密やかな同居人

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 本気のパトロールを始めてから、いったいいくつの夜と昼とを繰り返したのだろう。獲物を狩りながらだったので、長かったようにも短かったようにも思える。その間、主であるあいつの気配をも感じないように集中した結果、俺はとうとう見つけることができた。  今、視線の先には茶色っぽい色あいの美しい姿。それは今まで俺が獲物としてきたどんな虫たちとも違う高貴な姿だった。  だが、これまで夢見てきた甘い結婚生活とは違い、俺の脳内には警告灯がともっている。  目の前にいる彼女から感じられるのは、好戦的な視線。完全に俺は獲物だと認識されている。俺は一刻も早く、自分自身を彼女にアピールしなければならない。  俺は彼女と間合いを取りながら、一番前の脚を大きく上げる。そして上下左右に動かして懸命にアピールした。俗に言う求愛ダンス。  最初はゆっくりと、かつダイナミックに。だんだん気分が乗ってくると、触肢も動かしたりする。だがまだ俺のことを獲物だと思っている彼女が跳びかかってきて、俺は慌てて逃げた。彼女の身体の方が大きいので、その瞬間は恐怖でしかない。  それでも俺はあきらめない。  彼女に近づいたり遠ざかったりしながら、俺は懸命に脚を動かした。誰から教わったわけではなく、本能として備わっているダンス。きっと俺の父親も、母親から捕食されることにおびえながら踊ったのだろう。  そのうち、俺は気がついた。彼女の気配から攻撃性がやや薄れていることを。やっと俺の魅力に気がついたな。だが油断することなく、俺は脚を動かし続けた。左右に飛び跳ねながら、徐々に距離を近づけていく。ほら、よく見て。俺はジャンピングスパイダー界のトップダンサーだ。  やがて、彼女の動きがぴたりと止まった。求愛が受け入れられたということだ。  俺はさっと彼女に飛び乗る。そして彼女の腹部にある生殖器に触肢を入れた。俺たちクモは交尾ではなく交接という行為で、次の世代へバトンを引き継ぐ。だが、無事に終了した余韻に浸る間もなく、俺は捕食されないように一目散にその場を去った。  獲物すらいない物陰に身を潜めて、俺はようやく一息ついた。そして今更ながら、さっきの彼女が生き延びてたくさんの子どもたちを残すことを祈った。  そういえばあいつは今、どんな気持ちでいるのだろう。結婚相手を探すことに必死になっていたあまり、俺は部屋の主であるあいつの動向を探ることをすっかり忘れていた。  俺は物陰から恐る恐る這い出る。そして、壁伝いにぴょんぴょんと跳ねながら、あいつの視界に入らない場所に移動した。温風の出る装置の近く。  懐かしいあいつがいるのが見えて、俺は嬉しくなる。だが、この前とはどこか印象が違う。それに、あいつも楽しそうにしていて部屋の温度も暖かく感じるのに、なぜか俺は寂しい。  ああそうか、この前とは異なる点。それはこの部屋に人間がふたりいることだ。あいつに寄り添っているのは人間のオス……。  放心したまま、俺は寄り添うふたりを見つめる。俺の視線に気づくこともなく幸せそうにしているふたり。そんなふたりを見ていると、俺までぽかぽかとした気持ちになってくる。そうだ、あいつが楽しいのなら俺も嬉しいのだった。しょせん単純なジャンピングスパイダーの俺。  嬉しいと思った瞬間、空腹を覚えた。俺は狩りをすべくまた移動を始めた。
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