10月6日 〜村上春樹の話〜

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10月6日 〜村上春樹の話〜

 紙面の文章は全て彼の体内から生み出されたものだ。一言一言が彼の見てきたもの、聞いたもの、歩んできた道の凹凸が、積み重なって言葉となって物語となった。物語とは王国だ。私はそれを余すことなく一つずつ咀嚼してページを繰る。彼の王国に頭の先まで浸かる。  『なんと素晴らしいことだろう』  『天吾くん』の文章に含まれた『青豆』はページに鼻をつけて匂いを吸い込む。私もゆっくり息を吸う。ここは王国。生まれた時代も性別も思慮も才能もなにもかも私とかけ離れた人が作った王国。彼は世界的な作家で、私は底辺で妄言を吐くただの学生。けれどこの一冊の本を通じて、私は彼の王国に入る。つながる。この本を読む時、冴えないアパートの一冊が深海に沈むように感じ、同時に空を浮いているようにも感じる。くすんで埃っぽい部屋が、がらりと空気を変えてそこは私の世界ではなく「村上春樹」の王国に変わる。いっそ官能的と言ってしまいそうなほどの艶めかしさをもって、彼の王国は私の内部に侵入し暴れることなく鎮座する。  これを文学というのか。一学生として私は息を吐く。  わかりやすい文章ではない。回りくどくて知らない音楽や女優や映画が羅列されていて、世界観も不透明。不親切な文章。でも、そこには神秘がある。まるで夢現の世界の最果てにある鉱脈のようだと思う。この本の中には宝物が隠されてる。純金の王冠や真珠の首飾り、草薙剣や聖杯や一角獣の角、関連性のない数々の宝が。私はその宝を自分の心臓を頼りに掘り当てる。私に必要なものだけを掘り当てていく。  こんな文章をかけたら。どれだけ幸せだろう。こんな文章を書くには。どれだけ経験を積まなければいけないのだろう。私は「物書きになりたい」と口ずさむだけの芋虫だ。まずは糸を吐いて蛹にならなきゃ。糸を吐くにはたくさん食べなきゃいけない。楽しいことも嬉しいことも悔しいことも辛いことも許せないことも、何もかも食べて糸にする。それがなによりも近い道で、唯一の道だ。
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