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 渡貫睦月が、都内の大手家電量販店に仕事でやってきたのは、期間限定の話だった。  販売促進の仕事は、本社の営業と関係ない別のスタッフがいつもやっていて、自分のようなメーカーの人間が直々に指名され出張でいくのはめずらしかった。  そんな理由で、今回、渡貫はしばらく都内で生活することになった。  長期のスタッフが確保できなかったのか、少し前向きに考えるなら本社の人間が、お客様の生の声を聞いて、企画部へリターンするためか。  ――あるいは、渡貫個人への嫌がらせ。  いろいろ理由は考えたけど、おそらく理由はその全てだと思う。  カメラが好きで、この仕事を選んだが、企画営業という立場なのに、頭が固く融通がきかない渡貫は周りから扱いにくい人間と思われていた。今回の出張話を聞いた同僚たちからは「会社のお金で都内のマンション暮らしなんていいなぁ」だの「仕事帰りに遊べるよ」だの、うわべでは羨ましがられもしたが、内心どう思っているかは火を見るよりも明らかだった。  もっとも、周りも大人だ。表立っていじめられたことは一度もない。  人が羨むような容姿や才能でも持っていれば、目の敵にでもされただろうが、特徴といえば低い身長くらいで、才能もなくうだつが上がらない。同僚としては面倒だが、敵にも味方にもならない人間は社内では空気。  理想や正論ばかりで、情熱が空回り。仕事を上手く進められない子供のような自分の扱いに困っているのは、結局のところ自分自身だった。周りは少しも悪くない。  好きを仕事にして失敗した良い例。  しばらくしたら、工場勤務の方へ異動願いでも出そうか、もし、そこでも使えなかったら転職しよう。そんなことを考えていた折の今回の都内への長期出張。  この出張の仮住まいとして会社から用意されたのは、職場に近い短期契約型の賃貸マンションだった。空気も悪い繁華街のど真ん中の新しい家。これなら、仕事場から遠くても少し安めのビジネスホテルの方が良かったなと渡貫は思う。  この落ち着かない不快な環境を強いられることが当面の頭が痛い問題だった。  車のクラクション、眩しいネオンサイン。埃っぽい空気。帰り道に店の前を歩けば、甘い香水のような匂いがする。慣れない環境全てにストレスを感じていた。  そんな突然知らない街に放り出された自分を田舎のネズミのように感じている。  確か、あの話でネズミは「やっぱり身の丈にあった暮らしが一番だ」と言って友人のネズミに怒って帰っていくんだったか?   もし、自分が田舎のネズミだとしたら、こんな街中で、身の丈にあった暮らしをしている都会のネズミとやらは一体どんな人物か想像してみた。 (自分とは違う世界でいきいきと楽しそうにしているネズミ)  職場から徒歩数分で着く新しい住処。渡貫は、まだ自分の家という感じがない自宅につくと埃っぽい嫌な臭いの気になるエレベーターに乗り、住んでいる階を思い出す。そうそう、十階でしたね、と頭の中で復唱してボタンを押した。この行為もあと何回かするうちに、無意識に階ボタンを押せるようになるのだろうか。それとも元の家に帰るのが先だろうか。  エレベーターホールから自分の部屋まで外の景色は、ほぼ隣のビルだった。びっくりするくらい隣の建物と距離が近い。その隙間から見える繁華街の空の色は、夜なのに周りの光のせいで白っぽく濁って見えた。それ以外は、角部屋のベランダの端がビルとマンションの隙間から見える。  隣の建物は商業ビルなのだと思っていた。けれど、十階から見えるベランダの部屋は店舗ではなく住居だった。  なぜ渡貫が分かったかというと、そこにはゆったりとした部屋着の男がビール片手に立っていたからだ。  偶然、目に入った隣の建物のベランダに、物語に登場する「都会のネズミ」は居た。  隣のビルは窓や壁に看板や張り紙がしてあって、ネイルサロンやオフィスとして使われているようだが、男はその建物の最上階で普通に生活しているらしい。  じっと上を見て歩かなければ、そこに人が住んでいるなんて誰も気づかない。たまたま自分が隣のマンションに住んでいて、偶然に隣のビルを見たから気付いた。 (そんなところでビール飲んで何が楽しいんだろ?)  帰宅するビジネスマン、夜の街に繰り出す若者たち。自分とは無関係な人間が忙しなく行き交っているのが眼下に見えるだけだ。渡貫ならみているだけで酔うし、言うまでもなく窓を開けたからといって景色を肴に酒を飲もうなんて考えもしない。  その男は、なんだか楽しそうに見えた。  風呂上がりなのか、男の首にはタオルがかかったまま。夜風になびく長い前髪をかきあげ酒を飲む姿は、どこからどう見てもリラックスタイムを満喫中だ。  渡貫は、その場で足を止めてベランダに立っている男に目を奪われていた。普通なら気にも留めずさっさと部屋に入っていたが、つい、そんなところで酒を飲んでいる物珍しさと、興味で観察してしまった。 (にしても……酒、美味そうに、飲むなぁ)  そう思った時だった。こちらに気づかれるはずがないと思っていたのに、ちょうど飲み終わったらしく、男が部屋に入るタイミングでばっちりと目があってしまった。勝手に盗み見ていた気まずさもあったけれど、そこで目をそらせて走り去るのも変な気がした。  瞬間、渡貫は反射的に勢いよくぺこりと頭を下げ、再びベランダを見ると、男は渡貫の顔をまじまじと見つめていた。  少しの間の後、ゆっくりと唇が動く。 (こんばんは)  ビル風に吹かれて声は渡貫のところまで届かなかった。  そして、くすりと笑われた。渡貫のことを馬鹿にするでもない、ごくごく自然な男の柔らかな表情を見て、急に見知らぬ他人をじっと見ていたことが恥ずかしくなり、慌てて、もう一度勢いよく頭を下げ、早足でその場を立ち去っていた。  知り合いもいない都会のど真ん中で、ご近所付き合いなるものをしてしまった。普通に挨拶をされて、普通に挨拶を返した。  たったそれだけのこと。  でも、それだけの交流に感じた落ち着かなさの理由は、決して久しぶりの私的な交流が嬉しかったとかではない。  ――夜の帝王の気分だったのか?  そんな言葉が突然頭に浮かんだ。きっと、この世界に物語の都会のネズミがいるとしたら、あんな男だなと渡貫は改めて思う。風呂上がりの格好なのに、自信に満ち溢れているように見えた。  もしも自分が、あんなところで、一人酒盛りなんかをしていて、ご近所さんと目があったら、ちょっとどころか、すごく恥ずかしいなと思う。  けれど、あの男からは、それがどうした? みたいな奔放な空気を感じた。  あの場で立っていることで感じた居心地の悪さは、劣等感からくるものなのか、あるいは羨望からくるものなのか、渡貫は分からない。  けど、ただ一つ「自由でいいな」と感じたのは確かだった。  これでは、本当に田舎のネズミと都会のネズミだ。都会の生活に憧れを抱きながら、結局自分は自分の知っている範囲で生きることが好きだった。だけど、同時にそんな小さな自分があまり好きではないと思っている。  逃げ込むように入った自分の部屋。扉を背にゆっくりと息を吐く。  狭い狭い、白い小さな箱の中。都会の中で唯一自分のオアシスになるはずの場所。  ――今は、まだ落ち着かなくて無理だ。 「この仕事が終わったら、もうこんなところはこりごりだって、帰るのかな」  その晩、渡貫は田舎のネズミと都会のネズミの夢をみた。夢の中のネズミは、本の中のネズミと同じように堂々としていて、ちょっとだけ嫌な奴だった。  けれど、渡貫は、そのネズミのことをなんだかとても頼もしいなと感じていた。
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