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はなこ
櫻井はなこ、この平凡な名前が30年付き合ってきた私の名前だ。
櫻井っていう苗字は気に入っている。
でもはなこがなんだか普通すぎて好きになれなかった。
どうせならもっと可愛い名前がよかった。
「うー。眠い」
アラームの音で目覚めるとカーテンから光が漏れていた。
どうやら今日は久しぶりの晴れらしい。
ちょっとワクワクしてカーテンを開けると気持ちの良い青空が広がっていた。 「やっぱりこうこなくっちゃ」
梅雨の晴れ間に喜びつつ、トースターでパンを焼く。
今日はちょっと奮発して駅前の高級パン屋で買ったドライフルーツ入りのデニッシュだ。
コーヒーで流し込んでざっとニュースをチェックする。
カピパラの赤ちゃんがすくすく成長しているらしい。
明るいニュースに心が和んだ。
去年から一人暮らしを始めた。
通勤に便利だからというのは口実で本当は実家から離れたかっただけだ。実家というか姉から離れたかったのだ…。
3つ違いの姉は出版社に勤めており、バリバリ働いていた。
仕事が忙しいからか母親の手料理から離れたくないのか、いまだに実家で暮らしている。家では仕事の話はしないが、そのきらきらと充実した感じが苦手だった。
「櫻井さん、おはよー」
出勤して朝の準備をしていると同僚の真美が声をかけてきた。
「おはよう。今日はいい天気だね。」
準備の手を止めて答えた。
「だねー、ああ、アイスカフェラテがおいしい」
真美はいつもアイスカフェラテを飲んでいる。
明るい髪色と飲み物が妙にマッチしていて毎朝その光景をみるのが好きだった。
「さてと、今日もがんばりますかー」
カフェラテを飲み切った真美が言う。
「だねぇ、あと3日で終わりだ。頑張ろう」
メールチェックを済ませ、急ぎのものから返信していく。
エクセルにデータを入力し、午後の会議の準備を済ませるともう時刻は12時を指していた。お昼。この時間が一日の中で何よりも楽しみだ。
サッとノートパソコンを閉じて真美と最近できた定食屋に向かう。
既にサラリーマンの列が出来ていた。
店内に吸い込まれていく人もいるが、店の前で売られている弁当も人気だ。
「黒酢酢豚弁当ください」
「はーい、500円です。お味噌汁つけておきますね」
店員の明るい対応が気持ちいい。
「ありがとうございます」
お礼を言って真美と公園へ向かった。噴水の前のベンチに腰をかける。噴水に太陽が当たって水がきらきらと光っている。若いお母さんが子供を遊ばせていた。
「はー、最近の子供ってほんとにおしゃれだよねー。ああ、ママがおしゃれなのかー」
真美はハンバーグ弁当を頬張りながら言った。
「ほんとだねぇ。」
自分たちよりちょっと若いくらいだろうか。
自分も子供がいてもおかしくない年齢だ。ふと、いつまでこの生活が続くのだろうかと不安がよぎった。誰でもできる仕事を毎日こなし、愛する人や子供という存在もなく…
あんかけのかかった玉ねぎを食べながら胸の奥がちくりとするのを感じた。
いけない、最近すぐに暗くなってしまう。
先月家族で姉の昇進祝いをしたせいだろうか。
「やばい、遅れる…」
土曜日、真美と最近流行っているカフェに行く約束をしていた。
なんとか間に合いカフェに入る。
「櫻井さん、こっち!」
入り口できょろきょろしていると奥から真美の声がした。
「お待たせ」
私はアイスコーヒーを、真美はアイスカフェラテを注文した。
「それで、どうしたの?」
アイスカフェラテを飲みながら真美が予想外の言葉を発した。
私はなんて答えようか迷いつつ
「え?普通だよ」と無難に答えた。
真美は一瞬ためらってから
「それならいいんだけどさ、今週ずっと元気がないようだったから」
ちょっと驚いた。それで急に土曜日空いてるかなんて聞かれたのか。
ごまかしても無駄なような気がして素直に答えた。
「…最近嫌なことを思い出すことが多いんだ」
それでもなんとなく真美とは視線を合わさず、テーブルを見ながら答えた。
「嫌なこと? 例えばどんなこと?」
「恥ずかしいんだけどね、子供の頃のこと。兄弟とのこととか。」
「もしよければ聞かせて。話すと楽になることもあるから」
真美は気遣いを見せながらそう伝えた。
どうしようかなと一瞬迷った。だが、誰かに聞いてもらいたい気持ちもある。真美は軽く見えるが誰かにベラベラ話すタイプではない。いっそ話してすっきりしてしまおうか…
迷った末、私はぽつりぽつりと話し始めた。
「姉がね、出版社で働いていて最近昇進したんだ。昇進祝いに家族で集まったんだけど、相変わらず親から期待をかけられててさ…。
子供の頃に姉と比べられて嫌で嫌で、どんなに頑張っても親は姉ばかり見てたから。私も頑張ってたんだけどね、全然結果が出なくていつからか諦められてた。今も毎日同じ仕事を淡々と繰り返していて、愛する人も子供もいなくてこんな生き方でいいのかなって疑問に思ってる」
話しているうちに不思議と涙がでた。
「あれ…おかしいな」
ぼろぼろぼろ
自分でもなぜだかわからないが涙が止まらなかった。
次第に大粒の涙となり、顔はグショグショになった。ヒックヒックと声が漏れ、それでも止まらなかった。真美はそっとティッシュをくれた。
「ごめんね…」
ようやく泣き止んだ私は真美に詫びた。
「ううん。今まで色々と抱えてきたことがあるみたいだね」
私は黙って頷いた。
次の瞬間、真美は思いがけないことを言った。
「でもさ、お姉さんってほんとにそんなにすごい完璧な人なのかなー」
「え…?」
「わからないけど、そんなに完璧な人間っているのかなーって」
「…お姉ちゃんは要領がよくて、
さぼったりもしてるのに周囲の大人は全然気づかなくってさ、
いつも認められてきたよ。あの子なら大丈夫って親も教師もみんなが口にしてた…それって私には逆立ちしてもできないことだった」
「うーん。確かに櫻井さんとお姉さんは違うタイプなのかもだけどさ、
妹には見せてない部分とか悩みとかあったんじゃないのかなーとか」
真美の言葉を聞き、ハッとした。姉が以前言っていた言葉を思い出したのだ。
子供の頃はなこに冷たく当たっちゃったけど、
あれはさ、なんではなこはもうお姉さんの年なのにいつまでも甘えてるんだろうって思って冷たくしちゃったんだって。
その言葉の意味を今日まであまり深く考えてこなかった。
本当は姉も親に甘えたくて、それでも必死に親の期待に応えようと自立しようと我慢してきたのかもしれない。
「そうかも…ね。どこかでお姉ちゃんはすごい人だって出来て当たり前のスーパーマンみたいに思ってたかも…」
「別の人の視点で見るとさ、違う景色っていうかそういうの見えてくるよね」
「うん。全然気づけなかった。いつも私、ずっと自分のことが嫌で嫌ではなこって名前も平凡だし、なんで自分だけこうなんだろうってお姉ちゃんみたいになれないんだろうって思ってきた…」
真美はちょっと考えてから、
「そうかなー。私ははなこって名前いいと思うよ。
櫻井さんに合ってると思う。はなこって呼ばれるの嫌いっぽいから櫻井さんって呼んでるけど。櫻井さんはさ、自分じゃわからないかもしれないけど、櫻井さんだけの魅力があるんだよ」
「魅力…?私に?」
「うん。周りを明るくしてくれてる。柔らかいオーラでさ。
目立たないかもだけど、あったかいっていうか。
そういうのって救われてる人いると思うよ。…私もそうだから」
一瞬どきっとした。頬を少し紅潮させて真美は続けた。
「櫻井さん魅力あるよ。はなこって名前、イメージにすごく合ってると思う」
「そうかな」
「そうだよ」
「ありがとう…」
胸がじんわりとした。
すっかりぬるくなったアイスコーヒーを口に入れる。
やっぱりおいしくなかった。
もう少し話していたい気もしたが、真美にお礼を言って別れた。
時計を見るとまだ16時だ。
「お姉ちゃん、今日家にいる?」
スマフォを取り出しメッセージを送る。
「いるよ?」
休みらしく、すぐに返信があった。
姉の好きなケーキを買って今から会いに行こう。
財布から免許証を取り出した。
氏名の書かれた部分をジッと見つめる。
「櫻井はなこ。うん、いい名前じゃん」
普通過ぎて好きになれなかったはなこという名前をいつの間にか好きになっていた。
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