第十四話 蝉時雨、哀しい背中

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 放課後になって、僕は靴箱に居た。上履きを脱いで革靴に履き替えながら、先ほどの帰りのHR後に別れの挨拶をした石田のことを思い出す。 「お疲れ、また明日な。」屈託のない笑顔で石田が言う。 「うん、今日もお母さんのところに?」僕も気遣って周りに聞こえないように小声で聞く。 「ああ、一度家で必要なものとりに帰って病院に見舞いにな。」頭をポリポリと掻きながら困ったような笑みを浮かべた。 「僕が言えたことじゃないかもしれないけど、あんまり無理すんなよ。僕になんかできることがあったらいつでも言ってよ。」 「そういってもらえるとありがたいよ。ま、気持ちだけありがたく貰っとくわ。」明るい調子で僕の背中をバシバシと叩く。結構痛みを感じたが、多分僕に気を使わせないための配慮だろう。 「こっちが落ち着いたらまた遊びに行こうぜ。それじゃな。」そう言って背中を見せて教室から出て行った。  石田の背中、やけに目に焼き付く。自身のためではなく、家族のために何かしようとする意思が背中に現れているからだろう。自分自身のことしか考えていない僕とは違って。同じ家族のことでこうも違うとは。仲の良い石田だが、最近は彼の家族を想う人間としての力強さを目の当たりにする機会が増えていて、自分の愚かさだとか弱さを実感させられるようになった。また、友達からそんなことを考えてしまう自分のことも嫌になって、自己嫌悪の循環が止まらないようになっている事実も、僕に大きな負荷となって心にのしかかる。  ぐるぐるとそんなことが頭で回りながら、僕の足は非常階段へ向かう。学校玄関を出て、敷地内の端っこを通って人目につかないように。このルートが、人目につかず非常階段へ向かう最善のルートのようだ。  見慣れたアルミ製の階段を上っていく。グラウンドの方からは、梅雨明けの晴天を待ちわびていたかのような運動部の掛け声が聞こえてくる。それとは対照的なギッ、ギッという寂しい音が僕の足元でこだまする。  最上部の踊り場につくと、これも見慣れた涼野美雪の背中がそこにあった。僕に気付いてゆっくりと振り返る。 「あら、また来たのね。君は暇だねえ。」妙に間延びした調子で話しかけてくる。 「それはお互い様だろ。」彼女の隣へ進む。  踊り場からは、僕と涼野美雪がここで初めて会ったときに見えた、だらしない梅雨の雨の中で気怠い空気を帯びた街並みがまるで嘘であったかのような夕焼けが広がっていた。 「すっかり夏になったね。」 「そうね。蝉たちも皆、土の中から目覚めたみたいね。」シャワシャワ、ミーンミーンと様々な声が入り乱れた蝉時雨が踊り場を包み込む。 「何だかんだ、美雪は結構ここに居るよね。だいぶ暑くなり始めたっていうのに。」  授業中にここに居る彼女を時折見かけるし、僕が放課後ここにいるときは、僕が帰りのHR終わりに彼女の姿を認めて来ることもあったが、毎回彼女は僕よりも先に踊り場で一人たそがれていた。 「まあね。学校内で気軽に一人になれる場所ってここ以外そうそうないし。それに、君も放課後わざわざここに来ても一人きりだったら寂しいでしょう?」本気なのか、からかっているのか分からない笑みを僕に向ける。 「何だか、ずいぶん僕に優しいんだね。」わざと皮肉っぽくそう返した。 「あはは、どうやら勘が外れたみたいだね。」そう言うといつものようにポケットから煙草を取り出した。当たり前のように僕へ差し出してきて、それを僕も一本頂戴する。二人して彼女の煙草を吸うのが、ここでの通例になりつつあった。 「君もだいぶタバコを吸うのが板についてきたね。」 「結構美雪から貰ってるからね。」 「家とかで吸いたくなったりはしないの?」 「それは全くないかな。あくまで暇つぶしっていう感じだし。」 「まあねえ。ここって、静かで落ち着くけど景色を眺める以外にやることないからねえ。」 「確かに。」 「それだっていうのに、私たち良く飽きもせずこんな所に来てるわよね。」  その一言で二人とも何だかおかしくなって、笑い出してしまった。  笑いが収まり、自然と二人とも夏の夕日が顔を出す景色を眺める。グラウンドから聞こえる運動部の掛け声とひっきりなしに続くセミの鳴き声が、何も考えていない頭に流れ込む。 「私は、結構君とこうしてここに居るのは楽しいけどな。」 突然そんなことを涼野美雪がつぶやいた。  そんなことを言うなんてと驚いて、街に目を向けたままの彼女の横顔を見ると、このオレンジ色に染まった空気には似つかわしくない涼しい瞳をしていた。  この瞳だ。瞬間的にそう思った。石田や天野冬子のような意思に満ちた瞳と違った、感情がないような涼しい瞳。この瞳をした彼女だからこそ、僕は自分の家族のことを話せたのかもしれない。この瞳を見ても、石田や天野冬子とは違って、自分のことを嫌になることがないから。僕は自分の中の疑問に答えを見つけることができた。  そこで、こんな考えが頭に生まれた。僕は彼女に今自分が抱えている家族の憂鬱を話した。初めて、人に話すことができた。だけど、僕は彼女のことを何も知らない。非常階段に居る涼野美雪しか知らない。彼女の人となりだとか、どうしてこの学校に来たのか、何も知らない。 「美雪は、どうしてこの学校に転校してきたの?」気付けば、その言葉が僕の口から出ていた。  彼女は驚いた顔をして僕の方を見た後、 「君、何でそのことを知っているの?」と聞き返された。  しまった、瞬時にそう思った。ここで彼女と会うようになる前に僕は石田から彼女のことを聞いていたから転校生という事実を知っていたが、彼女はそんなことを知るはずもない。  思い返せば、彼女が転校生ということはこの場所で話題に上ったことがない。 「石田彰って覚えてる?多分、去年美雪と同じクラスだったと思うんだけど…」僕は彼女が去年の梅雨の時期に転校してきた事実を知った経緯を正直に話した。 「なるほど、石田君か。まさか彼と君が中学時代からの友達だったとはね。」  僕の話を聞いた後、彼女は理解してくれたようだった。 「そうか、そうね…」そうして少し黙り込んだ後、彼女はこう続けた。 「いいわ、君には話してもいいかもしれない。私も君の話を聞いてしまったしね。礼儀として話さないとね。」僕に横顔を見せて言う。その顔にはどことなく哀しさが漂っていた。  無理に言わなくてもいいよ、僕がそう言おうとした前に、 「だけど、ちょっと長くなると思うから。今日は日も結構暮れてるし、もう帰りましょ。」  僕の肩を振り返った流れでポンと軽く叩くと、彼女は勝手に階段を降り始めてしまった。  言いそびれた言葉を言うため彼女を引き留めようとしたが、何故かそれができなかった。  見慣れた彼女の背中、だけどそこにはこれまで見たことのない哀しさが纏われていた。  それを見て、彼女の過去を知ろうとしたことに後悔を覚える。  夕暮れ迫る蝉時雨の中、涼野美雪の哀しい背中が、螺旋状となった非常階段のカーブの中に消えていった。
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