きみが眼鏡を外すとき

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きみが眼鏡を外すとき

「また下がってる。0.03ってほとんど見えてないじゃないか」  一貴(かずたか)は電子カルテに検査結果を打ち込みながら、左に座る患者の顔を横目で見た。カルテに書かれた患者名は『桐野克(きりのすぐる)』。 「……ここんとこ、パソコン作業多くてさ」  へら、と笑いながら細いメタルフレームの縁を指で軽く押し上げる彼は一貴の高校時代の友人である。一貴が眼科医になり、半年前この大学病院に勤務し始めて偶然再会したのだ。一貴にとって克は同性を意識した最初の人物に当たる。学生服の肩のラインが細くて白いシャツと同じくらい白い肌に何度も胸を高鳴らせた。今思い出しても甘酸っぱい感情だ。もうすぐ三十路だというのに、克のその印象は何も変わっていなかった。ストイックなダークカラーのスーツが細身の体によく似合う。 「だから、前の検診でも言ったけど早く手術しろよ。このままだと、右目も引き摺られて悪くなるし、肩こりとか頭痛とかもひどいだろ」 「目をいじられるのは怖い」  レンズ越しの目は真剣だった。でもどこかあどけなくて、まるで歯医者を拒む子供のようで何だか可笑しい。一貴は短くため息を吐いた。 「一瞬だ。その日のうちに帰れるし、痛みもない。それだけで眼鏡ともサヨナラなんだ」  克の左目は強い乱視が入っている。眼鏡での矯正はそろそろ限界になっているようだった。レーシックや眼内コンタクトを勧めているのだが、克はそれを受け入れようとしない。 「嫌だ。それより、週末また呑みに出ないか?」 「あのな、克。俺、今仕事中。そういう話は後だ」 「おれも外回りの途中だけど」  それより予定は? と軽く首を傾げて見上げるその顔に一貴は弱い。空けとくよ、と半ば投げやりに答える。 「よかった。じゃあ、週末に」 「待て、克」  立ち上がりかけた克に一貴が声を掛ける。克は浅くため息を吐いて再び椅子に落ち着いた。何ですか先生、とわざと患者を演じる。 「右目に何かあったらどうするんだ? 矯正しても0.1しかないその視力でどうやって生活する?」 「その時は一貴になんとかしてもらうから」  笑顔で言われると、眼科医としては嬉しくないわけではない。患者の篤い信頼は医師としてはなにより誇らしいものだ。だが、この場合はあまりに楽観的な考えに些か呆れる。 「大体な、二ヶ月に一度も検診に来るくらい気になってんだろ? 視力低下。だったら手術しちまえよ」 「だから、そんなことしたら一貴に会えないじゃん」  抱えていたスーツの上着を羽織りながら当たり前のように言う。一貴が眉を寄せその表情を見るが、窓から入る日差しにレンズが光り、上手く読めない。 「……会ってるじゃん、時々。外で」  現についさっき週末の約束をしたばかりだ。一貴は首を傾げた。 「そうじゃないんだ」  克は細い指で眼鏡のテンプルの部分を摘んだ。そのまま眼鏡を外し、こちらに視線を合わせる。その目に捕らえられて一貴は見詰め返すしか出来ない。 「ドクターコート姿の一貴に逢いたいんだ」 「……はい?」  意外な言葉に、一貴は間抜けに聞き返す。克が可笑しそうに口の端を上げた。 「良く見えないから、近くで見ていいかな? 一貴」  克が椅子ごと近づく。その膝が一貴の腿に触れた。心臓が跳ねる。 「眼鏡、かけろよ。つーか、近い!」 「嫌だ。いいよね、白衣って……高潔な感じがセクシーで。まあ、一貴は詰襟も最高に似合ってたけど――食べたくなるくらい」 「ちょっ、待て! 克、落ち着け!」  慌てて椅子をずらし、壁際に逃げ込む。当然、克はその分前進する。 「好きなんだ、一貴。高校の時も、好きだった」  告白に気を取られた一貴の隙を狙い、克は唇で一貴の口に蓋をする。目を丸くするだけの一貴は、克がいつの間にかネクタイのノットに手を掛けている事にも気づかなかった。 「――っ、待て! ここ職場!」  ネクタイを解かれてから、一貴は事の重大さに気づき克の肩を押し返す。 「でも、職場じゃなきゃ着ないだろ? それ」 「けどな……」  予想外の展開は一貴にとって嬉しい誤算だ。一貴だって、克は気になる存在だったのだ。 それこそ、高校に居る時も。けれど、場所が悪すぎる。 「じゃあ、おれのベッドでも着てくれる? だったら、手術受けてもいい」  レンズを隔てない目は、いつもよりも随分気鋭に見える。これが本来の克なのかもしれない。一貴は短くため息をついた。 「……約束だからな。来週手術予定入れるぞ」 「そっちこそ、約束。ちゃんと続きさせろよ」  不服をたっぷり含んだ目で克を見る。いつもと違う目がこちらを見て楽しそうに笑う。 「……わかったよ」  ――きみが眼鏡を外すとき、俺はホントのきみに出会うんだろう。  こんなに強かな克を一貴は見たことがない。 「じゃあ、週末」  解いたネクタイを結びなおし白衣の中に見目良く仕舞いこむと、克は笑顔で立ち上がった。胸のポケットに仕舞っていた眼鏡を取り出して掛けなおす。 「あ、ああ……」  半ば憮然として一貴はそれを見送った。  完全に眼鏡を手放したその時、どんな克に会う事になるだろうか。楽しみではあるが、かなり不安になる。 「……つーか、させろって言った!? あいつ」  はたと気づいて、手術予定を打ち込む手が止まる。  医者の立場と始まったばかりの恋の間で頭を抱える一貴だった。
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