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春も盛り、ほととぎすやしじゅうからの声が朝からにぎやかに聞こえる季節でした。田宮さんの家の庭の南側に植わったじまんのびわの木に、その年はたくさんの実が生りました。捨てられていた二ひきの子ねこの世話にかまけて、ちゃんと摘果してやらなかったので、小ぶりのびわが百こは生ったでしょうか。その日はもう、三回目のしゅうかくでした。
子供たちはあれほど夢中になった田宮さんの子ねこたちから、どんどん他のものに興味が移っていきました。なのに、田宮さんは、子供たちが毎日の様に来てくれていたあの早春の日々がまだ忘れられないのでした。
(今年最後のびわだから、今日もし四人組が家の前を通ったらびわをあげよう)
田宮さんは、朝から高枝切りバサミやきゃたつを引っぱり出して、残っていたびわの実を全部つみ取りました。傷の付いていないのを選んで四つの紙の手提げぶくろに分けて入れると、四人が帰って来るのを今か今かと待ちかまえていました。ここ数日姿を見せなかったので、その日は何となく四人がやって来る様な気がしたのです。
ところが、いつもは四人で帰って来ていたのに、その日に限ってやって来たのは三人でした。一番いせいのいい、目のくりくりした、甘えん坊の潤が今日は居ないのです。子ねこにえさをやりながら、
「あれ、めずらしく今日は三人なの?」
と聞くと、裕太が、
「うん、潤は今日、ふれスク」
と答えます。フリースクールの事かと思った田宮さんが、
「えっ、フリースクールって不登校の人が行くんじゃないの?」
とたずねると、裕太は、
「ちがうよ。"ふれ合いスクール”だよ」と言いました。
「学童保育のことを、今はそう言うのね。潤君のお母さん、今日はお出かけ?」
「うん」
三人はそれ以上潤の事は何も話しませんでした。田宮さんはさんざん迷ったあげく、三人にはびわをあげませんでした。そして、ふと、
(わたしが本当にびわを上げたかったのは、潤だったのかしら。潤にはいつまでもわたしの事を覚えておいてほしいのかも知れない)
と思いました。三人は、子ねこをなでたり、だき上げたり、ねこじゃらしのおもちゃで遊んでやったりしていました。しばらくすると、
「じゃあね、バイバイ」
と言って帰って行きました。
次の日、田宮さんが子ねこにえさをやっていると、めずらしく二日続けてあの子供たちがやって来ました。今日は四人でした。
「ミャ夫、ニャー太郎。かっわいい!」
潤が真っ先に、駐車場から庭に飛び込んできました。テラスに上って来た四人に向かって、
「昨日ね、みんなにびわを上げようと思って用意していたのよ。でも、潤君が居なかったから、他の子だけにあげたら潤君がかわいそうだと思って、みんなにも上げなかったのよ」
そう言いながら、田宮さんは自分がどんなに潤の事を気にかけているか潤に感付いてほしい、と思いました。そんな思いなど気付きもしないで
「えーっ、もう無いの、びわ?」
潤が田宮さんを見上げながら、くったくの無い大きな声で言いました。田宮さんは、冷蔵庫に残っているびわの事を考えました。夕べ、家族みんなできれいな実はあらかた食べてしまい、残っているのは見栄えの悪いものばかりでした。そんなびわを上げるわけにはいきません。
「うん、もう無くなっちゃった」
「なーんだ」
潤だけでなく、他の三人もたいそうがっかりした様子でした。田宮さんはそれが心にひどく応えて、思わず、
「ごめん、ごめん。来年またびわが生ったら上げるから」
と、言ってしまいました。約束しながら、来年まで一年、潤がもしかしたら自分の事を忘れないでいてくれるかもしれない、というはかない望みもいだいたのです。
「うん、約束したよ」
「じゃあね」
「またね。バイバイ」
そう言い残して、子供たち行ってしまいました。
それから……。時間の女神と同じくらい意地悪な運命の女神が、田宮さんの大切なものをもうひとつ奪い去っていきました。ミャ夫が帰ろうとして家の前の道路をわたっている時、車に当てられて死んでしまったのです。
朝、いつもどおり近所の見回りに出かけたと思っていたら、ふと気が付くと八時過ぎになってもまだもどって来ていませんでした。
(あれ、ずいぶんおそいわね。何かあったのかしら……)
田宮さんがあわてて玄関から出ると、ミャ夫は駐車場でたおれて動かなくなっていました。つぶらなひとみは、最期にどんなにおそろしいものを見たのでしょう。目は大きく見開かれたままでした。田宮さんはまぶたをそっと何度もなでて目を閉じてやりました。どんなにこわかったことでしょう。
(まだ幼い命が失われてしまった。生きていたらもっともっと楽しいことがいっぱいあっただろうに)
そして車を運転していた人をうらみました。
(こんなにせまい道なのに。徐行してくれていたらミャ夫をはねずにすんだのに)
この通りを通った車を、一台一台調べて犯人をさがし出してやろうかとも思いました。でも、そんな事はできるはずもありません。もし仮に犯人をつきとめてその人の胸倉をつかんで責めてみたところで、もうミャ夫はもどって来ないんだわ。そう思うと田宮さんは大きな無力感におそわれました。
それから、田宮さんは自分を責めました。ミャ夫はいつも朝ご飯の前に見回りに出かけていました。帰って来ると玄関の前で猫正座をして、とびらが開くのを待っているのがかわいそうで、最近ねこ用のドアを付けてやったのです。ミャ夫はすぐに使い方を覚えて、帰って来た時家の人がとびらを開けてくれるまで待っている必要がなくなったのです。だから、見回りがすむと、喜び勇んで走って帰って来る様になりました。早く帰ってねこ用のドアをくぐって家に入ろうと、道の向こうから飛び出した時に車にはねられてしまったのです。
(ねこドアなんか付けてやらなければ、あんなに喜び勇んで帰って来て家に入ろうとすることも無かったのに。走って道に飛び出して車にぶつかることも無かったのに。玄関の前で少しぐらい待たせても、車にひかれて死ぬよりましだった。ねこドアなんか付けなければよかった)
後悔しても後悔しても、もう取り返しはつかないのでした。
田宮さんはどうしようもなく悲しくて、涙が止まりませんでした。泣いているとニャー太郎が不思議そうな顔で近寄
って来て、頭を田宮さんの体にぐいぐい押し付けてくるのでした。それでもまだ涙が止まらないと、涙でぐしゃぐしゃになった田宮さんの顔を、首を伸ばしてぺろぺろなめるのでした。
「ニャー太郎、しょっぱいでしょう。あんまりなめちゃだめよ」
(ああ、この子が居てよかった。ミャ夫が居なくなってもまだこの子が……。ニャ-太郎をこれからわたしはずーっと面倒見てやらなくちゃいけないんだわ。悲しんでばかりはいられない)
田宮さんはそれからというもの、えさをやっている時にニャ-太郎がテラスから下りて道に飛び出したら、と想像するとこわくて外でえさをやれなくなってしまいました。こうして、潤たちとの偶然の出会いから始まったふれ合いは、思いもかけない出来事によって終わりをむかえたのです。
潤たちが勢いよくかけ込んで来た芝生の庭のテラスで、二ひきの子ねこたちにえさをやっていた日々を、なつかしく思い出しては、さびしい気持ちになりました。
(あの子たちに会えなくても仕方無いんだわ。ニャー太郎には、もう外でえさをやるわけにはいかないのだし。それに、潤たちももう新入生じゃないのだから、どんどん行動範囲も広がっていくのは当然のことだ
し。このままだんだん会えなくなってしまうんでしょうけど。でも、やっぱりそれはとてもさびしいわ……)
季節は春から夏に向かってだんだん進んでいきました。田宮さんは住んでいる住宅団地の中を歩きながら、家々の庭に咲く
季節の花を見るのが好きでした。心の中にさびしさが渦巻いているこの時期は、余計心が安らぐ気がしました。
白壁の上からピンク色の紫陽花がいくつも頭をのぞかせていました。まるでピンク色のメロンパンに、白い粉砂糖をふった様に見えました。そばに寄って白壁の後ろ側をのぞいてみると、そこには白い紫陽花がひしめいていて、それにはピンクの粉砂糖がかかっている様でした。
(日の当たる壁から上はピンク色が濃くなって、白い部分が粉砂糖の様。壁の後ろは同じ株でも白にピンクの粉砂糖をふりかけたみたいになるのね。咲く場所によって花の色も違ってくるんだわ)
田宮さんは置かれた場所で、そんな風にけんめいに咲いている花を見つけるのが好きでした。そんな花を見ている間は、心に渦巻くさびしさも忘れている事ができたのです。
夏休みが来て、学校の帰りに子供たちが田宮さんの家の前を通る事は長い間ありませんでした。田宮さんは子ねこと子供たちに囲まれて過ごした楽しかった日々の事を、やはりまだ忘れられませんでした。ひょっとして潤にまた会えないかと思いながら、時々住宅団地の中を散歩していました。ある日の事、道の向こうから潤が友だちといっしょに猛スピードで自転車に乗ってやって来ました。田宮さんがおどろいて、
「久しぶり!」
と声をかけると、潤はチラッと視線を向けて、
「あっ、久しぶり!」
とだけ返してそのまま通り過ぎて行ってしまいました。
(子ねこがかわいい、かわいいと言っていた一年生も、あっと言う間に大きくなり、自転車を自由に乗りこなす様になって、興味の対象もどんどん変わっていくのね。それが成長というものなんだわ。そりゃ、いつまでも一年坊主のままじゃ困るし)
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