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「……そう。かわいい子だね」
まだ有沙の腕がツカサに絡んでいるのを見ながら、比菜子は引き吊った笑顔で返した。
有沙は〝当たり前〟とでも言いたげは雰囲気で比菜子の言葉は無視し、ツカサの手を握り直す。
「ツーくん、戻ろうよ」
「おい! 手を繋ぐなって! だいたいお前なんで俺がここにいるって知ってるんだよ!」
「ツーくんのことはなんでも知ってるもん。安心して、まだ誰にも言ってないから」
「本当か!?」
「うん。だから帰ろう。家出したいなら有沙にまかせて。爺やに言って、ツーくんのためのマンションと家政婦を用意してあげる。こんな近所のオバ様にお願いしなくてももう大丈夫だよ」
比菜子はうつむいたまま反論できなかった。有沙の秘かな笑みが向けられているのに気づいたが、なにひとつ太刀打ちできていない自分をみじめに感じて縮こまる。
(そうよね……お金持ちのツカサくんが、いつまでも私みたいなのと……)
しかし、ツカサは有沙の手を剥がし、
「それはいらねぇ。俺はここが気に入ってるから」
と比菜子へ一歩近づいた。
(……え?)
驚いて彼を見ると、いたずらな笑みを浮かべて「本当だぞ」とつぶやいている。
「そんな! ツーくん! こんな汚いところはやく出たほうがいいよ! 私が綺麗なマンションを用意してあげるから」
「いらねぇ。それにここは古いだけで汚くねぇぞ。今、自分で暮らせるようにいろいろと──」
「なに言ってるの! ツーくんはなんにもできないでしょ!」
有沙は叫び、その反動でハァハァと息を荒くしている彼女を前に、ツカサは固まった。
彼は一瞬ショックを受けた顔をしたが、有沙相手に決して厳しい顔をすることはなく「まあそうなんだけどさ」と苦笑いをしてみせる。
比菜子は言い返したくてたまらなくなった。
(ツカサくんは素直でがんばり屋だから、なんだってできるのに)
しかし相手は幼なじみで婚約者。少し同居しただけの自分よりもツカサのことをよく知っているはずなのだ。
比菜子は悔しくも言葉を飲み込んだ。
「心配かけて悪いな有沙。俺のことは少し放っておいてくれ」
「ツーくん……」
「どうせどっかに爺やもいるんだろ? 気をつけて帰れよ」
ツカサは比菜子に「行こうぜ」と声をかけ、共用玄関へと促す。
比菜子は肩を落として立ち尽くしている有沙を一度振り返り、複雑な気持ちになった。
(……本当に婚約者?)
次に、有沙を一度も振り返らなかった隣のツカサをちらりと見る。
『俺はここが気に入ってるから』
(ツカサくん……)
傷ついていたはずの胸がかすかに甘く鳴った。
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