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ぼくの太陽 1
ティムは絶望していた。
人口より羊の数が多い田舎から、ひと夏の冒険のため首都へ出て来た十七歳。市場で買ったばかりのオレンジ、レモン、りんごや桃が石畳に散乱し、行きかう人の足に蹴られ、車のタイヤにすり潰されるさまは、間違いなく新たな絶望として刻まれる光景だと思った。
妹が生まれ、末っ子の特権を奪われたときのように。羊に頭突きされて、池に落ちたときのように。そして密かに好きだった子が、クラスの人気者にキスするのを見たときのように。
「おーい、大丈夫?」
転んで歩道に座り込んだまま呆然としていたティムは、腕を掴んで引っ張り起こされてはじめて、自分を見下ろす相手に気付いた。
「怪我はない?」
「あ、はい」
「オッケー」
ティムが見上げるより先に、相手はひっくり返った段ボール箱を歩道の端へ寄せると、両手で拡声器を作って声を上げた。
「そこのきれいなオネーサンたち! レモンひとつずつ拾ってくださーい! ちょっとおじーちゃん、そのオレンジはボールじゃないよ。蹴らない蹴らない! ボケるにはまだ早いでしょ! リハビリついてでにここまで持って来てくれるかな! あ、りんご拾ってくれてありがとう、ちっちゃなレディ」
夏がしゃべっている。
明るくて軽くて、嫌味がない。人を陽気にする声。そしてその声に促されると、いままで迷惑気にティムを睨んでいた人たちが、魔法にかかったように笑顔になり、めいめいの足元に転がった果物を拾って、段ボールへ入れてくれた。まるで大道芸の観客が、帽子にコインを投げ入れるように。
「はいはい、歩行者優先だよ! ごめんごめん、すぐ退くからさ!」
クラクションを鳴らされながら、間一髪で難を逃れたオレンジと桃を車道から救出して来た彼は、半分ほど中身の戻って来た段ボールと、その横に突っ立っているティムに笑いかける。
「ごめんねー、こんだけしか拾えなかった。ま、こう暑くちゃ、道路もフレッシュジュース飲みたくなるよね。勘弁してあげて」
白く輝く歯を惜しげもなく晒す、太陽みたいな笑顔だった。
◇◇◇
「いやー、びっくりしたね。おっきな荷物持ってるから危ないなーと思って見てたら、あんな漫画みたいにすっころんでフルーツばらまくんだもん」
「すみません、買い物まで……」
「いいのいいの、乗りかかった船だしさ」
どうせ暇だし、と人懐っこい笑顔を振りまく男の手には、果物を詰めた段ボール箱が抱えられている。お使いを頼まれた数の半分を駄目にしてしまったティムが、もう一度市場へ行くと言うのに付き合って、そのまま運んでくれると言うのだ。
もちろん断ったが、けっきょく押し切られたティムの両手には、『スターク・インダストリーズ』のロゴがプリントされた、帆布のトートバック。彼の荷物だ。──アイアンマンのファンなのだろうか。それかトニー・スタークの。たしかに、ブラウンの前髪を立たせたスタイルは、ロバートが演じたトニーに似ているような気もする。
彼がヒーローに憧れているか否かは分からないが、ティムにはとうていマネできない。自分のものを、初対面の相手にぽんと投げ渡せる思い切りの良さも、道行く人が全員、知り合いかと錯覚させる、あの度胸も。
「あの、ありがとうございました。どうしていいか、頭真っ白になっちゃって。みんな、ぼくなんか見えてないみたいに行っちゃうし……」
「あの辺歩いてるのなんて、ほぼ観光客だしね。そう言う人は、なかなか自主的に足を止めてはくれないよ。でっかい声で主張しないと」
「転んだのが恥ずかしくて……。市場は初めて来たから、よそ見してたぼくが悪いんですけど」
「あれ、きみ地元民じゃないんだ?」
箱を抱え直した彼は、覗き込むようにティムの顔を見た。茶色いベルトの腕時計をした、大きな手。グレーの半そでポロシャツは、背中が汗で黒くなっている。けして軽い荷物ではないのに、彼の顔に、どこか楽しんでいる風にも見える笑顔が絶えることはなかった。
「ティムです。ティモシー・ホーキンズ。サイラス王子の結婚式を見に、カーシェから来ました」
「カーシェ? シルヴァーナの最北端じゃん。そりゃまた遠くからようこそ。パレードは見られた?」
「いえ、ぼくは王宮の広場のほうに並んでて。バルコニーにお出ましになったところを見ました」
「すごい人だったでしょ、よく潰されなかったね。じゃあ、この大量の果物はお土産?」
そんなわけないじゃないか。
「いえ、店で使うんです。この先で叔父さんが店をやってて、バイトしてるんです。休みの間だけですけど」
「果物屋さん?」
「カフェです。夜はバルもやってますよ」
「なるほど、ワーキングホリデー体験だ。いいねー、夏休み満喫してるって感じで」
「はい」
箱の角をしっかり支えたまま、両方の人差し指だけを器用にティムへ向ける。
なんと言うか、感情が全部体に出る感じの人だ。
「あ、おれはクッキー。知り合いはみんなそう呼ぶから、ティムもそれでいいよ」
「クッキー?」
あだ名にしても変テコだ。
「子どものころクッキーが大好きでさ。バリバリ食べながら家中走り回るもんだから、親から『クッキーモンスター』って呼ばれてたんだ。うちは近所の友達のたまり場だったから、それが原因だと思うんだよね」
ティムは笑いを飲み込もうとして失敗し、「ぐふ」と変な声を漏らした。
あまりにも容易に想像できてしまう。そして彼は、多くの子どもがそうするように、ベッドをトランポリンにして飛び跳ねているときも、クッキーを頬張っていたに違いない。
◇◇◇
ティムと果物を送り届けてくれたクッキーは、それからしばしば叔父の店に訪れるようになった。
彼について知っているのは、生まれも育ちも首都の都会人であることと、王宮でフルタイムの仕事に就いていること。なにをしているかと聞けばフットマンだと言うので、ティムはおおいに驚いた。
だって結婚式の日、早朝から王宮前に並んだティムが、遠くのバルコニーになんとか顔が判別できるくらいの距離でしか見られなかった王子たちと、じかに会える仕事だ。「いやいや、王宮めっちゃ広いから。そうそう天然記念物には会えないから」と本人は笑っていたけれど。
クッキーはいつも夕方にやって来て、テラス席でレモネードかジンジャーエールを飲んでいく。パラソルがあるとは言え外は暑い。アルミフレームの椅子だって熱を持っているだろうと、店内の席を薦めた。しかし彼は、そこがティムの担当テーブルだと言うことを知っていて、「ここなら、他の客とバッティングしないじゃん」と、あの笑顔で言われてしまい、のぼせるところだった。
いや、もう正直に言おう。ティムは都会的で闊達なクッキーに恋をしていた。
いつも上機嫌に羊を追う牧羊犬みたいな軽い足取りがステップを踏んで店に入って来て、人生のすべてを楽しんでいるような明るい瞳でティムを見る。「やっほー、ティム」。そう挨拶されるたびに、あのとき転んだことを神に感謝している。
きょうだって、まだ三時だと言うのに、次々舞い込む注文と伝票を捌きながら、つい視線は通りへ向く。入り口の扉が開くたびに、彼じゃないかと期待に鼓動が跳ねる。しまいには、「落ち着きなさすぎ」と店主である叔父に銀の盆で小突かれた。
「そう言えばティム、あなたがご執心の彼、昨日バルのほうへ来てたらしいわよ。エリカが、ティムはいないのかって聞かれてたって」
「うそっ!」
ティムはカウンターにかじりついた。プルプルした唇で笑うのは、看板娘のカリナ。
背の高いチェコ出身の女性で、頭のてっぺんで結った黒髪と体に沿ったブラウスがよく似合う。エリカと言うのは、夜のシフトに入っている彼女の双子の妹だ。
「カフェには来なかったのに……」
「昼の営業中はお酒出さないからじゃない? 彼、けっこうイケる口みたいよ」
グラスを傾けるしぐさをするカリナに、ティムはスニーカーのつま先で床のタイルを蹴った。
「叔父さん! ぼくも夜のシフト入れて!」
「夜はお子さまお断りだ」
カウンターの端で常連客と世間話をしていた叔父から、やる気のない答えが返って来る。
「ぼくだってもう大人だよ!」
叔父は不ぞろいな木目のカウンターに頬杖をついた手で、無精ひげ風──と本人は言っている──を撫でながら、ため息をついた。
「いいか、ティモシーぼうや。おれはお前を預かるときに、姉貴と三つ約束をした。ひとつ、メシはきちんと食わせる。ふたつ、酒を飲ませない。みっつ、悪の道にそそのかさない。ふたつめまではおれが黙っていればバレないから構わないが、万一タバコの匂いでもつけてカーシェへ帰してみろ」
世にも恐ろしい、という顔で叔父は身震いした。
「おれは向こう十年、姉貴からの闇討ちを恐れて生きて行かなきゃならない」
だから、昼のシフトが終わったらさっさと叔父のアパートに帰っていい子にしていろ、と言うことだ。冒険なんてもってのほか!
「ぼうず、ここらは治安はいいが、悪人がいないってわけじゃない。油断してると、ぺろっと食われちまうぞ」
常連のオヤジにまで忠告されて、ティムはふくれっ面で唇を尖らせた。
しかし、天はティムに味方した。
叔父があの常連客と一緒に、ユーロサッカーのチャンピオンズリーグを見にスポーツバーへ行く話を聞きつけたカリナが、それを狙って夜のシフトに入るようにティムをそそのかしたのだ。
夏休みはこうでなきゃ!
ティムはカフェタイムの仕事を終えて一度アパートに戻り、帰りに買って来たインドカレーのテイクアウトで夕食をすませると、「いい子にしてろよ」と声をかけて出かけた叔父が角を曲がって見えなくなるのを窓から確認した後、スニーカーのひもを結び直した。
さぁ、冒険だ。
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