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「今日は新しい夏衣を持ってきたの」
白久は快活に言った。
父に会うたびに感じる胸の痛みを打ち消すように。
「わたしが縫ったのよ。叔母さんにも手伝ってもらったけど」
父は答えない。
白久は、ため息を押しころした。
父が心を失ったのは、母の死がきっかけだったという。
妻の死後、久伊は誰とも顔を合わせようとはしなくなった。
もちろん、白久とも。
後の壁の窪みにのせた灯皿の油が切れかかってるのに気づき、白久はかいがいしく油をつぎ足した。
燃える灯芯を直しながら、無造作に置かれている琵琶に目を止める。
あるものといえば必用最小限の品ばかり、すべてが暗く沈んだ洞の中で、その琵琶だけは異様なほど生気あふれて見えた。
全体がつややかな漆黒で、棹から表板にかけて、ぐるりと巻きつくように銀箔の龍がほどこされている。
龍の双の目に埋め込まれているのは、鮮やかな輝きの紫水晶だ。今にも頭をもたげて咆哮しそうな、みごとな細工の龍だった。
一門を捨て、白久を捨てながらも父が捨てきれずにいる唯一のもの。
父は、龍の一門の琵琶弾きだった。
これは、幾千年もの昔から〈龍〉の琵琶弾きに伝えられている琵琶。
〈龍〉がまだ武塔山脈を越えず、西の方の大那で絢蘭たる支配者であった時代の遺物なのだ。
一門の儀式に琵琶は欠かせない。その曲には〈龍〉の歴史がつづられているからだ。
父がこうなってからは、遠縁の青年が別の琵琶を弾いていた。いずれ父が死ねば、この琵琶も譲り渡され、彼が正式な〈龍〉の琵琶弾きになることだろう。
白久は父の琵琶を聞いたことがなかった。
おそらく父は、たったひとりで、死んだ母のためにだけ琵琶を弾いているのだと白久は思う。死者の霊鎮めのためにも、琵琶は弾かれるのだから。
何をするでもなく父の側に座っているうち、陽が傾いて来た。
「じゃあ父さん、また来るから」
白久が言っても、久伊は娘を見もしなかった。
白久は、来た時と同様のむなしさを感じたまま洞を出た。
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