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その日は朝から灰色の雲が低くたれこめ、一日中止みそうもない雨が降っていました。晴れた日にはよく聞こえる色々な鳥の声が、今日は聞こえません。でも、窓のそばに立って聡が耳をすましていると、遠くからクックーポポー、クックーポポーと、山ばとの声が聞こえてくるのでした。家の近くでチッチュン、とスズメも短く鳴いています。
ぶちゅぶちゅぶちゅぶちゅ、ぽっちんぽっちん、ザウンザウン、
びちゃびちゃんびちゃん、ザザザー
雨音を聞いていると、聡は急にお母さんのピアノが聞きたくなりました。
「お母さんさん、ピアノ、弾いてよ」
「『雨だれ』ね、ショパンの」
そういうと、お母さんはピアノの前に座って曲の出だしをていねいに弾き始めました。外は暗く激しい雨音に満ちているというのに、まるで雨が止んで、流れる雲の間からかがやく青空ががのぞいているのを思わせる、明るく美しい旋律でした。ショパンの大好きなお母さんがいつも弾いている曲でした。聡がお母さんのお腹の中にいる時から、ずっと聞いている曲でした。
聡は、窓のそばに立ったまま、山ばとの巣の事を思い出していました。住宅団地の中に一軒だけあるたたみ屋さんの庭に、シマトネリコの大きな木が植わっていました。そのふさふさした葉っぱの中にかくれるようにして、枝の又に山ばとが巣を造っていました。もう、ひとりでミニバスに乗って通えるようになったピアノのレッスンの帰りに、聡は見つけたのでした。
今日みたいにこんな強い雨が降っている日は、あの山ばとはずぶぬれになりながら、風にゆれ動く巣の中に座って、ひたすら卵を温め続けているのでしょうか。
聡は山ばとがかわいそうでたまらなくなりました。
「お母さん、ぼくもいっしょに弾いていい?」
そう言うと、連弾用のピアノのいすの上に、横から体をすべりこませて座りました。お母さんははっと気が付いて、ピアノを弾きながら体を少しだけいすの左側にずらして、座り直しました。
お母さんの右手の下に、聡の小さなやわらかい手がすべりこんできました。手の甲がお母さんの手の平に当たりました。お母さんは聡が旋律を弾く気なのだという事が分かり、右手を鍵盤からはなしました。聡が美しい旋律を、お母さんが雨だれの音のような連打音を弾き続け、曲はそのまま途切れることなく続いていきました。
曲が転調して重苦しく暗い曲調に変わると、今度は聡が連打音を弾く番でした。オクターブで弾くところでは、両手でオクターブはなれた鍵盤をたたき、その真ん中にはさみこまれた不安な旋律を見事に和音で弾いていました。そのテクニックに、お母さんは舌を巻きました。でも、それよりも驚いたのは、とても小学生が弾いているとは思えないほど、情感のこもった弾き方だったからでした。
(どうして、まだ楽譜も完全には読めないのに、手もまだやっとオクターブに届くようになったばかりなのに、なぜ、こんな弾き方が出来るの?)
生まれる前から何十回、何百回と聞かせてきた曲でした。お母さんがピアノで弾いて聞かせただけでなく、CDやレコードでも聞かせてきました。この曲が生まれたマジョルカ島での、ショパンとジョルジュ・サンドの物語も何度も話して聞かせていました。ショパンの生い立ちや、祖国ポーランドの話もして聞かせました。
ショパンは当時、不治の病だった結核に冒されていたことの苦しみ、亡命した祖国ポーランドの独立もかなわず、故郷ワルシャワに二度ともどれないことの苦悩をかかえていました。
今、訳の分からない〝ミッチー”などという伝染病が世界中にはやっていて、学校にも行けず、外出も制限されていることで、聡が心にかかえている不安や恐怖は、心の中の根っこの部分ではそれと共通しているのではないかとお母さんは思いました。今、聡はある意味で、ショパンと同じような心情だといってもよいのかもしれませんでした。
それにしても、嵐の日に出かけたジョルジュ・サンドがいつまでも帰らず、不安な思いにかられながら、自分はただ修道院の冷たく暗い部屋で待っているしかないショパンのそのつらさが、聡に分かるのでしょうか。
その日、聡のおじいちゃんが帰って来ると、お母さんは開口一番その日の聡の事を報告しました。おじいちゃんは、国立病院を定年退職した後に、友人の病院に再就職して午前中だけ働いているのです。
「お父さん、今日、聡がショパンの『雨だれ』を弾いて驚いちゃった。もちろん、連弾だけど」
「そうか、一人で全部かと思ったら、お前と連弾か。メロディーだけだったら、弾けないこともないんじゃないの?」
「それがね、すごく気持ちが入っているの。こわいぐらい」
ちょうどそこへ、話し声を聞きつけて、二階から聡が降りて来ました。
「お帰り、おじいちゃん。早かったね」
「おう、ミッチーのせいで、消化器外科なんか、がらがらよ。ちょっと胃腸の具合が悪くても、今はドラッグストアーで薬を買っちゃうし。感染がこわくて、健康診断も減っちゃっているし。おじいちゃんは仕事が無くて、その内、首になちゃうかもしれないぞ」
「ええっ、いやだあ、そんなの。おじいちゃん、まだまだ働けるのに」
「いつまでも働かせるなよ。ああ、そういえば、お前、今日『雨だれ』弾いたんだって? それも、相当うまかったって? いったい何を考えて弾いていたんだ?」
聡は少し口ごもってから、
「山ばと」
と答えました。
「山ばとがどうしたんだい?」
「ほらさあ、たたみ屋さんがあるでしょ。あそこの庭の大きな木に、山ばとが巣を造ってるの。今日は雨も風もひどかったから、あの山ばとのことが心配になって。雨の中でどうしてるかなあ、と思うとかわいそうでかわいそうで。
でも、ぼくはいくら心配しても何もしてやれないんだよねぇ。それでとうとうピアノが弾きたくなったの……」
男女の情愛など知りもしなくても、降りしきる雨の中でずぶぬれになって、激しい風にゆさぶられる巣を守っている山ばとに寄せる心が深ければ、人の心にひびく『雨だれ』が弾けたからといって、別に不思議はないのでした。
「そういえば、たたみ屋さん、まだやってるのかな?」
「ううん、あそこの店もさすがにもう閉めちゃったみたいね」
「そうか……。うちにも『職人さんを遊ばせておくわけにはいかないんですよ』なんて言って、時々電話がかかってきてたな」
「昔はあの店で、よくたたみ替えしてもらってたから」
聡が不思議そうに口をはさみました。
「おじいちゃん、なんで職人さんは遊んじゃいけないの?」
「遊ばせとく、っていうのは仕事が無くてぶらぶらしてるっ、ていう意味なの」
「何で職人さんは、仕事が無いの?」
「たたみの部屋がある家がだんだん少なくなって、たたみ替えする家がなくなってきたからだよ。うちも母さんが倒れてから、たった一つあった和室をフローリングにして、母さんの寝室にしちゃったからなあ……。
そう言えばおじいちゃんが医者になって働き始めたころ、手術室のメスの刃が替え刃に変わったんだ。一回使ったら捨ててしまうので、刃を研がなくてもよくなったんだなあ。便利といえば便利になったけど。
でも、おじいちゃんは、ある時手術室の前のろうかで、婦長さんが中年の男の人と話をしてるのを聞いちゃったんだよ。男の人は、婦長さんに一生けん命頭を下げてたのんでいるんだ。
『お願いですから、一本でもいいから、研がせて下さい』
『きのうも言ったでしょう。悪いけど、もうメスは全部替え刃に変わってしまって、刃を研がなきゃいけないメスは一本も無いのよ』
男の人は毎日朝早くやって来ては、婦長さんに頭を下げていたけど、とうとうぱったり来なくなってしまった。おじいちゃんは、あの時若くて余り分かっていなかったけれど、自分の人生でずっと腕をふるってきた職場に行くのを止めざるを得なくなった時、どんなに不条理だと感じ、未来に絶望したことだろう。
新しいものが出てきて、古いものがすたれていく時には、そういうふうに、いきなり仕事を失ってしまう職人さんがいるんだよ。自分は何にも悪くないのに、時代の波に飲みこまれていかざるを得ないんだ。誰も自分の運命を他人に引き受けてもらうことなんかできないから。自分の熟練した技術を生かして働き続けたいのに、もうその技術は必要ないんだ。さびしいねぇ」
デデーッポッポー、デデッポッポー
翌日は、きのうの雨がうそのようにぬける様な青空でした。潤の家の近くでも、すずめのチュン、チュン、チュンチュンという鳴き声に交って、低い鳥の声が聞こえてきました。
「あの声は、何の鳥?」
朝ご飯のみそ汁を飲みながら、潤がお母さんにききました。
「あれは、山ばとよ。たぶん、オスがうちの前の電線に止まって鳴いているのね」
「ふーん、このごろ鳥の声がよく聞こえるね」
「今は鳥にとって恋の季節だから、オスがメスを呼んでよくさえずっているのよ」
卵焼きを口に運びながら、お姉ちゃんが潤に向かって言いました。
潤のお父さんは京都出身だったので、卵焼きは関西風のだし巻きでした。だし巻きといっしょに食べる大根おろしを下ろすのは、いつも潤の役目でした。潤は大根を下ろすのが得意で、あっという間に家族全員の分を下ろしてくれるので、お母さんは助かっていました。
「大根おろしの無いだし巻きなんか考えられへんわ」
お父さんはそう言うと、円錐形に盛られた大根おろしのてっぺんの部分にしょう油をかけ、出し巻きにそえておいしそうに食べるのでした。
「潤、これが染めおろしっていうんや。ぜーんぶにしょうゆをかけてしまうより、きれいやろ」
潤は、自分の下した大根おろしを、お父さんが大切に食べてくれるのがよく分かって、次もまたしっかりと大根おろしを下ろすのでした。
「ふ-ん、じゃあ昨日の夜、チョケケケ、って鳴いたのは何の鳥?」
「あれは、ホトトギスです。でしょ、お母さん?」
「そう、ホトトギスは夜でもよく鳴いてるわねぇ」
「ふーん、この辺は家の近くでもけっこう鳥がいるんやなあ」
食べ終わった食器を重ねながら、お父さんが言いました。
「あら、もう時間よ。今日から分散登校でしょ。今日は午前中に行くのね」
「うーん。あんまり長いこと学校に行かなかったから、もう、道忘れちゃったよ」
「ばか言ってないで」
その時、ジーッとインターホンのブザーが鳴りました。
「ほら、彩夏ちゃんがむかえに来たわよ」
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