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全国一斉休校が解除されて、ようやくまたふつうに学校に行く日がもどってきました。でも、学校はまだ給食も無く、あっという間に潤は帰って来ました。ドアを開けて玄関に入ると、ランドセルをその場にぬぎ捨てる様に放り出して、すぐ遊びに行こうとしました。すると、お母さんがちょうど中から出てきて声をかけました。
「あら、またそんな所にランドセルを投げ捨てて、どこへ出かけるの?」
「うん、伸吾がすぐにむかえに来るから、いっしょに‟やまこー”へ行くの」
「‟やまこー”ってどこなの?」
「山ゆり公園だよ」
「へえー、山ゆり公園のこと、‟やまこー”って言うの?」
お母さんがそう言い終わらないうちに、潤はもう外に出て、門の所に停めてある自転車に飛び乗ると、もうれつな勢いですぐ近くの山ゆり公園に走って行きました。公園の小さな駐輪場に自転車を停めると、すぐに公園の中から伸吾が潤を見つけて声をかけました。
「おーい、ここだぁー」
伸吾はとっくに先回りして公園に来ていたのです。地べたにしゃがみこんで、どろんこ遊びを始めていました。昨日降った雨が、公園の南側の低い場所にたまって、水たまりになっていました。以前は、水はけを良くするために、公園の中心から広く砂がしいてあったのです。その砂も長い間に低い方へ流されてしまって、どろと混じり合い、どろんこ遊びにちょうど良いどろんこだまりになっていたのです。
そうなると、雨の後は公園の北側の高い場所にある砂場で遊ぶ子は、ほとんどいません。潤もさっそくどろんこだまりの中に運動靴のまま入ると、しゃがんで周りのどろを、伸吾といっしょになって、手でほってはこね始めました。伸吾が言いました。
「ほら、もう山ができた。ここにトンネルをほって水を流すんだ」
「もうできたの? じゃあぼくは池を造る」
そう言うと、潤は両手の指に思い切り力をこめて、どんどんどろをほり始めました。つめにどろが入ろうが、顔にどろがはねようが、服がどろだらけになろうが、お構いなしです。しばらく二人は何も言わずに、どろと格闘していました。
「よし、トンネルが貫通したぞ」
そう言うと伸吾は、砂場のそばにある水道のじゃ口をひねって全開にしました。水は、じゃ口の下の足洗い場からあふれてどんどん流れて行き、伸吾の造ったトンネルをくぐり、潤のほった池にたまっていきました。
ちょうどその時、公園の真ん前の家の玄関が開いて、ゴルフのクラブを持ったおじさんが出て来ると、道ばたでボールを打つまねを始めました。子供たちはどろんこ遊びに夢中になって、水道の水をざあざあ流しっ放しにしていました。おじさんは子供たちに大声で呼びかけました。
「おーい、そこの子たち」
その声に、遊びに熱中していた二人は、ハッとわれに返りました。
「はーい」
と、返事をすると、
「水、出しっ放しにしちゃだめじゃないか」
と、おじさんが言いました。
「今、止めようと思っていたところなの」
潤はそう言うと、さっと水道の所までかけて行って水を止めました。
伸吾はトンネルが貫通したどろ山のそばで、なぜか急に目がかゆくなって、思わず手の甲でこすってしまいました。
「おいおい、そんなどろだらけの手で目をこすっちゃいかんよ」
伸吾は、目をこすりながら言いました。
「うーん、分かっているけど、急に目がかゆくてがまんできなくなったんだもん。ぼく、アレルギー性結膜炎なの」
おじさんは子供の口から出た難しい病気の名前を聞いて、ふと、自分の父親の事を思い出しました。
太平洋戦争が始まった時、ゴルフクラブのおじさんの父親は、十三歳でした。彼は、東亜という自分の名前が大きらいでした。尋常小学校のころから、本を読んだり、絵を描いたり、音楽を聴いたりするのが大好きだった東亜少年でした。日本が東アジアで勢力をのばしていく様に、と付けられたその名前が、いやでいやでたまりませんでした。
戦争が始まると、またひとつ東亜少年のきらいなものが増えました。開戦と同時に、それまで選択制だった軍事教練が、正課として格上げされたのです。それまで毎年春になると目がかゆくてたまらなくなっていたのですが、夏が来る前にいつの間にか治っていました。ところが、そのころから白目が赤くなるだけでなく、上まぶたも真っ赤にはれ上がり、常に涙がたらたら流れている様になりました。
そうなるとだれが見ても眼病だと分かってしまって、ごまかすこともできなくなりました。級友たちからは、『移るからそばに来るな』と言われて仲間外れにされました。校医からは、伝染性のトラコーマという病気で、ひどくなると失明のおそれもあると診断され、目が見えなくなったらどうしようと、恐怖におびえました。
もっとつらかったのは、軍事教練の教師から『そんな眼病にかかりやがって、お国のために教練もできないようになるとは。目がつぶれたら、お国のために戦えなくなるんだぞ。貴様は非国民だ』と、激しくののしられ、なぐられたり、けられたりしたことでした。病気になったのは自分のせいでは無いのに、病人に対する同情やいたわりのかけらもありませんでした。健康で体力があり、目も耳もよく、戦争で立派に戦えるかどうかだけが、人を判断する基準だったのです。
とうとう、東亜少年は、当時‟神経衰弱”と言われた心の病にかかって、強制的に入院させられてしまいました。でも、それによって東亜少年にとって驚くべき真実が明らかになったのです。
暗く薄寒い病棟に、何人もの‟神経衰弱”の患者が入院させられていました。他の患者にトラコーマが移ってはいけないと、東亜少年は個室に入れられていました。戦争がいつ終わるかも分からず、こんなところに閉じこめられたままなら、もう生きていても仕方がない、と考えるほど追いつめられていました。
そんな精神科の病院へ、ある日眼科のえらい先生がやって来て、東亜少年の目を診てくれました。首の両側のリンパ腺をさわり、上下のまぶたを片方ずつ裏返して丹念に診察してくれました。そして、東亜少年は、
「これは、トラコーマじゃないね。‟春季カタル”という季節的な病気だ」
と言われたのです。
「季節的? じゃ、原因は何なんですか?」
「今の医学では、はっきりは分かっていないが、トラコーマの様に伝染性のものではないとされている」
現在、アレルギー性結膜炎や、花粉症と呼ばれ、国民病とも言えるほどありふれた病気になったものが、当時はまだ患者もまれで、原因すら分かっていなかったのです。ただ、春に限って結膜炎を起こしてくるので、春季カタルと呼ばれていました。
眼科医の診断を聞いて、東亜少年は学校医をうらみました。移る、移るといっていじめた同級生をうらみました。目がつぶれたらお国のために戦うことのできない非国民だ、とせめ立てた教練の教師をうらみました。
それから一生、他人を信じられない、何もかも楽しく感じられない、そんな人生を送っていった東亜少年のような人間が、戦争でたくさん生まれました。そしてそれが、また次の世代に影響をあたえていったのは、まぎれもない事実でした。たとえ戦場へは行かなくても、東亜少年も、また次の世代の子供たちさえも、戦争の犠牲者ではなかったでしょうか。
ゴルフクラブのおじさんは、小さいころの事を思い出していました。
(今、はやっているミッチーと同じで、人に移る眼病だと差別されて、おやじは一生消えないほど深く傷付いたんだろうなあ。
小さいころは、夏になると親戚が次々泊まりに来て、まるで海の家の様な我が家だった。子どもも大人も砂浜で、スイカ割りをワイワイ言って楽しんでた。でも親父はおれがスイカ割りをしたがっても、絶対に許してはくれなかった。
『目隠しの手ぬぐいから、眼病が移る』
いつも、そう言われたものだった。)
立石 潤君へ
こんにちわ、潤君。ようやく、びわの実が生りました。少し前に、オレンジ色に色付き始めたびわにふくろをかけてやりましたが、取る前に熟し切って袋の中に実が落ちているものもありました。
こちらに引っこしてくる前に住んでいた町で、知り合いから長崎のびわをもらいました。そのびわがとてもおいしかったので、食べた後の種を植木鉢にまいて育てました。その苗木を持って来て庭に植えたのです。その人のふるさとの茂木という所のびわだそうです。味がとってもこくて、まったりしています。食べた後の感想を聞かせてもらえたら、とてもうれしいです。
ようやく学校が始まっていろいろ大変でしょうが、潤君ならきっとのりこえられるでしょう。 では、また。
田宮 優子より
六月も上旬を過ぎたある日、田宮さんから‟びわの木だより”が届きました。枝にたわわに実ったオレンジ色のびわの写真の裏に、田宮さんからの最後の便りが書いてありました。そして、潤のお母さんに黒い紙袋に入ったびわを言付けていきました。潤に直接渡す事ができずに、さすがに残念そうでした。
その晩、田宮さんの家の食卓で、こんな夫婦の会話が交わされていました。
「今日、びわ、潤君の所へ持って行ったの?」
「うん」
「やっぱり、子供たちは来なくなってもかわいいんだねぇ。そうだ、今日の朝刊の四コマ漫画、見た?」
「ううん、まだ」
孝は朝刊を取って漫画のページを開くと、田宮さんに手渡しました。
「ええっ、何?『小さな小学生の子供たちが庭に遊びに来るようになった』『わーい、わーい』『かわいいねぇ』」
「そこ、まるで君が子供たちといっしょに、ねこにえさをやっていたころと同じだね」
「うん、そうね。それでぇ、『子供たちはやがて来なくなった』。最後が、『子供たちは、来なくなってもかわいい』。 ふーん、どういう意味かしら?」
「だって君は、かわいがっていた子供たちが来なくなってもかわいいから、びわを持って行ってやったんだろう?」
しばらくおしだまっていた田宮さんは、やっと口を開きました。
「かわいい子供たちが来なくなったら、かわいいわけ無いじゃない。さびしいだけよ。来なくなっても、自分の事、忘れずにいてほしいから、一年間びわを育てて様子を葉書で知らせてあげてたのよ」
「君はいつも相手が自分からはなれて行こうとすると、相手に心をとらわれてそこからなかなか、はなれられないんだね……。それで、潤君は喜んでたの?」
「学校から帰るころを見計らって持って行ったんだけど、もう遊びに出ていて、本人には渡せなかったの」
もうこれが潤に会って話ができる最後の機会かもしれないのに、潤に直接びわを渡す事はできませんでした。ひどくがっかりした半面、何となくほっとするような気もしたのです。はなれて行こうとする相手には執着してしまうのに、好意を持っている相手には、そばに居たいくせに、はなれようとする。
実は、田宮さんはこの様に他人との距離がうまく取れない事に、いつのころからか悩んでいました。いやだと思う相手にさえ、いざ相手がはなれていくと、見捨てられたような絶望感を感じ、はなれがたい気持ちになって苦しんだのでした。
田宮さんがびわを届けたその日、いつもの様に山ゆり公園で伸吾と遊んでいた潤は、むしむしとして、そよとも風が吹かない暑さに、すっかり汗だくになっていました。
「暑いーっ」
潤はそうさけぶと、公園の水道で足を洗い、水飲み場の生ぬるい水を飲んで涼もうとしました。けれども、一向にすっきりしません。
「そうだ、アイス、いったん家にもどってアイスを食べてこよう」
二人は公園から出て少し行った角を曲がると、潤の家に向かいました。近くまで来ると、潤のお母さんが二階のバルコニーでふとんを取りこんでいるのがちらっと目に入りました。潤は家に上がると、二階へ続く階段の下まで行って大きな声で呼びかけました。
「お母さん、暑くてたまんないから、伸吾と二人でアイス食べていーい?」
「ああ、そんなもんじゃなくて、潤、今さっき田宮さんがびわを届けてくれたわよ。びわ食べたら?食堂のテーブルの上に置いてあるから」
お母さんの声が二階から降って来ました。
「はーい」
と言って食堂までもどり、テーブルの上に黒い紙袋が置いてあるのを見つけました。近づいてそっと中をのぞいてみると、オレンジ色のくりくり坊主たちがいくつも寝転がっていました。
細長いものもありました。パッツンパッツンに真ん丸くなっているのもありました。普通の家の庭で生ったにしては、ずいぶん大きのもありました。摘み立ての証拠に、みんな緑色のじくが付いていました。オレンジ色の実はつやつやしているものもあれば、よく見ると白い産毛が生えているものもありました。傷ひとつないものもあれば、茶色いまだら模様が付いているものもありました。きっと、葉っぱでこすれたか、お日様に当たり過ぎたのでしょう。
くりくり坊主たちの頭の先は五つに分かれた緑色の口が付いていて、びわの花びらが五枚だということを、思い出させてくれるのでした。じくの方より丸い頭の先の方がオレンジ色が濃くて、いかにも先の方が味にコクがありそうでした。じくの付け根にえんどう豆ほどの小さなオレンジ色の実が、もう一つくっついているのもありました。きっと、大きくなれなかった実たちなのでしょう。でも、それは大きくなったびわの子分みたいで、またいじらしいのでした。
「あーっ、びわだあ」
潤はわざと大げさに言いました。そして、玄関で待っている伸吾の方をふり返ると、
「びわ食べるぅー?」
と、声をかけました。
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