める恋慕のたまごも、いつか孵化して婚姻のくびきを逃れるだろう。  それでも誠志は、怜子との結婚を後悔していなかった。形骸化した婚姻関係の虚しさは、実際に経験しないとわからない。恐らく怜子も同じだろうと、誠志は傍らの妻を見やった。  怜子がビールを一気に飲み干した。不妊治療中はご無沙汰だった豪快な飲みっぷりを久しぶりに目にして、誠志は嬉しくなった。怜子は酒が好きだ。これからは、彼女が好きなものを、思うままに愛でる人生を歩んで欲しいと思った。 「怜子さん、一つだけ聞いてもええ?」  自分のペースでビールを飲みつつ、誠志が言った。怜子はほんのり頬を染めて「どーぞ」とうなずいた。 「あの、B型の検体は……怜子さんの、好きな男のもんやった?」  怜子は一気に酔いが醒めた様子だった。まじまじと見つめられて、誠志は「ほんなら、よかった」と微笑んだ。  彼女が課長に昇進したのと同じタイミングで役員に就任した、元調達部長。まだ怜子と知り合って間もなかった頃、接待の席で一度だけ顔を合わせた。「俺はB型だから空気が読めないんだ」と笑う男の、いかにも豪放磊落といった居ずまいが、誠志の頭をよぎった。  怜子の手のなかで、アルミ缶がみしりときしんだ。空になった缶を、手の甲が白くなるほど握り締めて、怜子が「ごめんなさい」とつぶやいた。 「……ごめんなさい、誠志くん。私、最後まであなたに甘えっぱなしで」  聡明さのにじむ一重の瞳から、ぽろりと透明なしずくがこぼれた。音もなく泣く怜子から目を逸らし、誠志は「お互い様や」と言った。うっすら結露のつき始めた缶が、手のひらにつめたく吸いついた。 「怜子さん、ありがとう」  万感の思いをこめて、誠志が言った。怜子が大きくしゃくり上げて、「ありがとう、ごめんなさい」と繰り返した。  液晶画面の向こうは宵の口だった。エースストライカーの鋭いシュートに観客が沸いた。惜しくもクロスバーを弾いたボールを、ツートップの片割れがすかさずゴールに押し込んだ。客席の盛り上がりが最高潮に達して、歓声が怜子の泣き声をかき消した。
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