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 ゴールデンウイーク、誠志と怜子はもっぱらマンションの片づけにいそしんだ。夫婦としての最後の「共同作業」だった。  怜子は片づけと並行して、引っ越し先の内見も進めていた。連休中日(なかび)、怜子に「決めてきた」と報告されて、誠志はそれが賃貸物件だと勝手に思い込んだ。しかし、その晩怜子が誠志に見せたのは、分譲マンションのパンフレットだった。 「えっ……か、買ったん?」  マンション購入祝いに奮発したワインを味わいつつ、怜子はこともなげに「ええ」とうなずいた。 「自分だけの城、ずっと憧れてたの。タワーマンションなんて三十年足らずでガタがくるってパパには反対されたけど。三十年後って私、もう七十よ? そんな先のこと考えて、今我慢するなんてバカみたい」  怜子がくすくす笑った。どうやら父親の影から抜け出しつつあるらしい。誠志は密かに安堵した。 「誠志くんは、しばらくここつかって。そんなに早くは決められないでしょう?」  そのあいだ家賃はちゃんと折半するし……との申し出を、誠志は慌てて固辞した。 「そんなんあかん。俺も、早く物件探すわ」 「でも誠志くん、優柔不断だからねえ」  怜子がため息をついた。 「一緒に住んでくれる人が見つかってから、探した方が早いんじゃない?」  冗談とも本気ともつかない口調で諭されて、誠志は苦笑いを禁じ得なかった。  連休の後半には、現マンションと怜子の新居を何度か行き来した。レンタルの軽トラックで荷物の大半は運び終えて、残った家具類は連休明けの週末に業者を手配した。  そうして連休最終日を迎え、怜子は誠志と暮らした部屋にいとまを告げた。  エントランスまで見送ろうとする誠志を、怜子が玄関先で「ここでいいよ」と制した。 「ありがとう、誠志くん。それじゃあね」  誠志に鍵を託して、怜子が笑った。結婚式ですら見なかった、晴れ晴れとした笑顔だった。誠志もつられて微笑み、「こっちこそ」と言った。  開いたドアから、五月の爽やかな風が部屋に吹き込んだ。怜子が「あっ」と思い出したように振り向いた。 「もしなにか忘れ物があったら、誠志くんの好きなように処分してくれていいから」  怜子の言葉を、誠志は「ありえへん」と笑い飛ばした。 「怜子さんが忘れ物やなんて、絶対ないわ」 「そうかしら? ならいいけど」  怜子は肩をすくめてドアを閉めた。  独りになった2LDKは、やけにがらんとしていた。誠志は冬眠明けの熊よろしく室内を歩き回り、ひとまずソファに腰を下ろした。テレビをつけたが、昼どきの中途半端な時間帯には、目ぼしい番組もやっていなかった。 「……忘れ物ねえ」  妙に怜子の言葉が気にかかり、誠志は空っぽになった部屋のドアを開いた。入居時と全く同じ風景は、まるで一年前にタイムスリップしたかのようだった。  怜子の部屋と誠志の部屋は、ほぼ同じ間取りだった。唯一の違いはクローゼットの位置で、誠志の部屋とは左右対称に据えつけられていた。  クローゼットの引き戸を開けると、片隅に見覚えのあるものが鎮座していた。 「これは……」  五〇〇ミリリットルの紙パックくらいの、黄色いプラスチック容器。前面に「針捨てボックス」と記したラベルが貼られていた。  不妊治療の自己注射につかった注射器やアンプルなどは、医療廃棄物として処理しなければならない。家庭ごみとして収集に出すことができないため、クリニックから貸与される専用の容器に捨てる決まりだった。満杯になったらクリニックに返却するのだ。誠志も何度か怜子にことづけられて、容器を返却したことがあった。  怜子がどんな意図でこれを残していったのかはわからない。ただ一つ確かなのは、これがなければ誠志がクリニックに足を運ぶことは二度となかったということだ。  誠志は容器を手に取り、軽く振ってみた。中身はまだ余裕があるようだったが、ふたはもう開かないようにロックされていた。治療を辞める前、最後につかったものだろう。  誠志の頭に、善幸の言葉がよぎった。 「……アラフォーのオッサンでも、遅ないかな。なあ、どう思う? 怜子さん」  プラ容器を手に、誠志は観念して微笑した。  連休明けの慌ただしさも、金曜日にはひと段落した。昼休み、誠志はコンビニに向かいがてら、二十階でエレベーターを途中下車した。クリニックの受付には、くだんのきれいな受付嬢が一人で座っていた。普段は三人体制だが、シフトで休憩をとっているのだろう。  誠志の顔を見るなり、受付嬢が「あっ」と小さく叫んだ。 「しょ……少々お待ちください」  首をかしげる誠志の前で、受付嬢は慌てて内線電話を手に取った。 「4021番様がお越しです」  品川ARTクリニックでは、不妊治療専門という特性ゆえか、患者が名前で呼ばれることはない。 「恐れ入りますが、しばらくお待ちください」  受付嬢は落ち着きを取り戻し、にっこりと笑顔を浮かべた。誠志は携えた紙袋から針捨てボックスを取り出して、「あのう……」と遠慮がちに言った。 「これを返しに伺っただけなんですけど」  誠志がプラ容器を差し出しても、受付嬢は営業スマイルを崩さず「お待たせして恐れ入ります」と繰り返すだけだった。  ほどなく、廊下の奥からぱたぱたと小走りに駆けてくる足音がした。所在なくうつむいていた誠志が顔を上げると、緊張した面持ちの育人と目が合った。  走ってきたものの言葉を選びあぐねる様子の育人に、誠志が「育人くん」と切り出した。 「お疲れさん。連休どないやった?」 「えっ? あっ、はい、仕事でした」  とっさに答えた育人の傍らで、受付嬢が咳ばらいをした。育人はちらりと同僚を見やり、誠志に向き直った。 「ふ……二葉さんっ!」  院内ではご法度(はっと)の個人名に、受付嬢が呆れて天井を仰いだ。コントのような二人のやりとりに、誠志が思わず「ハハッ」と笑った。育人はたちまち赤面し、「失礼しました」と頭を下げた。 「またメシでも行かへん?」  誠志が水を向けると、育人が「は、はいっ!」と声を裏返した。すると受付嬢が「今夜はいかがでしょう?」と、カウンター越しに口を挟んだ。 「三十七階のスターゲイザーで、二十時から二名様。予約取れましたよ」  個人用とおぼしき、ラインストーンで飾り立てられたスマートフォンの液晶画面に、「予約完了」の文字が光った。  ダイニングバー「スターゲイザー」は、オープン当初から大人のカップルたちに人気のスポットだった。品川グランドテラス最上階から見下ろす絶景と、ミシュランで星を獲得した創作イタリアンが楽しめる。常に予約で埋まっており、当日はおろか一カ月先でも席を取るのは難しいという。 「あの受付の子、何者なんや……」  ウエイターに案内された窓際の席につき、誠志が感心してつぶやいた。誠志の向かいに腰を下ろした育人はそわそわと周囲を見回して、「すみません」と恐縮した。 「こういうお店に来るってわかってたら、もっとちゃんとした服着てきたのに」  育人は赤と青のチェック柄のシャツに、ゆったりしたカーキのパンツという出で立ちだった。スーツ姿の誠志と並ぶと、まるでリクルーターと大学生のようだ。誠志は軽く笑って、「気にせんでええよ」と言った。 「よう似合(にお)うとるし」  スクラブ姿の印象が強いぶん、私服の育人は誠志の胸をときめかせた。誠志が素直な感想を述べると、育人は「そうですか?」としきりに照れた。  肉より魚が好きだという育人に合わせて、誠志はサーモンのコースを注文した。白ワインとミネラルウォーターで乾杯し、誠志は「ゴールデンウイーク返上なんて、相変わらず大変やね」と、昼間のつづきを口にした。 「たまごに連休はありませんから。患者様が大事に育てた卵子はベストなタイミングで採ってあげなきゃいけないですし、受精させた子たちも毎日心配ですし。休みの日も、僕の子たちが元気か気になって仕方ないので、出勤した方が気がラクなんです」  育人の熱弁ぶりに、誠志はぽかんと呆気にとられた。ややあって育人が我に返り、はにかむように目を伏せた。 「ごめんなさい、つい……。僕、たまごのことになると、すぐ熱くなっちゃって」 「うん。知っとる」  喉の奥をくつくつ鳴らして笑う誠志に、育人は「うっ……」と言葉につまった。  育人の白い頬に朱が差すのを眺めつつ、誠志はワイングラスを傾けた。育人のグラスで浮いては弾ける泡沫が、誠志の胸のときめきを映すかのようだった。  前菜からメインディッシュに至るまで、目も舌も愉しませてくれる逸品を、二人で堪能した。和やかに進んでいたディナーの雰囲気が一変したのは、デザートが供されたときだった。  ベリーソースで彩られたティラミスを前に、育人がふと沈鬱な表情を浮かべた。 「どないしたん? 育人くん、ティラミス嫌いやった?」  困り顔の誠志に、育人が「違うんです」とかぶりを振った。 「治療、辞められたって聞きました。離婚なさったからだって……」  誠志は黙って育人を見つめた。育人の視線がしばし宙をさまよい、やがて誠志をまっすぐに捉えた。 「僕のせいですか? 僕が、検体を取り換えたから……っ」  しっとりと潤んで星を孕んだ育人の瞳に、誠志は今にも吸い込まれそうな思いがした。育人は途中で言葉につまり、ぎゅっと下唇を噛み締めた。  ベリーの甘酸っぱい芳香が、誠志の鼻腔をくすぐった。いつかのキスが思い出されて、誠志は気づけば育人のおとがいにふれていた。 「そないに噛んだらあかんよ。傷なるし」  誠志の指先が、辛そうに顔を歪める育人の顎をすべり降りた。 「育人くんは……他の男の精子でも、怜子さんが妊娠出来た方が良かった?」 「そっ、そんなわけありません!」  静かなフロアに育人の声が響いた。周りのテーブルから向けられた視線に育人はたちまち縮こまったが、なお「そんなこと……」と小声で言い募った。 「できません。できるわけないです」 「せやろ? せやから、育人くんのせいちゃうよ」  誠志がニッと笑って言った。デザートフォークですくったティラミスは、濃厚な生地にベリーソースが絡み、心地よい甘さが舌に広がった。  誠志につられるように、育人もティラミスに口をつけた。とたんに育人の表情が明るくなり、無邪気な様子におのずと誠志の口元がほころんだ。 「……勘違いやったら、めちゃくちゃ恥ずかしいねんけど」  フォークを置いて、誠志が低くささやいた。 「育人くんは、俺やから……採精、してくれたんとちゃう?」  育人の大きく見開いた目に、窓から差し込むネオンが反射した。照度が絞られた店内の灯りと交錯し、猫を思わせるつり目がプリズムさながらに(きら)めいた。  ひと呼吸置いて、育人が唇をふるわせた。 「勘違い……じゃ、ないです」  予期していた答えでも、いざ育人の声で聞くと、誠志の胸に温かな思いが満ちた。育人は消え入りそうな声で言葉をつづけた。 「二葉さ――誠志さんだったから、僕は……っ」  長めの前髪からのぞく育人の耳は、上端が少し尖っている。真っ赤に染まったそこへ吸いつきたい衝動を堪えて、誠志は「うん」とあいづちを打った。 「去年の説明会で、声を掛けられて……僕のことを気にする患者さん、しかも男の人なんて、誠志さんだけでした。あれからずっと、気になって仕方なかった」  懐かしむように語る育人の口調が、ふと寂しげな響きを持った。 「だから、怜子さんがお持ちになった検体が誠志さんのじゃないって気づいて、すごくショックでした。誠志さんの子どもを、僕がつくりたいって思ったんです」  語弊があるにせよ、大胆な告白に誠志の胸が高鳴った。 「ハハッ、すごい殺し文句や」  笑ってごまかし、感情の(たか)ぶりをやり過ごそうとした。ずるい大人のやり口を、育人は純粋な微笑みで受けとめた。 「僕自身は、子どもをつくれません。女性を好きになれないので……でも、赤ちゃんを望むご夫婦のお手伝いならできます。だから培養士を志しました」  自分自身と向き合うことから逃げて、成り行きまかせに生殖医療に頼った誠志とは、正反対のアプローチだった。妊娠出産を切に願った怜子はともかく、中途半端な覚悟で治療に加担した誠志の行為は、育人のそんな思いを踏みにじるものだったかもしれない。今さら罪悪感に襲われて、誠志はグラスに残ったワインを飲み干した。  罪滅ぼしのつもりはないが、もうこれ以上、逃げるのをやめたいと思った。もとより今日クリニックを訪れたのはそのためだ。  誠志はワイングラスを置いて、正面から育人を見つめた。初めて見たときから惹かれてやまない、端正な容貌。まっすぐな心根にふれるにつけ、その内面まで抱きたいと欲するようになった。  怜子に甘えて凡庸な人生を選び、とっくに枯れ果てたと思っていた、誰かと体温を分かち合いたいという欲望。そのまま放置すれば、数年でほとぼりが冷めただろう。だが、今向き合わなければきっと、誠志の心が熱を孕むことはもう二度とない。針捨てボックスは、聡い元妻の最後の思いやりだったのだ。 「なあ、育人くん」 誠志が熱っぽく名を呼ぶと、育人が従順に「はい」と答えた。 「育人くんも、子どもが出来ひんなら、セックスする意味ないて思う?」  とたんに育人が目をみはり、戸惑いをあらわにした。 「それを……僕に、聞くんですか」 「俺は、育人くんとしたい」  育人の語尾にかぶせるように、誠志が衝動のまま告げた。 「……せやけど育人くんは、こないなオッサンに抱かれとうないよなあ」  逃げないと決意してもなお逃げ道を用意してしまう姑息さに、誠志は自分のことながら辟易した。育人の顔をまともに見られず目を逸らすと、横顔に痛いほど視線を感じた。  長い沈黙を挟んで、育人が「サイアク」とつぶやいた。 「やっぱり――誠志さんは、最悪だ」  普段のいとけなさは鳴りをひそめ、じっとりと熱を帯びた育人のまなざしが、にわかに誠志の呼吸を止めた。
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