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び わ の 木 だ よ り
小学校一年の終わりごろ、まだ春の気配もかすかにしか感じられないころでした。その日も、まだまだ小さな体で不釣り合いに大きなランドセルを背負って、潤たち四人が住宅団地の坂道をかけのぼって来ました。道が平らな所まで来ると、家に向かって帰って行く途中で、ミュウミュウというか細い声が聞こえてきました。
「何だ、あの声は?」
潤は立ち止まって辺りを見回しました。
「ミューウ、ミューウ」
また、か細い声が聞こえました。
「あっちだ」
と、潤がかけ出すと、生垣に囲まれた庭の中に芝生が広がっているのが見えました。二ひきの真っ黒い子ねこが、女の人の足元にまつわり付きながらテラスに出てきたところでした。女の人はテラスの上でしゃがむと、二ひきの子ねこの目の前にそれぞれ皿に盛ったえさを置いてやりました。
子ねこたちはまだ本当に小さくて足元もおぼつかない様子なのに、皿に頭をつっこんでミャーミャー鳴きながら、むせそうな勢いでえさを食べ始めました。
「何だ、あいつらは。かわいすぎるぅ」
潤が言うと四人は門の所に並んで庭の中をのぞきこみました。またミャオミャオ鳴いている声がして、三角形の耳ばかり不釣り合いに大きい真っ黒な頭が見えました。
「おい、今〝めっちゃうまい”って言ったぞ」
潤は門と生垣の間に小さなすき間が有るのを見つけると、真っ先に庭の中に飛び込み、みんなも後から続きました。
黒い子ねこは、木製のテラスの上で、お食事タイムの真っ最中でした。四人はテラスの縁に並んで立ったまま、二ひきの子ねこが鳴きながらえさを食べている様子を、食い入るように見つめていました。四人には子ねこの鳴いている声が、人間の言葉で、
「うまい、うまい」
「めっちゃうま」
「うまいなあ」
といっている様に聞こえたのです。
すると、一ぴきがえさを食べ終わって、ひしめき合いながら立っている子供たちの前までよちよち歩いてやって来ました。
「わーっ、かわいい!」
四人はそろって声を上げましたが、子ねこはおびえる様子も有りません。潤がそっと手を出して小さな真っ黒い頭をなでようとすると、子ねこは潤の指のにおいをかいで、頭で潤の手のひらをぐいぐいと押し上げました。もう一ぴきの子ねこも食べ終わって子供たちの所に来ると、他の子供たちもおっかなびっくり子ねこにさわり、子ねこも子供たちの手をぺろぺろなめたのです。
おばさんが子ねこの後ろから四人に声をかけました。
「君たち、何年生?」
「一年生」
と、潤が答えました。
「わあっ、ねこの舌ってザラザラしてる」
「くすぐったい」
「めっちゃかわいい」
ついに子供たちは全員テラスに上って子ねことじゃれあい始めました。そして、さんざん子ねこと遊んだころ、おばさんが言いました。
「子ねこはご飯も食べて、いっぱい遊んでもらったから、もう眠くなってお家の中でお昼寝よ」
「あーあ、もうお昼寝?」
まだ遊び足りないのか、潤が言いました。
「そうだわ、ねこをさわった後はよく手を洗ってね。それから、今度ねこと遊びに来る時は、生垣のすき間をくぐらないで、駐車場の所から庭に通りぬけられる様になっているから、そっちから回って来てね」
「はい」
四人はそろってそう答えると、おばさんと子ねこたちにさよならをしました。
真っ黒な二ひきの子ねこを飼っているおばさんは、田宮優子といいました。四人はいつもいっしょに学校から帰って来ていましたが、その日以来、田宮さんが子ねこにえさをやっているのに出くわすと、必ず庭に入りこんでテラスの上に上りました。そして、子ねこたちが鳴きながらえさを食べるのをじっくりながめると、えさを食べ終わった子ねこたちとじゃれて遊んでいくのでした。
ある日、田宮さんがえさの入った皿を持って子ねこたちが待っているテラスに出てくると、四人の中の紅一点、彩夏が田宮さんにかけ寄って言いました。
「ねえおばさん、彩夏にえさをやらして!」
生き物を飼っていて一番楽しみなのは、何といってもえさを食べているのをながめることでした。でも、もっとわくわくするのはえさをやることでした。彩夏は、田宮さんからえさの入った皿をうけとると、不思議そうに見上げる二ひきの子ねこの前まで歩いて行って床に置いてやりました。二ひきは彩夏がやったえさを、思いっ切り喜んで食べたのです。いつもの様にミャーミャー鳴きながら。それを見て、彩夏はいつもよりうんと子ねこがかわいく思えたのでした。
(彩夏のあげたえさをこんなにうれしそうに食べるなんて……。かわいい)
次に四人が子ねこたちを見つけて田宮さんの家のテラスに上って来た時、潤は、
(ぼくも子ねこにえさをやりたい。彩夏がやれたんだから)
と、思っていました。家の中から田宮さんが出てくると、潤は、すぐさまそばへ行ってエプロンのすそを片手でつかむと、反対の手を田宮さんに向かってまっすぐ伸ばして言いました。
「おばさん、今日はぼくがえさをやりたい」
ちょっと鼻にかかった声で、少し甘えた話し方でした。
(この子はこんなに首を後ろに反らして、いっしょうけんめいわたしに自分のやりたい事を伝えようとしている)
田宮さんをじっと見上げる潤の二つのひとみに、田宮さんが小さく映っていました。
「わかったわ。じゃあ、まだ準備していないから今からいっしょにねこのご飯を作りましょう」
そう言うと、田宮さんは家の中からキャットフードと、ねこのえさ用の皿を二枚持ってきました。そしてテラスの真ん中辺りでしゃがむと、四人もぐるりと輪をかいてしゃがみました。
「じゃあね。あっ、君、名前何ていうんだっけ?」
「立石潤」
「うん、潤君、まずねえ、お皿の中にカリカリのキャットフードを入れて。
ここに入っているから」
潤は容器のふたに小さな指を引っかけて開けると、二枚の皿の中にキャットフードを少しずつ移しました。
「ああ、それ位。もういいわ。じゃあ、次にこのスープ入りのキャットフードを開けて。スープと中身の具を半分ずつカリカリのうえにかけてあげて。ほら、ここにハサミ有るから」
田宮さんはいつの間にかエプロンのポケットから小さなハサミを取り出して、潤に手渡しました。潤はハサミを受け取ると、スープをこぼさない様に小さなふくろの口を切っていきました。
(小さな子供の手が小さなハサミを使って、器用にもうこんな事もできるのね。小学一年生も大したものだわ)
「うん、そう。そしたら中身をカリカリにかけてあげて」
潤は、小袋をかたむけると二つの皿の上に中身を半分ずつかけました。
「もうこれで、ねこにあげていいの?」
「潤君があげてちょうだい」
潤が皿を両手に持って立ち上がると、ごろりと寝そべっていた二ひきがすぐさま立ち上がって、潤のそばにやって来ました。潤が二ひきの目の前に皿を置いてやると、二ひきは何のためらいもなく皿に頭をつっこんで、まずスープをペチャペチャなめ始めました。
「わあーっ。ぼくがあげてもちゃんと食べた。食べながら゛うまいうまい”って言ってるよ」
潤の気持ちは、うれしさではち切れそうでした。
子ねこにえさをやる二人の様子を見て、聡は何だかうらやましそうにしていました。でも、次に四人でやって来た時も自分からは何も言いませんでした。田宮さんはそっと聡に声をかけました。
「君も子ねこにえさをあげてみる?」
すると聡はぱっと目をかがやかして、
「ぼく、聡。ぼくもえさをあげたい」
と、答えました。田宮さんは、両手に持っていた皿を手渡すと、
「じゃあ、聡君たのんだわよ。こぼさない様にね」
聡はこれ以上できないほどまじめな顔をして、皿を子ねこたちの前まで運ぶと、うれしそうに床の上に置いてやりました。
「わーあぃ、ぼくがあげても食べた。楽しいなあ」
三人とも自分がやったえさを、子ねこが何の疑いも無く
食べてくれたのが、とてもしんせんなよろこびでした。
田宮さんは、三人が子ねこにえさをやった時、少し後ずさりして不安そうにしていたもう一人の男の子のことが、気にかかっていました。
「君は子ねこにえさをやりたくないの?」
「ぼく、川島裕太っていうの」
「裕太君、裕太君は子ねこにえさをやってみたい?」
「ううんと……。分かんない」
「そう。でも、みんなは子ねこにえさをあげたわよ」
「うん、ぼくたちはみんな子ねこにえさをやったよ」
三人は自分たちがやったえさを、子ねこがしっかり食べてくれたことを思い出して顔を見合わすと満足げにうなずきました。
「子ねこにえさをあげたから、三人とももう子ねこのお母さんになったわね」
田宮さんが言うと、潤が、
「ぼくたち、子ねこのお母さんなんだあ」
と、言ってそばにいた一ぴきの頭をなでてやりました。でも、裕太は不安そうに言いました。
「よその家の動物に、えさをやっちゃあいけないんじゃないの?」
「そうね、家の人が知らない間に勝手にやるのはまずいわね」
田宮さんはそう言いながら心の中で考えていました。
(この子は何を心配しているのかしら。無理強いすることになるならやめないと。でも、いつも動物がとっても好きな様子で子ねこをかわいがっているのに……)
「家の人がいっしょにやるなら大丈夫よ」
田宮さんは、優しく付け加えると、裕太のつぶらなひとみをじっとのぞき込んで言いました。しばらくだまって何かを考えていた後で、ようやく裕太は思い切った様子で口を開きました。
「じゃあ、ぼくもえさをあげる」
田宮さんからえさの入った皿を受け取ると、やっぱりちょっときんちょうした様子で子ねこの前へ行き、皿を床の上に置いてやりました。それでも、子ねこたちが無我夢中でえさを食べ始めると、さすがに裕太の固い表情もほぐれて、にこにこ顔になりました。
(よかった、うれしそうな顔見せてくれて)
「裕太君、ミャ夫とニャー太郎にえさをやってくれて有難うね。これでみんな子ねこのお母さんになったわね」
こうして、子ねこたちも四人にずいぶん慣れて、庭に入ってくる四人を見ただけで、ミューミューとうれしそうな声を上げて、近寄って行く様になりました。そうなると四人も子ねこたちがかわいくてたまりません。学校の帰り道、毎日の様に子ねこに会いに来ました。
まだかすかだった春の気配も、日増しにはっきりしてきて、子ねこたちはどんどん大きくなっていきました。でも、子供たちはちょうど春休みになって学校へ行かなくなると、ぱったりと来なくなりました。田宮さんはちょっと拍子抜けしてしまいましたが、また学校が始まったらみんなと会えるだろうと思っていました。
ところが、新学期が始まっても四人が田宮さんの家の前を通る事は余りありませんでした。一年生のころは、時計の針の様にいつも全く同じ道を、外れずに帰って来ました。それが、二年生になると一年生の時とちがった道を通ったり、今まで歩いたこともない道を探したり、とんでもない遠回りをして帰って来たりする様になったのです。
それに、授業時間が増えて帰りがおそくなると、子ねこのお食事タイムに間に合わないのでした。子供たちが成長してどんどん行動範囲が広がっていくのと同時に、子ねこたちも大きくなってテラスから庭に下り、庭の芝生の上から道路に出て、向かいの家の庭に入ったりして、行動範囲がどんどんひろがっていきました。
小さい者たちがあっという間に成長していくのは当然の事で、それを|見守るのは大人の役目だから喜ばなくては、と田宮さんは思いました。その一方で、何だか自分だけがとつぜん置いてけぼりにされた様なさびしさを感じずにはいられませんでした。
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