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父の住処はこの林を抜けて、さらに山深く入った場所にある。
これまでにも幾度も往復している山道を、慣れた足取りで白久は歩いた。
木々の幹の間から、時おり駆け去っていく小動物の茶色い姿が見えた。頭上では、かしましいほど鳥たちが鳴いている。
やがて木立ちがとぎれ、目の前がゆるい下りの斜面になった。斜面の下は、じめつく沢だ。沢の向こう斜面の上に、切り立った褐色の崖がある。
白久は、ぬかるみに足をとられないように用心しながら沢の斜面を下りて行った。
近くに高い木がないために、今の時刻、崖にはさかんに日があたっていた。だから一ヶ所だけそこにある裂け目のような穴は、黒々とした深い傷のようだった。
白久はその前に立ってそっと中をのぞきこんだ。
白久の父、久伊はこの洞に住んでいるのだ。
いつもながら、近寄りがたい場所だった。来るたびに白久は、世界中のすべてに背を向けているような、寒々とした父の意志を感じてしまう。
父が村を去ったのは十五年前、つまり白久の母が死んだ年だということだ。
以来、父はこの場所でただ独り暮らしている。時おり訪れる白久を例外に、他の何者も寄せつけることなく。
陽の光が届かない暗がりの中に、細い火が燃えていた。
その灯火を背に人影がうずくまっていた。
「父さん」
白久は声をかけた。
もちろん、答えは期待していない。そのまま洞の中に入ると、外の光に慣れた目はちょっとの間なにも見えなくなった。
白久は目をこすって父の側に座り込んだ。
ぼんやりと見えてきた父の表情は、白久が来てもいささかも変化しなかった。ちらと娘を見たが、にこりともしない。
めったに陽に当たらない顔は蒼白で、目の下には濃い隈が出来ていた。両頬は、病的なほどこけている。
実際、久伊は病んでいた。
悲しいことに、その心が。
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