び わ の 木 だ よ り

9/13
前へ
/13ページ
次へ
その日は朝から(はい)色の雲が低くたれこめ、一日中止みそうもない雨が()っていました。晴れた日にはよく聞こえる色々な鳥の声が、今日は聞こえません。でも、(まど)のそばに立って(さとし)が耳をすましていると、遠くからクックーポポー、クックーポポーと、山ばとの声が聞こえてくるのでした。家の近くでチッチュン、とスズメも短く鳴いています。   ぶちゅぶちゅぶちゅぶちゅ、ぽっちんぽっちん、ザウンザウン、   びちゃびちゃんびちゃん、ザザザー 雨音を聞いていると、聡は急にお母さんのピアノが聞きたくなりました。 「お母さんさん、ピアノ、()いてよ」  「『雨だれ』ね、ショパンの」  そういうと、お母さんはピアノの前に(すわ)って曲の出だしをていねいに弾き始めました。外は暗く(はげ)しい雨音に満ちているというのに、まるで雨が止んで、流れる雲の間からかがやく青空ががのぞいているのを思わせる、明るく美しい旋律(せんりつ)でした。ショパンの大好きなお母さんがいつも弾いている曲でした。聡がお母さんのお腹の中にいる時から、ずっと聞いている曲でした。  聡は、窓のそばに立ったまま、山ばとの()の事を思い出していました。住宅団地(じゅうたくだんち)の中に一(けん)だけあるたたみ屋さんの庭に、シマトネリコの大きな木が植わっていました。そのふさふさした葉っぱの中にかくれるようにして、(えだ)(また)に山ばとが巣を(つく)っていました。もう、ひとりでミニバスに乗って通えるようになったピアノのレッスンの帰りに、聡は見つけたのでした。  今日みたいにこんな強い雨が()っている日は、あの山ばとはずぶぬれになりながら、風にゆれ動く巣の中に座って、ひたすら(たまご)を温め続けているのでしょうか。  聡は山ばとがかわいそうでたまらなくなりました。  「お母さん、ぼくもいっしょに弾いていい?」  そう言うと、連弾(れんだん)用のピアノのいすの上に、横から体をすべりこませて(すわ)りました。お母さんははっと気が付いて、ピアノを弾きながら体を少しだけいすの左(がわ)にずらして、座り直しました。  お母さんの右手の下に、聡の小さなやわらかい手がすべりこんできました。手の(こう)がお母さんの手の平に当たりました。お母さんは聡が旋律(せんりつ)を弾く気なのだという事が分かり、右手を鍵盤(けんばん)からはなしました。聡が美しい旋律を、お母さんが雨だれの音のような連打音(れんだおん)を弾き続け、曲はそのまま途切(とぎ)れることなく続いていきました。  曲が転調して重苦しく暗い曲調に変わると、今度は聡が連打音を弾く番でした。オクターブで弾くところでは、両手でオクターブはなれた鍵盤(けんばん)をたたき、その真ん中にはさみこまれた不安な旋律を見事に和音で弾いていました。そのテクニックに、お母さんは(した)()きました。でも、それよりも(おどろ)いたのは、とても小学生が弾いているとは思えないほど、情感(じょうかん)のこもった弾き方だったからでした。 (どうして、まだ楽譜(がくふ)も完全には読めないのに、手もまだやっとオクターブに(とど)くようになったばかりなのに、なぜ、こんな弾き方が出来るの?)  生まれる前から何十回、何百回と聞かせてきた曲でした。お母さんがピアノで弾いて聞かせただけでなく、CDやレコードでも聞かせてきました。この曲が生まれたマジョルカ島での、ショパンとジョルジュ・サンドの物語も何度も話して聞かせていました。ショパンの生い立ちや、祖国ポーランドの話もして聞かせました。  ショパンは当時、不治の病だった結核(けっかく)(おか)されていたことの苦しみ、亡命した祖国(そこく)ポーランドの独立(どくりつ)もかなわず、故郷(こきょう)ワルシャワに二度ともどれないことの苦悩(くのう)をかかえていました。  今、(わけ)の分からない〝ミッチー”などという伝染病(でんせんびょう)が世界中にはやっていて、学校にも行けず、外出も制限(せいげん)されていることで、聡が心にかかえている不安や恐怖(きょうふ)は、心の中の根っこの部分ではそれと共通しているのではないかとお母さんは思いました。今、聡はある意味で、ショパンと同じような心情だといってもよいのかもしれませんでした。  それにしても、(あらし)の日に出かけたジョルジュ・サンドがいつまでも帰らず、不安な思いにかられながら、自分はただ修道院の冷たく暗い部屋で待っているしかないショパンのそのつらさが、聡に分かるのでしょうか。  その日、(さとし)のおじいちゃんが帰って来ると、お母さんは開口一番その日の聡の事を報告(ほうこく)しました。おじいちゃんは、国立病院を定年退職(たいしょく)した後に、友人の病院に再就職(さいしゅうしょく)して午前中だけ働いているのです。 「お父さん、今日、聡がショパンの『雨だれ』を弾いて驚いちゃった。もちろん、連弾(れんだん)だけど」 「そうか、一人で全部かと思ったら、お前と連弾か。メロディーだけだったら、弾けないこともないんじゃないの?」 「それがね、すごく気持ちが入っているの。こわいぐらい」  ちょうどそこへ、話し声を聞きつけて、二階から聡が()りて来ました。 「お帰り、おじいちゃん。早かったね」 「おう、ミッチーのせいで、消化器(しょうかき)外科なんか、がらがらよ。ちょっと胃腸(いちょう)の具合が悪くても、今はドラッグストアーで薬を買っちゃうし。感染(かんせん)がこわくて、健康診断(けんこうしんだん)()っちゃっているし。おじいちゃんは仕事が無くて、その内、首になちゃうかもしれないぞ」  「ええっ、いやだあ、そんなの。おじいちゃん、まだまだ働けるのに」 「いつまでも働かせるなよ。ああ、そういえば、お前、今日『雨だれ』弾いたんだって? それも、相当うまかったって? いったい何を考えて弾いていたんだ?」  聡は少し口ごもってから、 「山ばと」  と答えました。 「山ばとがどうしたんだい?」 「ほらさあ、たたみ屋さんがあるでしょ。あそこの庭の大きな木に、山ばとが()(つく)ってるの。今日は雨も風もひどかったから、あの山ばとのことが心配になって。雨の中でどうしてるかなあ、と思うとかわいそうでかわいそうで。  でも、ぼくはいくら心配しても何もしてやれないんだよねぇ。それでとうとうピアノが弾きたくなったの……」  男女の情愛(じょうあい)など知りもしなくても、()りしきる雨の中でずぶぬれになって、(はげ)しい風にゆさぶられる巣を守っている山ばとに()せる心が深ければ、人の心にひびく『雨だれ』が弾けたからといって、別に不思議はないのでした。  「そういえば、たたみ屋さん、まだやってるのかな?」 「ううん、あそこの店もさすがにもう()めちゃったみたいね」 「そうか……。うちにも『職人さんを遊ばせておくわけにはいかないんですよ』なんて言って、時々電話がかかってきてたな」 「昔はあの店で、よくたたみ()えしてもらってたから」  聡が不思議そうに口をはさみました。 「おじいちゃん、なんで職人さんは遊んじゃいけないの?」 「遊ばせとく、っていうのは仕事が無くてぶらぶらしてるっ、ていう意味なの」 「何で職人さんは、仕事が無いの?」 「たたみの部屋がある家がだんだん少なくなって、たたみ替えする家がなくなってきたからだよ。うちも母さんが(たお)れてから、たった一つあった和室をフローリングにして、母さんの寝室(しんしつ)にしちゃったからなあ……。  そう言えばおじいちゃんが医者になって働き始めたころ、手術室のメスの()()え刃に変わったんだ。一回使ったら捨ててしまうので、刃を()がなくてもよくなったんだなあ。便利といえば便利になったけど。  でも、おじいちゃんは、ある時手術室の前のろうかで、婦長さんが中年の男の人と話をしてるのを聞いちゃったんだよ。男の人は、婦長さんに一生けん命頭を下げてたのんでいるんだ。 『お願いですから、一本でもいいから、()がせて下さい』 『きのうも言ったでしょう。悪いけど、もうメスは全部替え刃に変わってしまって、刃を研がなきゃいけないメスは一本も無いのよ』  男の人は毎日朝早くやって来ては、婦長さんに頭を下げていたけど、とうとうぱったり来なくなってしまった。おじいちゃんは、あの時若くて余り分かっていなかったけれど、自分の人生でずっと(うで)をふるってきた職場に行くのを止めざるを得なくなった時、どんなに不条理(ふじょうり)だと感じ、未来に絶望(ぜつぼう)したことだろう。  新しいものが出てきて、古いものがすたれていく時には、そういうふうに、いきなり仕事を失ってしまう職人さんがいるんだよ。自分は何にも悪くないのに、時代の波に飲みこまれていかざるを得ないんだ。誰も自分の運命を他人に引き受けてもらうことなんかできないから。自分の熟練(じゅくれん)した技術(ぎじゅつ)を生かして働き続けたいのに、もうその技術は必要ないんだ。さびしいねぇ」  デデーッポッポー、デデッポッポー 翌日(よくじつ)は、きのうの雨がうそのようにぬける様な青空でした。(じゅん)の家の近くでも、すずめのチュン、チュン、チュンチュンという鳴き声に交って、低い鳥の声が聞こえてきました。 「あの声は、何の鳥?」  朝ご飯のみそ汁を飲みながら、潤がお母さんにききました。 「あれは、山ばとよ。たぶん、オスがうちの前の電線に止まって鳴いているのね」 「ふーん、このごろ鳥の声がよく聞こえるね」 「今は鳥にとって(こい)の季節だから、オスがメスを()んでよくさえずっているのよ」  卵焼(たまごや)きを口に運びながら、お姉ちゃんが潤に向かって言いました。  潤のお父さんは京都出身だったので、卵焼きは関西風のだし()きでした。だし巻きといっしょに食べる大根おろしを下ろすのは、いつも潤の役目でした。潤は大根を下ろすのが得意で、あっという間に家族全員の分を下ろしてくれるので、お母さんは助かっていました。 「大根おろしの無いだし巻きなんか考えられへんわ」 お父さんはそう言うと、円錐形(えんすいけい)()られた大根おろしのてっぺんの部分にしょう油をかけ、出し巻きにそえておいしそうに食べるのでした。 「潤、これが()めおろしっていうんや。ぜーんぶにしょうゆをかけてしまうより、きれいやろ」 潤は、自分の下した大根おろしを、お父さんが大切に食べてくれるのがよく分かって、次もまたしっかりと大根おろしを下ろすのでした。  「ふ-ん、じゃあ昨日の夜、チョケケケ、って鳴いたのは何の鳥?」 「あれは、ホトトギスです。でしょ、お母さん?」 「そう、ホトトギスは夜でもよく鳴いてるわねぇ」 「ふーん、この辺は家の近くでもけっこう鳥がいるんやなあ」  食べ終わった食器を重ねながら、お父さんが言いました。   「あら、もう時間よ。今日から分散登校でしょ。今日は午前中に行くのね」 「うーん。あんまり長いこと学校に行かなかったから、もう、道(わす)れちゃったよ」 「ばか言ってないで」 その時、ジーッとインターホンのブザーが鳴りました。 「ほら、彩夏(あやか)ちゃんがむかえに来たわよ」
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加