第十話 煙、雨に溶けて

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 非常階段の最上部では、案の定、景色をぼんやり見てる涼野美雪が居た。    足音に気付いたのか彼女は振り返り、僕をその目に入れると、 「やあ、久しぶり。」と先に声をかけてきた。こちらも挨拶を返そうと思ってその顔を見ると、彼女は口に何かを咥えている。咥えられた棒状のその先から白い煙がゆらゆらと流れていた。煙草だ、と思い驚いた僕は挨拶も返さずに彼女へ問いかける。 「煙草、こんなとこで吸って大丈夫なの?」 「ん?」彼女は返事にすらなってない言葉を、悪戯っぽい笑みを浮かべながらこぼした。 「もしかして、畠山に注意されていたのってそれ?」 「まさか、そんな下手なことはしないよ。ただ単に授業抜けたり特に休んだりするのをとがめられてただけ。」そう言って彼女はゆっくりと煙を吐き出す。 「そんなの吸うなんてちょっと意外だったよ。」残りの階段を上って踊り場に居る彼女の隣に立つ。  街は、前ここに来と時と相も変わらず陰鬱な空気を帯びていた。雨が家の屋根、車、地面などそこら中に当たる音がこだまする。そこに、涼野美雪から出る白い煙が、ゆっくりと空気の中へと飛んでいき、やがて消えていく。 「そういえば、来週で梅雨が明けるらしいよ。」今朝ニュースで聞いたことを彼女に話す。 「へえ、そうなんだ。じゃあ、夏になったらこの景色もなかなか見れなくなるね。」 「落ち着くって言ってたもんね。見れなくなるのは少し寂しい?」 「まあね。ただ、晴れた日の眺めもきれいだから。私は得意ではないけど。」  そう言うと彼女は手すりに煙草を押し付けて火を消すと、ポケットから携帯灰皿を取り出してそこへ捨てた。 「ポイ捨てとかはしないんだね。」 「言ったでしょ、下手なことはしないって。」得意げに彼女は言う。 「でも、要領が良かったらそもそもこんなところで煙草なんて吸わないけどね。」 「あはは、それは耳が痛い。」そう言うと彼女は手すりに持たれて景色に目を戻した。  僕もそれに倣って周りを見る。  梅雨の雨の音だけが広まる中、しばらく二人でそうしていた。何もお互いに言うことはなく。すると、涼野美雪が突然脈絡もなくこんなことを言い出した。 「君、前に会った時よりも疲れているように見えるよ。」 「え?」そう言って彼女を見ると、彼女も少し真剣な顔をこちらに向けていた。  瞬間的に、以前彼女に何か嫌なことがあってここに来たのかと聞かれた場面がフラッシュバックする。何だか、僕の中の感情、学校と家での自分の振る舞いの違いなども、全て彼女にその涼しい瞳には見透かされているように思えた。  お互いを見つめあい、固まった時間が流れる。そして気付けば、僕は彼女に自分が置かれている状況を話し始めていた。クラスメイトでもなくこの場所以外で会うことも話すこともない彼女との関係だから、後ろめたさが残らないという思いがあってのことかもしれない。それか、知らず知らずのうちに限界を感じて誰かに聞いてもらいたかったのか。  数年前から父親の不倫が原因で家族間が上手くいかなくなっていること。家では連日のように両親の間で醜い喧騒が繰り広げられていること。それに辟易しながらも、何も気づかないふりをして人形のように家に居ること。そんなことを学校で周りに悟られないように仮面を被っていたら、家と学校どちらの自分が本当なのか分からなくなってきたこと。こんなことで憂鬱な自分と天野冬子のように目標が定まっている人と比べた時、人間として生きる自信、ひいては生きていてもいいのだろうかという疑問が浮かんでいること。  これまで浮かんできた数々の自問自答を彼女に話していた。そして、それを黙って聞いていた彼女が再び口を開いたのは、僕のこの言葉を聞いてからだった。 「僕のことを考えて離婚を踏みとどまったらしいけど、もし本当にそうなら今みたいなことをしなければいいのになんて二人には思うよ。これだったら、離婚してくれていた方がよっぽど良かった。たまにそれで、本当に親は僕のことを考えてくれてるのだろうかと疑問に思うこともある。」    僕の咄嗟に出た言葉を聞いて彼女は視線を僕から景色に移し、静かに呟いた。 「あなたも、愛というものが素直に受け入れられない人間なのね。」  彼女の横顔を見ると、口元には笑みは無く、かつて見た時よりもはるかに涼しい、というよりも冷たいといった方が近い目をしていた。  愛を素直に受け入れられない。頭で繰り返すと何とも重い言葉だった。  この発言は、彼女のこの涼しい瞳に何か関係しているのだろうか。 同時に、石田から聞いた彼女が転校してきた事実。それが思い出される。  今、少しだけだが、彼女の奥底に触れた気がした。 「美雪も、何かあるの?」  そう僕が聞くと、しばらく間をおいて彼女は口元に笑みを取り戻し、 「いつか教える日が来るかもね。」そう答えた。  ポケットにしまっていたのであろう煙草の箱を出してそこから一本取り出し、百円ライターで彼女は火をつける。肩ほどまでにかかった彼女の髪の毛と着崩された制服が白い煙に薄く隠れる。何だか絵になるな、なんてそれを見て思った。  彼女が「君も吸う?」と煙草の箱を差し出してきた。箱は赤色で、Marlboroと書かれている。僕は何も言わずそこから一本取り出し、口に咥える。彼女が火をつけようとライターを差し出してきたのだが、思った通りに火が付かない。 「近づけながら吸わないと付かないよ。」彼女が教えてくれた。  言われた通りにすると、煙草に火が付きこれまで味わったことのない苦みが口に広がる。 「どう?」と聞いてきた彼女へ素直に「苦い。」と伝えると、「そうかそうか。」と愉快そうに笑う。  梅雨の雨の中に、二人の煙がゆっくりと、静かに溶けていった。
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