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「ふぁ~あ。」
自席で大きなあくびをした木藤岡琢馬(きどおかたくま)は、周囲の冷ややかな視線に気が付き、そそくさと席を立つと、たいしてしたくもないトイレを目指して歩き始めた。
「…ったくよ。あくびの一つも出るぜ、暇なんだから。」
「先輩!」
そんな琢馬を追い掛けてきた唐牛心咲(かろうじこさき)は、琢馬の三期下の後輩だ。琢馬は別に急いでもいないで足を止め、くるりと心咲に振り返った。
「何だよ。」
「あのあくびはまずいですって!課長も先輩のこと睨み付けてましたよ。」
琢馬をからかうようにニヤニヤしながら話す心咲に、琢馬は苛立ち額にデコピンを喰らわせた。
「痛っ!ちょ、先輩!今のパワハラ…てか普通に暴力ですよ!」
「はいはい。後輩からの先輩いじめも中々ですけどねぇ。」
琢馬は手を振り再びトイレに向かって歩き出した。
「…ったくよ。」
琢馬と心咲は、殺人など凶悪な事件を担当する第一課の刑事。この数ヶ月、平和な日々が続きすっかり仕事モードに気合いが入らない琢馬は、気持ちを腐らせていた。
琢馬は、仕方なく小便器で用を足しながら、首を横に向け、開いていた窓から外を眺めた。雲ひとつない青空が広がっていた。
「…まぁ、平和なことにイラついてる俺がおかしいんだけどな。」
琢馬が空の青さに心を洗われていると、トイレの入り口から慌ただしい足音が聞こえ、琢馬は何事かと窓と反対側に首を向けた。
「せ、先輩!!」
心咲だった。
「ちょ、お前ここ男便だぞ!」
琢馬は慌てて用を終わらせ、ズボンのチャックを閉めた。
「別に私は何にも思いませんから。」
「それは女便に入った俺が同じことを言っても通じるのか?」
琢馬はそう言うと、ハンカチを咥えながら洗面台で手を洗い始めた。
「それは犯罪で…あ、そんなこと言ってる場合じゃいですよ!事件です、事件!!」
心咲の言葉に、琢馬は咥えていたハンカチを洗面台の中に落とした。
「事件って?」
「殺人ですよ、殺人!課長から先輩と私に現場に行けと指示がありました!」
琢馬はニヤリと笑うと心咲にぶつかりながら慌ててトイレから出ていった。
「…はぁ。課長の言うとおり暴走しないように見張っとかなくちゃ。」
心咲が洗面台の鏡の中の自分を見つめながら呟いた。
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