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隅の小川から水が流れる。本日は晴天であり、何も特別ではない少しいいだけの休日。
「せんせい、私。休日は美術館で美しきものに触れるようにしているのです」
なぜ、あんなことを言ってしまったのかはわかりません。大好きな武光先生に少しでも良く見られたい。美しき女性と思われたいがために、私はそんな嘘をついてしまいました。
美術館だなんて私、中学の学外授業以来足を運んだことなんてないのです。私には絵が分かりませんし、画家についての知識もありません。
そもそも、美術館に少しだけトラウマがあります。
幼き頃、母に連れられて美術館に入ったことがございます。母は、美しきものをみると目の保養になると言っておりました。現実を見ると目がかすみ、美しきものを見ることで靄が晴れる。
そんな、母の言葉など幼子の私には分からず、私はつまらないものだと、楽しくないと拗ねておりました。
そんな時に、私は彼女に出会いました。
それは、円柱状のフロアで、天井には天を駆ける天使たちの絵が描かれており、丁度電灯が祝福の光のように部屋に降りてくる構造になっておりました。
そして、その部屋の中央には一つの彫刻作品が設置されているのです。
自らの体を抱き、寂しそうな表情で俯く女性の彫刻。黒く所々に青の錆があったので、ブロンズ像だったのでしょう。その痛ましき姿が冷たさを漂わせておりました。
さて、幼き日の私はその作品をみて、初めて『美しい』という感情を知ったのかもしれません。それゆえに思ったのでしょう。
『もっと、知りたい』
私は、柵の中に入っていました。そして、その汚らしい手で像に触れようとしていたのです。
「なにしてるんだ!」
その場に居合わせた男性が慌てて柵を飛び越えて私を抱きかかえて像から離しました。その後、職員の方から母は呼び出されて叱責を受け、顔を真っ赤にして私たちは追い出されたのです。
帰ってから、母は私を叱ることをしませんでした。しかし、その日仕事から帰ってきた父に向って涙を流しておりました。
「あの頃は、母親としての自身がなかったの。ちゃんと、貴方を育てられているのか不安で。美術館に連れて行ったのもそんな良い教育のためだった。だから、あの日とても恥ずかしい思いをして。とっても、とっても辛かったの」
あの日のことを母はそう語ります。
しかし、そんな母の努力のおかげで私は立派な成人になれたのです。母の教育は正しかった。
そして、あの日知った美しさを今も私は追い求めている。あの美しさに近づくことが私の人生の目標であり、生きる意味なのです。
それなのにずっと美術館から、あのブロンズ像から敬遠してきていた。あの彫刻作品が私の美しさの原点だというのに、いくつになっても怖いのです。あの像を目の前にして私は冷静でいられるのか。
夢に見ることもあります。ブロンズ像に触れてしまい、周囲から罵声や怒声が溢れかえる。それでも、私は幸福感に満たされて像に抱きついている。起きた後に、自分の異常性に気づいて一人鼓動を早くして焦る朝を迎える。そんな日もあるのです。
しかし今宵。私、意を決してあの像に会いに行くのです。
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