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築四十年の『つぼみ荘』は、キッチンとシャワーユニットを除くと五帖という狭いワンルームである。
ここへ越してきて三か月になる比菜子は、この空間をなんとも器用に活用していた。
背の高いベッド下や突っ張り棒での吊り下げを駆使した〝見せる収納術〟は、リアルな生活感に溢れている。
壁沿いの突っ張り棒には無数のS字フックが引っ掛けられ、バッグやポーチ、ベルトにヘアゴムなど穴が空いている物はなんでも吊る下げられている。
それは目で見て楽しく、温かみが感じられるレイアウトである。
比菜子はこの日も隠れ家のような部屋の真ん中で、通帳を見て浮かれていた。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん。じゅうまん……うふふふ」
折り畳みテーブルに向かって座椅子に座り、直角のそれを背中とお尻の重心移動でゆらゆらさせながら、印字された残高に指を滑らせて桁を何度も数える。
(もうほんとに最高! 引っ越してよかった! 極限まで家賃を下げれば、こんなに貯金できるのね)
彼女はここでの暮らしの最大の利点にすっかり虜になっていた。
浅川比菜子、二十八歳。
大手ヘルスケア会社に勤めているごく普通のOLである。
最近まで同期たちを真似てキラキラの1DKに住み、ティーカップの紅茶をティースプーンで混ぜて飲むような生活をしていたが、それを三か月前に卒業してここへ引っ越してきた。
営業部配属の総合コースで入社した同期たちと総務部配属の一般コースで入社した比菜子では、実は給料が大きく違ったのである。
加えて残業なし休日出勤なしの超絶ホワイトな部署のため、残業代なるものも発生しない。
背伸びをして周囲に合わせ、貯金のできないワーキングプア生活を送るのは限界だった。
団地育ちで狭い部屋に抵抗がない比菜子には、この手作りの五帖の空間で趣味の貯金を楽しむ方が性に合っている。
(……うん。これでいい。私なんて所詮こんなもんよ)
そして彼女はそんな自分が、ちょっぴり悲しくもあった。
(それにしても、ここは静かだなぁ)
つぼみ荘は古い木造の一軒家の中に鍵つきの個室が四部屋あり、それぞれに住人がいるタイプの賃貸である。
現在、比菜子の向かいは空き室、奥の二部屋はどちらも大学院生が終電を逃した場合のセカンドハウスとして利用しているため、比菜子以外はほぼ不在なのだ。
しかし、この日は違った。
建物の玄関を開ける音がし、誰かが狭い廊下を歩いてくる。
奥の大学院生かと思い聞き耳を立てるが、足音は比菜子の部屋の前で止まった。
(誰だろう? 大家のおばちゃんかな)
ついに〝ビーーーー〟というこの部屋のブザーのようなチャイムが鳴り響く。
(おばちゃんはいつもチャイムじゃなくて「比菜子ちゃーん」て呼ぶんだけど……。ま、いっか。出よう)
通帳を通勤バッグにしまい、扉へ向かった。
「はいはーい」
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