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第七話 人影の正体
非常階段の僕が見た人影は涼野美雪だった。思いがけない人物に思わず固まる。
同時に、頭の中で石田から聞いた噂話が駆け巡る。
雨の日に非常階段から飛び降りた女子生徒が雨の日に出る。
ただ、今僕の目の前に居る人物は決して幽霊なんかではない。これまでに二度ほど畠山と話している場面を目にしている。生身の人間だ。
「どうしたの?固まって?」涼野美雪が僕に問いかける。
「もしかして、幽霊でも探しに来た?」
静かな微笑みを浮かべて、僕に聞く。
「いや………」曖昧な返事をして僕は残り数段の階段を上って涼野美雪に近づく。
最上段にある小さな踊り場に出て、涼野美雪の顔を見る。前見た通り、目には涼しさを宿らせて、口元もそれと同じ雰囲気の微笑を崩さないままだ。
非常階段の最上部には申し訳ばかりの屋根が付いていて、雨が降ってもそれほど濡れないようになっている。上れば屋上へ行けると思ったが、屋上へ続く部分には、屋上中に張り巡らされたフェンスに繋がるようにして取り付けられた金網の扉があり、しっかりと施錠されていたため入れないようになっていた。
涼野美雪が僕の顔をしばらく見つめた後、こう切り出した。
「君、前に職員室かどこかで会ったよね?」
「うん、畠山と話しているところを。」
「そうかそうか。」そう言うと彼女は顔を僕の方から前へと向き直した。
僕もつられてそちらを向くと、学校まわりの住宅やその他の建物が一望でき、奥には山々が見える。朝方だが雨で暗いということもあり、陰鬱な印象を受ける。
「君、名前は?」景色を見つめたまま涼野美雪が聞いてくる。
「東野圭太。二年一組だよ。」
「そうか、同学年か。私は涼野美雪。畠山の三組ね。よろしく。」
顔を僕の方に向き直して彼女はそう言う。
「うん、よろしく。」返事をした僕は、涼野美雪の隣へ行く。
そのまま、何も考えずに景色を眺めた。梅雨の雨が町中に降りしきっている。街を走る車のヘッドライトが鈍く空気中に光る。奥の山々は日が照っていないせいで黒い大きな塊のように見えた。こんなだと、町全体が気怠さを覚えているようだなと思う。
少しの間そうしていると、涼野美雪が再びこう聞いてきた。
「どうしてこんな時間にこんな場所に来たの?」
「授業受けてたら、非常階段に人影が見えて何となく確かめたくなったんだ。」
「本当にそれだけ?噂のここから飛び降りた女子生徒の幽霊を見たいからじゃなく?」彼女が横目に僕を見る。
「それもあるよ。前にも非常階段に人がいるのを見たことがあって、その後に友達から噂の女子生徒の話を聞いた上で今日も見かけたから、本当に僕の見たものが幽霊なのか気になったんだ。」
「ふうん。」大して興味もなさそうに彼女が返す。
「涼野さんは、どうしてここに?」
「美雪でいいわよ。何となくね。たまにここに来てるわ。」
「幽霊の話を確かめたくじゃなく?」
「全然。だってその話が広まり始めたのって私がここにたむろするようになってからだもん。」
「え、本当に?」
「うん、多分君みたいに私がここに居るのを見かけた誰かが面白がってそんな噂を流したんじゃない?」
少しあざけるように笑って彼女はそうこぼした。
なんだ、僕が見たのは幽霊なんかじゃなく涼野美雪だというただの人間だったのか。自分の目にしたものが幽霊のような超科学のものではないものだということに少し安堵しつつ、噂の正体なんてこんなものだよな、と思った。
「そしたら、前僕が見た人影も涼野さんだったんだね。」
「だから美雪でいいって。」彼女がこちらを見て困ったように笑う。ごめんごめん、と僕もそれに合わせて軽いノリで謝る。それから彼女は僕の言葉を返した。
「そうだと思うよ。私以外の人がここに来ることなんて、君以外いなかったもの。」
「噂を確かめようとする人が来ることもなかったの?」
「今のところないわね。高校生にもなって幽霊の噂なんて信じる人なんていないだろうし。だから今日君が来たのは少し驚いちゃった。しかも、こんな時間に。」
そう言われて何だか気恥ずかしさを覚えた。彼女の言いぶりだと、僕が噂を真に受けて、しかもそれを確かめようと真面目に行動に移した人間のように感じたからだ。
「しかし、よく見つけたわね。ここってそんなに見通しのいい場所じゃないのに。」
僕を試すような表情をして彼女が問いかけてくる。
「僕の席が窓側だからね。外を見る機会が多いっていうのもあるかもしれない。」
「なるほどね。」そうして彼女は再び目線を前に戻した。僕も一緒に見る。雨に打たれて気だるげな街を。
しばらくそうしていると、涼野美雪がポツリと呟いた。
「君は、何か嫌なことがあってここに来たの?」
その言葉で僕はドキッとした。自分の家での不協和音を瞬間的に思い出したからだ。彼女には何も言っていないのに。見透かされているような気がした。
「どうしてそう思うの?」平静を装って彼女に問う。
「だって、いくら噂が気になるからってこんな辺鄙な場所に来るもの好きなんてそういないもの。しかも、一時間目のこんな時間に。」
静かに彼女は言葉を流す。
「それだったら、美雪も同じじゃないか。」当たり前のことを言うようにそう言い返す。
「そうね。私たち同類ね。」彼女は小さく笑う。
「でも、たまに来るって言ってたけど、そんなにここへ来て飽きないの?上るのだって結構疲れるし。」
「そうだけど、他の人が来ることなんてないしね。一人で居られるわ。」
「そしたら、今日僕が来たのは申し訳ないね。」
「あ、ごめん。全然気にしないで。」彼女はそう詫びた。
「それに、こんな静かに街が見られる所もそうないし。」
たしかに、今日は雨だから見晴らしはよくないが、晴れた日には夕焼けとかは綺麗なのかもしれない。ここからは街の西側が見えるから、山に沈んでいく夕日が見られるだろう。
「でも、今日は雨だからそんなに眺めがよくないね。」
「そうね、でも私はこれが一番落ち着く。」
意外な答えに少し驚く。雨の眺めが落ち着くなんて言う人はこれまで会ったことがない。
「どうして?」疑問を彼女に投げかける。彼女は少し間をおいて答えた。
「雨って、雰囲気を暗くさせるじゃない。日が照らないのもそうだけど、雨に濡れると人って少し憂鬱になるし。ああ、面倒くさいな、なんて。そういう何だか人間の後ろ向きな空気が街中にはびこるように見えるのね、ここみたいに見晴らしのいい場所だと。遠くに見える山も黒く見えて、街のそういった空気を逃さないようにしてるみたいだし。今が梅雨の時期ってこともあるかもしれない。梅雨の雨って、何だかだらしないじゃない。もちろん、晴れた日の眺めが嫌いってわけじゃないよ。ここから見る夕焼けとか結構きれいだし。だけど、今日みたいな暗い、ネガティブっていうのかな?そういう眺めが私は一番落ち着く。私みたいな人間が居てもいいのかもって、少しだけ思うことができる。」
彼女はそう言った。最後の、私みたいな人間が居てもいいのかも、という言葉が気にかかったが、そのことを聞くのがひどくためらわれて、彼女の横顔を見つめたまま僕は黙り込んでしまった。そんな僕を気遣ってか、彼女は笑って空気を変える。
「ごめん、長々と変なことを言ってしまったね。私も今日は残りの授業くらい真面目に受けるか。」
そう言って彼女は非常階段を降り始める。僕は踊り場から、先に階段を下りている彼女の背中に向かって、気付いたらこう言っていた。
「僕も、たまにここに来てもいいかな?」
その言葉を受けて、彼女は少し意外そうな顔をして振り返ったが、すぐに僕が今日ここに来たばかりの時のような涼しい笑みを浮かべなおした。
「いいよ、いつでもおいで。」
そう言い残すと、涼野美雪は一人で階段を下りて行った。
僕は彼女の背中が見えなくなった後、再び踊り場からの街の景色に目を戻した。
だらしなく降る梅雨の雨が、街を濡らしている。
黒い山が、そんな街を逃さまいと不気味にたたずんでいる。
私みたいな人間が居てもいいのかも、彼女の言葉が僕の頭の中で反芻する。
どうして、そんな言葉が口から出たのだろう。
同時に家で鳴る不協和音に抗いもせず、何もせずにあそこにいる自分を顧みる。そんな僕をここからの眺めは拒みもせず、かといって優しく癒してくれるわけでもない。ただ、ありのままを受け入れてくれるように思えた。
彼女は、今の僕のようなことを感じながら、ここに居たのかもしれない。
ふと、そう思った。
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