「冷たいあの人」

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 あの人は、何も言ってくれない。言ってくれないどころか、ただ無言のまま頷くこともせず、目を合わせるどころか目線すら動かさずに右手で頬杖をついたままぼうっとしているだけだ。  これはいつものことで、だから何だとかそんな話にもなりようがない。ただそれだけという、本当にそれだけのことなのだ。  それで本当にいいの?と何度も尋ねられたことがあるけれど、これが私にとっての最良の選択なのである。他の選択肢なんてない。  正解も不正解もないけれど、これしかないのだと思ってただ一日一日を過ごすだけだ。  年の差カップルってやつで、二回りも年の離れたあの人は、私よりもゆっくりとした時間が流れているだけなのだ。傍から見れば親子のようであっても、そんなことは気にならない。ただこの一緒に過ごせている時間が大切なのだ。  婚姻届という一枚の紙で、私たちは法的にも認められた関係になれた気がするからと、半ば無理やりあの人に書かせたのは今でも正解だったと思っている。私たちは名実共に、まあ、そういうことなのだと言えるのだから。  天気が良かった。窓の外からきらりと不自然なまでに反射する光が見えた。そこで私は強すぎる太陽はよくないねと、ブラインドを下げて、それでもなお入ってくる光にあの人のシルエットがくっきりと映えた。  これはただの私の自己満足でしかないものだと理解した上で、何の反応もしてはくれないあの人のテーブルにそっと置かれた左手に、私の手を重ねてみるのだ。もちろん何の反応もしてはくれない、分かっている。ただそこに居てくれるだけでいいと、先に言ったのは私だから。ひんやりとしたあの人の温度が、私の体温に侵食される前にと離れた。  あの人とこれからも”生活”し続けるにあたって、私は日銭を稼がなくてはならない。そのうち安定した職業につきたいとは思いつつも、毎日の生活を繋ぐためだけに単発派遣のバイトを続けている。毎日生きる分だけのお金を日払いされて、新しい仕事を探す余裕なんてない。  与えられた仕事をやり切って、ちょっとしたお金を手にして、あの人がいる家に帰るだけ。それだけの毎日だ。  おはようも、おかえりも、ありがとうだって言われることはないけれど、あの人と過ごせるならと全てをそこに注いでいたのに。  ピンポンという聞きなれない音で起こされた。今日くらいはと、十日に一日くらい自分で決めている休みの日だった。あの人との生活を守るために、それを理解している彼女なら、チャイムを鳴らすことはない。訪問する予定があるなら前日までにメールをして、渡している鍵で約束した時間に勝手に入ってくる。つまりはそれとは関係のない訪問者だ。  スコープを覗けば、いかつめな男性が二名いた。チェーンをかけて対応したら、そっと警察手帳を見せられた。この状況を理解はできなかったけれど、私はチェーンを外して対応するしかなかった。  あの人は変わらず、右手で頬杖をついて、左手をテーブルの上に乗せている。 ―遺体損壊・遺棄罪―  そんなことを告げられた。あと詐欺罪という言葉まで出てきて、私には理解ができなかった。あの人とただ普通に過ごしたかっただけなのに。私の手には手錠がかけられた。  あとから、彼女があの人の年金を不正受給していたことを知らされた。少なくとも私は、詐欺罪については問われないらしい。そう初老の国選弁護人がずれた眼鏡を直しながら言っていた。  私は近々精神鑑定を受けるらしい。それの意味するところなんてどうでもよかった。ただ、あの人が火葬されたと聞いたときは、涙を流すことすらもできなかった。
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