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さびしさばかりにかまけていて、気が付くと新しい年が始まっていました。もう松の内も過ぎて、家々の門から正月飾りも無くなっていました。チュルルル、ピュイーッ、という少しすっとんきょうなめじろの声にさそわれる様に庭に出てみました。いつの間にかびわの木の枝先に、白い五弁の花びらをまとった花穂がいっぱい付いていました。めじろがせわしなげに飛んで来ては、花の中をのぞきこむ様にくちばしをつっこんでいました。
(そうだ、潤君に急いで『びわの木だより』を書いてあげないと。季節は知らない間にどんどん移り変わってしまうわ)
立石 潤君へ
びわの花がさいています。寒い季節にさく花なので、十二月に入ったころからもう一か月位かけてゆっくりと順番にさいています。花穂になってさくので、多ければ一か所に百この花がさくそうです。花は地味な感じですが、ことのほかいい香りがします。寒くて余り虫がいない時期なので、花は少しずつさいて、いい香りで鳥を呼び寄せます。鳥に蜜を吸わせてあげる代わりに、花粉をめしべにつけてもらって受粉します。こういう花を、鳥媒花といいます。
家のびわの木にも、毎朝めじろが飛んで来て、チチ、チチ、と小さな声で鳴きながら蜜を吸っています。
田宮 優子より
春がそばまで来ているはずなのに、もっと重ね着したくなるほど寒い二月でした。゛四つ足のものは机以外、空飛ぶものは飛行機以外、何でも食べる”と言われる国の人たちが食べた野生動物から、未知のウイルスが人間に伝染しました。その後、人間から人間に移っていき、あっという間に世界中に感染が広がってしまいました。
日本にもそのウイルスは入って来て、人口の多い大都市でどんどん広がっていきました。人々は、゛未知ウイルスー20”と名前を付けましたが、次第に゛ミッチー”と、あだ名で呼ぶようになりました。この゛ミッチー”は
風邪のウイルスと同じ仲間だという事は分かっていましたが、まだ薬もワクチンも無いのでした。
高齢者は重症になりやすく、重症になると肺炎を起こして亡くなる人もいました。子供たちには移りにくく、かかっても症状が出ないか、風邪の様な軽い症状ですむのでした。
ところが、日本の政府とつぜん三月から学校を休みにすることに決めたのです。何の準備も無しに、いきなり全国の小中学校が休校になりました。給食が急に無くなったことで、米や肉や野菜などが要らなくなって食べ物が大量に捨てられてしまいました。余り裕福でない家の子供たちは、昼ご飯が食べられなくなったり、母親が自分の分を子供に食べさせたりしました。金持ちの家に生まれて育った政治家には、貧しい人たちの生活など、想像もできなかったのです。
ところで、潤たちが住んでいる町は、二つの大きな港町にはさまれた海の近くにありました。町の駅はそれぞれの港町まで、電車で三十分位の所に在って、さらに駅から歩いてまた三十分位の高台に潤は住んでいました。゛ゆりが丘団地”という、名前からして田園風の住宅団地でした。ですから、ミッチーが広がっているという感覚は、まだ全くありませんでした。
そんな風でしたから、田宮さんはその日もいつも通り住宅団地の中を散歩していました。だらだら坂を下って‟馬の背山”に登り、群青色にかがやく海に真っ白い三角の帆がいくつも散らばっているのをながめると、また住宅団地にもどって来ました。今度は坂道を上って行って、住宅団地の北のはしに在る‟山ゆり公園“の前を通りかりました。男の人が自分の家の前で、ゴルフのクラブを短めに持ってボールを打つ真似をしていました。
田宮さんは男の人の練習が一区切りつくまで、じゃまをしない様に公園のさくのそばに立って中をのぞいていました。急いでどこかへ行くわけでもないし、もしかしたら公園で潤が遊んでいるかもしれないと思ったからでした。子供たちが数人、滑り台を使って追いかけごっこしたり、砂場で地面をほじくり返したりして遊んでいました。田宮さんは、ひとりひとりを目で追ってみましたが、その日潤は公園では遊んでいませんでした。
「だれか気になる子がいますか?」
気が付くと、いつの間にかさっきのおじさんが田宮さんのそばにゴルフクラブを持って立っていました。まるで心の中を読まれた様な気がして、田宮さんはあわてて言い返しました。
「いいえ、別に。ただ、子供がたくさん遊んでいるなあ、と思って……」
男の人は言いました。
「ぼくはいつもちっちゃな自転車に乗っている子を応援しているんですよ。まだちっちゃいのに、ほら、何て言ったっけなあ、自転車の後ろに付いているあの……」
「ああ、補助車ですか?」
「そうそう。まだ小さいのにもう補助車も付けないで自転車をびゅんびゅん乗り回しているんですよ。今日は、いないみたいだけど……」
そう言いながら、男の人は公園のさくをすかして見るような仕草をしました。
(潤の事かしら……。あの子は目立つし、だれが見ても気になる存在なのかもしれない)
「この団地も子供が増えたんですよ。いいことなんだけど。数年前は、子供なんかほとんど見かけなかったですから」
半世紀も前に造成されたこの〝ゆりが丘団地“は、駅から遠く高台にあるので、最初に住んだ親世代が住み続けられなくなって、次々と引っ越していきました。若い世代がその後に越してきて、今ちょうど子供がたくさんいる様になったのです。人はこうして年を重ね、町は少しずつ姿を変えていくのです。
田宮さんは、自分が子供だったころ住んでいた公団住宅を、思い出していました。朝はランドセルを背負った子供たちがてんでんに学校に向かいました。今の様にピンクやうすむらさきの様ないろんな色のランドセルはありませんでした。男の子は黒、女の子は赤に決まっていました。私立大学の付属小学校に通っている子は、こげ茶色のランドセルを背負って、朝うんと早くから電車に乗って登校していました。
学校が引けると自転車やローラースケートで、団地内のアスファルトの道を、子供たちが走り回っていました。やがて子供たちは何人か集まって遊び始めるのでした。
縄跳びや鬼ごっこ、影ふみ、缶けり。冬の寒い日には、押しくらまんじゅうでぎゅうぎゅう詰めになった子供たちが、押し合いへし合いしていました。縄を二本つないで大縄跳びが始まると、順番にひとりひとり入って行く時、自分の番で引っかけやしないかと冷や冷やしたものでした。
それから花一匁。大勢の子供たちが二組に分かれ、手をつないで前に歩いたり、後ろに下がったりしながら、
勝ってうれしい花一匁
負けてくやしい花一匁
どの子がほしい
あの子がほしい
あの子じゃわからん
この子がほしい
この子じゃわからん
○○ちゃんがほしい
そう歌います。最後に両方から一人ずつ出てじゃんけんをし、勝った組が負けた組の子を取る、という遊びでした。
男の子たちはめんこ、ビー玉、チャンバラごっこ。背中にふろしきのマントをなびかせ、刀に見立てたぼう切れをふり回して、正義の味方になったつもりで戦うのでした。
公団住宅の一号館と二号館の間にあったテニスのクレーコートでは、三角ベースで野球ごっこをしていました。もっと上の学年の子が帰って来ると、テニスコートで模型飛行機を飛ばし始めます。すると三角ベースで遊んでいた子供たちも寄って来て、上級生に飛行機の飛ばし方を教えてもらうのでした。
女の子の中で、どうやって集めたのか、たくさんの輪ゴムを使ってつなげたゴムなわを持っている子がいると、ゴムなわとびをしました。じゃんけんで負けた子が、両側でゴムなわを引っぱって持って立っています。そのゴムなわを、地面すれすれからだんだん高くしていって一人ずつ飛びこえていきます。引っかかったり、飛べなかったりしたら、ゴムなわを持つ人とかわります。
ろう石を持っている子がいると、アスファルトの道に四角いますや丸をいくつも並べて書いて、石けりをして遊びました。
子供たちのかん高い声が日が沈むまでひびいていました。うす暗くなってもまだ遊んでいると、あちこちの階のバルコニーからお母さんが、
「○○ちゃーん、ご飯よー」
と、呼ぶ声がして、ようやく子供たちは後ろ髪を引かれる思いで、家にもどって行くのでした。
時は流れて一人の人間に老いをもたらすだけでなく、社会全体も有無を言わせず変えていく、と田宮さんは思いました。今、この住宅団地で子供が少し増えても、いずれ日本の人口はもっと減って、それこそ子供の姿なんか見かけもしない住宅地ばかりになってしまうのかもしれません。
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