第十五話 叶わぬ願い

3/4
前へ
/66ページ
次へ
 放課後になって、靴箱でローファーに履き替える。玄関を出てすぐにある、以前非常階段へ行くのによく使っていた脇道を見る。もう、しばらく通っていない。  涼野美雪と最後に会ったのは、梅雨が明けて間もない頃だ。学校ではもう一学期の終わりを告げる終業式が近づいているので、一か月近くは会ってないことになる。校舎内ですれ違うことすらもない。    もしかしたら、もう会うことも話すこともないのかもしれないな。  あの日、彼女に過去のことを聞いたのを何度悔やんだことだろう。  色々考えても仕方がない、そう思い歩き出そうとしたら、 「東野君。」と聞き覚えのある声で呼び止められた。振り返ると、そこには天野冬子が居た。 「お疲れ、放課後に玄関で会うのもだいぶ久しぶりだよね。」彼女が僕の隣に並ぶ。 「ああ、そうだね。」 「東野君は今から帰るとこ?」 「うん、そうだよ。」 「そうか…」  そうして、どちらからとでもなく二人並んで歩きだす。こうやって天野と一緒に帰るのはいつ振りだろうか。確か、最後は僕と涼野美雪のことを彼女に聞かれた時だったから、思い出せないほど昔だ。  前みたいに、取り留めのない話をする。僕はまだ明確な進路希望がなかったり、彼女の方は博物館の学芸員という夢がありつつも今のままでは学力的に危ないかもしれない、そんな話を絶え間なく。彼女とは席が隣だが、なんだかんだ言ってそんなに長話をする暇は日中にはないから、こうして話すのが何だか懐かしくて、新鮮だ。お互いにあまり饒舌ではないし、飛びぬけて陽気なタイプではないからか、彼女と話すのに言葉が詰まることはない。  だけど、天野冬子とは無理をせず楽しく話せるけれど、僕は心の中で言われもない虚無感を感じていた。彼女には申し訳ないが、どうしても抗えなかった。  きっとそれは、彼女には将来の自分自身を見つめた夢があって、僕にはないから。僕は、今をやり過ごすことしか考えていないどうしようもない人間だから。  それが僕の中で、彼女との間にある大きな溝になっているんだ。  しばらくして会話が一段落すると、天野が突然こんなことを聞いてきた。 「東野君、最近あそこには行ってるの…?」 「あそこって?」 「前に聞いた、非常階段だけど…」  またこのことを聞いてくるのかと僕はげんなりした。この時に初めて自分自身でも分かったのだが、最近涼野美雪に会っていないことが僕の中で苛立ちになっているようだった。ただ、天野はそのことを知るはずもない。前に聞かれて以降向こうからはこれまで聞いてこなかったし、僕の方からも詳しく言うことはなかった。彼女に罪はない。そう思い瞬間的に生まれた天野への苛立ちを沈めて、努めて平静に答える。 「行ってないよ。ただでさえ上るだけで疲れるし、行っても特に何もないからね。」 「そう…、でもいいの?」まるで腫物を扱うような顔を浮かべている。その顔を見て怒りに似たものを覚えてしまい、思わず語気に現れる。 「いいって、何が?」言葉にした後で、今の言い方はまずかったと悔いる。天野も察したらしく一瞬顔が強張ったが、怯むことなく続けた。 「少し前にね、見てしまって本当に申し訳ないとは思っているんだけど、放課後に玄関を出て人通りのない脇道に入っていく東野君を見かけたの。美化委員の仕事をしている途中に。 どうしてあんなところを通ってるんだろうって気になっちゃって、それで別の日に私もそこに入ってみたの。何をしに行ってるんだろうと思って。そしたらね…」  天野が一呼吸置く。 「非常階段の上り口に出たから、やっぱり、って心のどこかで思ったんだけど、階段を上らずに立ってる女の人が一人居たの。そこで私、自分がとてもいけないことをしているような気持ちになって、思わず物陰に隠れて見てたのね…。しばらくその女の人は階段の上の方を見つめてたけど、そのまま上らずに帰っちゃって…」  涼野美雪だ、そう思った。彼女が来たその日に僕が非常階段の踊り場に居たかは分からないが、すぐそばまで彼女は来ていたんだ。    天野冬子の話を聞いて一瞬喜びを覚えたが、すぐに不安に襲われた。  多分、天野が涼野美雪を見た時、美雪は少なからず非常階段を上る意思があったのだろう。だけど、結局上らずに帰った。今、彼女は僕に自分の過去を話すつもりがあるのか。そもそも僕に話したくなくて会おうとしていないのかもしれない。そんなことが頭をめぐる。  天野はそんな僕の言葉を待つことなく、こう続ける。 「見るつもりはなかったけど、結果的にこんなコソ泥みたいな真似してしまって本当に申し訳ないと思ってる。だけど、私がその日に見た女の人が、前にこっちから聞いた東野君が非常階段で一緒に居た女の人と同じかは分からないけど、東野君は大丈夫なの?」 「大丈夫って…?」 「だって、東野君にとって非常階段は何か特別な場所なんじゃないの?ああやってわざわざ行くってことは。それに、東野君とあの女の人がどういう間柄とか何があったのか私は知らないし、これが余計なお世話ってことも分かるけど、非常階段のすぐそこまで来てて上らずに帰るなんてやっぱり変よ。」  天野の語気が次第に荒くなる。 「それに、東野君最近たまにすごく思いつめた顔してる時あるわ。あなたと仲の良い石田君も、一度私に聞いてきたもの。隣の席だから何か知ってることないかって。」  石田の名前を聞いて動揺が走る。まさか、天野だけでなく彼にも勘付かれていたとは。石田は本来自分のことだけで手いっぱいのはずなのに、僕のことを心配してくれてただなんて。物凄く情けない気持ちでいっぱいになった。 「これとさっきの話が関係しているかは分からないけど、きっとそうなんでしょ?だったら、手遅れになる前に何とかした方がいいよ。」  天野冬子の言っていることは正しい。だが、その正しさが僕の神経を逆なでてしまって、 「黙ってくれ!」気付けば立ち止まって俯き、そう怒鳴っていた。   一瞬にして、自分が取り返しのつかないことをしたのに気づいてハッとし、彼女の顔を見上げた。天野冬子は目にうっすらと涙を浮かべて、悲しい顔をしていた。 「ごめんね。出過ぎた真似をしちゃったね。」  今の僕の怒声で自分の推察が事実だったのを確信したのだろう。彼女はそう言った。  その一言と表情で、図星をつかれただけで自分自身の身勝手な苛立ちと怒りをぶつけてしまったことを恥じて謝ろうとしたその前に、彼女はこう残して去っていった。 「でも、あの人を悲しませるようなことだけはしちゃ駄目だよ。」  天野冬子の背中が僕から遠ざかっていく。  だけど、いつの日かと同じように、僕は声をかけることができなかった。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

83人が本棚に入れています
本棚に追加