ハッピーサプライズ

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ハッピーサプライズ

新型コロナウィルスの影響で、まさか日本に帰れなくなるとは思わなかった。大学の交換留学制度を利用して、イギリスに2019年9月から2020年3月までの滞在がすでに2ヶ月延びている。帰国する手だてがないわけではないが、日本の感染の見通しがたっていないため足留めをくらっている。さらに大学からは帰国を先延ばしにするよう、とどめのメールがきた。 運のなさに深々とため息がでた。ロンドンは相変わらず厚い雲に覆われいる。曇天。俺のこころを鏡で覗いているようだ。 「彩希、聞いてるか?」 「大きい声で話さないでよ、こっちは夜中なんだから」 イヤフォンを通して恋人の声が脳内に響いた。相変わらずいい声帯をもっているな。ずっと聞いていたい。 「私、明日の朝9時からオンラインの授業なんだけど。そろそろ寝ていいかな」 なんだよ、せっかく連絡しているのに冷たいな。付き合いたての頃は、「先輩、先輩」って俺にヒヨコみたいについてきて可愛かったのに。 恥ずかしくていえるか、こんなこと。 俺は、彩希に気が付かれないようにゆっくり深呼吸をした。 帰国の延長が決まってから、彩希の態度は冷たくなる一方だ。研究報告・レポートの〆切前や、大学の友人の付き合いで飲みに行く日以外は、ほぼ毎日オンラインで連絡を取り合っている。半年とはいえ、次に交換留学制度を利用できるチャンスがあるか分からなかった。付き合いたての彩希と離れるのが不安だった。 「考えすぎだよ。私は高校生だし、これから受験もあるから行けないよ。交換留学でしか得られない経験者をたくさんして。私もいつか留学したいから色々聞きたい」 彩希は俺の背中を推してくれた。だから、せめて元気にやっている姿を見せているようにしているのだが。 机の上にある置き時計は午後2時40分だ。イギリスはサマータイムだから日本より8時間遅れているか。日本は午後10時40分頃か。 「悪いな。いつもそっちが遅い時間に連絡して」 「本当だよ。感謝してよ」 彩希、いや、彩希姫か。いつもより一段と機嫌が悪いな。 「こんな状態だから帰れないのは仕方ないけど。イギリスには一度しか遊びに行ってないし」 「湖水地方に行けたんだから十分だろう?」 「そんな言い方しないでよ。もっと長く滞在したかったよ」 「高校があるから1週間しかいられなかったのは仕方ないじゃないか。まったく、心配 するご両親を説得して、よくこっちにきたな。行動力は尊敬するよ」 彩希が満足そうにどや顔をすると、すぐに不機嫌になった。 彩希はピーターラビットの生みの親として知られるイギリスの絵本作家ビアトリクス・ ポターの大ファンだ。俺と付き合う前から、埼玉県にあるビアトリクス・ポター資料館に何度か足を運んでいる。ペンケースの中にはピーターラビットの絵柄の筆記用具が入っている。エコバックはラディッシュをくわえたピーターラビットがプリントされている。 “ピーターラビットのお父さんはマグレガーさんに掴まって、マグレガーさんの奥さんに肉のパイにされちゃうの。かわいそうだけど、ウサギのパイってササミみたいな味がしておいしいのよ。以前パパにお願いしてフレンチのお店で食べたの” かわいい顔をして怖い話をする彩希だが、英米文学がある大学を希望し、寝る間を惜しん で勉強していることを知っている。 ロンドンから電車を乗り換え、約4時間弱かけて湖水地方に訪れた。イギリスで最も美しいと称される湖水地方はピーターラビットの絵本の世界そのものだ。耳を澄ませると、絵本に登場する動物たちが出てきそうだった。ビアトリクス・ポターが生涯をかけて守った湖水地方を日が暮れるまで歩いた。俺と彩希の大切な思い出の場所だ。 「もう我慢できない。先輩と別れる」 「は?」 彩希と目があった。マジかよ、正気か? 「気持ちはよく分かる。俺も寂しい。でもな、今はちょっと」 「いや、離れているの、もう無理」 「ちょっと、彩希、落ち着けよ」 ピンポン、ピンポン タイミング悪く、部屋のインターフォンが響いた。誰だ?こんなときに。 彩希はタオルで顔を覆っていた。肩を震わせて泣いている。こっちの事情はお構いなしに、 インターフォンがなり続けている。 「彩希、悪いけどちょっと玄関に行ってくる」 「Do you have the time?」 なんだって? 「Do you have the time?」 さっきより、はっきりと「今、何時ですか?」と彩希は尋ねてきた。 「何だよ、急にどうしたんだよ。ロンドンは午後3時過ぎたところだよ」 言い終わらないうちに、どさり、荷物が置かれる音がした。 「Happy Birthday!」 はぁ?誕生日?俺? 慌てて玄関に駆け寄りドアを開けると小包みが置き配されていた。 焦る気持ちを抑え、カッターでガムテープを割いて梱包材を取り除いた。人参をくわえた ピーターラビットと、緑の帽子をかぶったベンジャミン・バニーの縫いぐるみが、ピンク色のラッピング袋に入っていた。袋の口は赤いリボンで装飾されていた。 「日本時間だけどね。日付がやっと変わった。先輩、お誕生日おめでとう!」 2体の縫いぐるみを抱き締めて、パソコンの前に戻った。 「先輩、私が演劇部所属で主役の経験があることをお忘れですか?」 「……じゃあ、さっきのは」 「演技でした!サプライズに気合いが入りすぎちゃった。涙は出るんだけど、機嫌が悪いって演じるの難しいね」 「それにしたって」 「だって先輩が生まれた大切な日だよ。お祝いしなきゃ。って、先輩!?」 俺はピーターラビットとベンジャミン・バニーの縫いぐるみにゆっくり口づけをした。 彩希の匂いがする。雨上がりの湖水地方を思い出す緑の淡いアロマの匂い。 「ちょっと先輩、恥ずかしいよ」 「俺は嬉しくて胸がいっぱいだ。プレゼント、ありがとう」 彩希の顔が真っ赤だ。俺も自分がしたことを反芻し、つられて赤くなった。 「絶対にピーターとベンジャミンを一緒に連れて日本に帰るから」 「ありがとう、先輩」 ちゅっ。彩希は照れ臭そうに投げキッスをした。 俺は恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだった。 「あのね、先輩に内緒にしていたことがあるんだけどね。先輩がいる大学に行きたいの。だから、帰ってきたら勉強教えて」 「勿論。いくらでも勉強を教えるよ」 彩希は照れ臭そうに笑った。 「おやすみなさい」 「おっ、おやすみ。プレゼントありがとう。すっげぇ嬉しい」 絶対に日本に帰ってやる。彩希にはピーターラビットのグッズを沢山買って帰ろう。 ロンドンの空は相変わらず曇天だ。でも俺の心は帰国への希望で晴れ晴れとしていた。
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