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家を出てから通勤電車の中、そして会社へ着くまで、比菜子は何度も唇を指でなぞっては桃色のため息をつく。
(二回もキスしちゃった……)
その調子でオフィスへ入り篠塚のいる課長席を「おはようございまぁす……」と魂の抜けた挨拶をして通りすぎると、彼は「あ、う、うん、おはよう」と動揺を見せた。
篠塚とのことなどすっかり記憶から吹き飛んでいた比菜子は、そわそわとする彼にまったく気づかず席に着く。
「はぁ……」
うっとりした顔で頬杖をついた。
(ツカサくん、好きだなぁ……両想いとか信じられない……。でもなんだろう、この漠然とした不安は……)
小躍りしたっておかしくないはずなのに、なぜかどっぷり浸かることができずにいた。
「おはようございます、浅川さん」
「あ……おはよう、金本さん」
一足遅くやって来た金本が席に着き、ピンクや白のかわいらしい私物を几帳面にデスクに並べ始める。
「金本さん、婚約して彼氏さんとはどんな感じ? いろんな準備でワクワクしてるんじゃない?」
人との話で気を紛らそうと考えた比菜子は、普段はあまり突っ込まないプライベートな話を彼女に持ちかける。
「うーん、あんまり変わらないですよ。同棲して長いですし。相手は年下だからけっこう私のお願い聞いてくれて楽ですし」
「え!? 彼氏さん年下なの!?」
周囲の社員が振り向くほど勢いよく立ち上がっていた。恥ずかしくなって「スミマセン」と小さくお辞儀をしながらチェアーに座り直す。
そして引き続き、小声で金本との会話を再開する。
「……い、いくつ下?」
「ひとつです」
(金本さんは二十三歳だから、相手は……二十二歳!? ツカサくんと同じ!)
「うそー!? すごい! じゃあ相手は今年大学卒業ってこと?」
盛り上がってそう尋ねたが、はしゃぐ比菜子を金本は「フフッ」と声を出して笑う。
「んもう、そんなわけないじゃないですか。相手は高校の同級生で、専門資格を取って二十歳から社会人してたんです。結婚とか考えてくれそうにない大学生とは恋愛なんかしませんって」
比菜子は口もとがピクンとひきつった。
「……そ、そうだよね」
チェアーを戻して自分のデスクに向き直る。
胸の中のモヤモヤの正体が〝ツカサとの付き合いに未来があるのか〟という疑問であるとわかると、それは舞い上がっていた心にブレーキをかける。
(大学生のツカサくんに結婚願望なんかあるわけない。年上の私が焦りだしたら、いつかすれ違うんじゃないかな……)
金本の指輪が目に入り、なにもない自分の薬指にキュッと触れた。
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