56人が本棚に入れています
本棚に追加
1
精子濃度600万毎cc、運動率32パーセント、奇形率65パーセント。オスとしての「成績」を突きつけられて、二葉誠志は戸惑いがちに妻を見上げた。
「この数値だと、人工授精は厳しいみたい」
二葉怜子は困ったように眉根を寄せて、夫の向かいに腰かけた。
ダイニングテーブルの中央に置かれたA4用紙は、誠志が先週受けた精液検査の結果だ。平日の朝、怜子から手のひらサイズの密閉容器を渡されて、自慰するよう急かされた。起き抜けに気分が乗るはずもなく、四苦八苦して搾り出したものを収めたが、あのときのざらりとした嫌悪感は忘れ難かった。
「来週の金曜日、夜七時から体外受精の説明会なんだけど……」
怜子が壁のカレンダーを見やり、言いよどんだ。来週金曜日は九月の締め日だ。誠志が係長を務める営業支援部は月末が繁忙期にあたり、とりわけ上期と下期の境目である九月の締め日は、年度末と並んで多忙を極めた。
部下の女性たちの恨めしげな顔が誠志の頭をよぎった。しかし悲壮感すら漂う妻にNOと言えず、誠志は「了解」とうなずいた。
「ありがとう。誠志くん、締め日なのにごめんなさい。予約が全然取れなくて……」
「ええよ、そんなん気にせんと。こっちの方が大事やし」
ニッと笑ってみせると、怜子もほっとしたように微笑んだ。
「それより、体外やと身体の負担も大きなるんやろ? 無理せんといてな。怜子さん、すぐ無茶しよるから」
誠志の言葉に、怜子が苦笑して「大丈夫よ」と答えた。
「先生たちが導いてくれる、妊娠への最短ルートを行くだけよ。そういうクリニックを選んだんだから」
値はちょっと張るけどね――と、怜子が眉根を寄せた。誠志は神妙な顔で、「しばらく晩メシはモヤシ料理やね」と返した。
「あはは、それはちょっと勘弁して欲しいかな……お金のことは気にしないで大丈夫」
怜子はくすくす笑いながら立ち上がり、誠志の検査結果を片づけた。
「ありがとう。それじゃ、おやすみなさい」
「うん。おやすみ、怜子さん」
自室へ戻る怜子の背中に、誠志がひらひら手を振った。怜子は部屋のドアを開き、振り向いて再び微笑んだ。どこか寂しげな笑顔は、交際を申し込まれた頃から変わらない。パタンと小さな音を立ててドアが閉まり、誠志は無意識につめていた息を吐き出した。
誠志が勤める天日化成は中間部材メーカーで、幅広い業界向けにテープやフィルム等の部材を供給している。事業の大半がBtoBのため一般的な知名度は低いが、日経平均採用銘柄に数えられる大手企業だ。
十五年前、誠志が新卒で就職したのは天日化成の子会社だった。入社から五年ほどで親会社に吸収合併されて、東京本社勤務の辞令を受けた。以来ずっと東京暮らしだが、生まれも育ちも大阪の誠志は、今でも気の置けない相手にはおのずと故郷訛りが出た。
怜子は国内トップの電子機器メーカーで調達課長を務める「バリキャリ」だ。仕事を介して知り合い八年近く経つが、昨年春に怜子から交際を申し込まれるまで、個人的なつき合いは皆無だった。好意を匂わされるようなことも一切なく、ゆえに彼女の「結婚を前提におつき合いして欲しい」という告白は青天の霹靂だった。
怜子の説明は理路整然としていた。誠志よりも三歳年上の怜子は、四十を目前に子どもを欲しがっていた。妊娠出産のリミットといわれる四十五歳までに二人授かるには、遅くとも四十一、二で第一子を出産しなければならない。現在の国内情勢に照らして、本邦で子を産み育てるメリットとデメリット。社会的意義。予算と投資計画――。怜子は終始そんな調子で、告白というよりプレゼンだった。
誠志が怜子の「オファー」を受け、一年間の交際を経て入籍に至ったのは、怜子のプレゼンそのものに感銘を受けたからではない。彼女のひたむきさに心打たれたためだった。就職氷河期に苦しめられつつ一流企業の内定を得て、同期の男たちの何倍も努力を重ねて現在のキャリアを築いた。そんな彼女が今度はバイオロジカル・クロックという、本人の努力だけではどうにもならない壁にぶつかった。愚直な努力よりほかに壁を乗り越える術を知らない、彼女の不器用さにこそ、誠志は胸を衝かれたのだ。
新婚早々、怜子は妊娠治療の専門クリニックに通いはじめた。最初の二カ月は、医師の指導にもとづいて排卵時期に性交する、「タイミング法」を行った。必ず膣内射精に至らなければいけないプレッシャーは、誠志にとってかなりのストレスだった。そろそろ三回目かと内心憂鬱に思っていたところ、不意打ちで「検体」採取を求められた。
夫婦生活は、あくまで子供をつくるためのもの。より確実性の高い治療に進んだ今、互いに多忙ななか睡眠時間を削ってまで行う必要はないというのが怜子の理だった。入籍から三カ月、夫婦のいとなみは片手で数えて足りるほどだ。妻の割り切りに、なにも感じるところがなかったといえば嘘になる。それでも誠志は、怜子の意思を尊重しようと決めた。
「タイガイジュセイ、ねえ……」
夫婦六組に一組が不妊といわれる今日び、「試験管ベビー」といった偏見は一昔前の話だ。メディアでたびたび取り上げられる経験談を、誠志も目にしたことがあった。しかし身近に当事者はおらず、いざ自分が臨むとなっても現実感が薄かった。
誠志はキッチンカウンターのペン立てから赤いマジックを取り、壁のカレンダーに近づいた。
「七時、と」
来週の金曜日にマルをつけて、時間も書き添えた。誠志はマジックを元に戻すと、持ち帰った仕事を片づけるべく、自分の部屋に引き上げた。
最初のコメントを投稿しよう!