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自分の部屋。見慣れた白い天井。いつものベッドに寝そべる僕。
CDコンポからは、涼野美雪から教えてもらった『甘き死よ、来たれ』という曲が流れている。聞いたその日に気に入って、オンラインショップでこの曲が入ったCDを買ったのだ。これ以外の曲はほとんど聞いていない。涼野美雪は知らなかったが、調べたところ、一昔前のアニメ作品の劇場版で用いられた挿入歌らしい。部屋に、もう聞きなじんだ透き通った女性の歌声が広がる。
頭の中では、今日の帰り道に天野冬子に言われた言葉が繰り返し思い起こされていた。
『手遅れになる前に何とかした方がいいよ。』
『でも、あの人を悲しませるようなことだけはしちゃ駄目だよ。』
そんなことは自分でもわかっている。ただ、どうしようもない。
あの背中を、あの哀しい背中を見てしまったら、僕は何もできない。
そう言い訳に近いことを思いながら、涼野美雪の背中と今日の夕方に見た天野冬子の背中、二つの背中が目の裏で重なる。僕は、かける言葉がある背中を前に、何も言えなかった。それも、二度も。
自己嫌悪。羞恥。後悔。次々と押し寄せる。繰り返し、そして、次第に大きく。
『あなたと仲の良い石田君も、一度私に聞いてきたもの。隣の席だから何か知ってることないかって。』
まさか石田が僕のことを心配してくれていただなんて。彼は今家族のことで精一杯のはずだ。それなのに。彼には僕の家族間の中の歪みのことも、涼野美雪とのことも、何も話していない。何も知らないであろうに、僕の様子の変化に気付いて。
僕の方から『できることがあったらいつでも言ってよ。』と石田に言っておきながら、逆に心配されてしまった。石田は体力、精神共にかなりきついだろうが、それをおくびにも出していないのに。自分のような人間が彼の友達であることがものすごく恥ずかしくなってくる。
そうやってベッドの上で僕の心がのたうち回っていると、今日もいつものごとく一階から両親の怒声が聞こえてくる。今日はやけに耳に障る。
繰り返される罵声。憎悪、憤怒。醜い感情が二人の声に形となって出ていた。
どうしてだろう。最近やけに二人の声が自分の中で鈍く響く。ずっと前からこうだったのに、最近、やけに。別に二人の声量が急激に増したわけではない。
その刹那、頭にふっと思い浮かぶ。
そういえば、涼野美雪と非常階段で会っていた時期はここまで気にはならなかった。両親の喧嘩はその頃も相変わらずだったが、何故か少しは穏やかな気分だった。
そして、思い出される、数々の場面。
『そういう眺めが私は一番落ち着く。私みたいな人間が居てもいいのかもって、少しだけ思うことができる。』
『あなたも、愛というものが素直に受け入れられない人間なのね。』
『君がここに来ても一人きりで寂しい思いしないで済むように、これまで通りのペースでここに来てあげるよ。放課後は暇なんでしょ?』
肩ほどまでに伸びた髪。着崩した制服。慣れた様子で煙草を持つ手。涼しい瞳。
梅雨明けの夕焼けに照らされたあの横顔。
最後に見た、哀しみを纏った背中。
ありありと思い浮かぶ、涼野美雪が。非常階段での、あの時間が。
知らず知らずのうちに、彼女と過ごすあそこでの時間が、憂鬱が取り巻く僕の中で、大きな拠り所になっていたのだろう。失ってから初めて知った。
だけど、彼女の過去を聞こうとしてしまった。知ろうとしてしまった。
きっと、彼女は触れられたくなかったのだろう。
その結果、僕自身の手で壊したのだ。
蘇る後悔。焦燥。そして無力感。
このままではどうしようもないのは分かってる。今日、天野冬子に言われる前にも気づいていた。だけど、僕には何もできない。自分の勝手で壊しておいて、それを元通りにする資格なんて、僕にはない。
今の僕を取り巻く状況と、自分自身に深い絶望を覚える。
耳に、いやでも両親の鈍く響く怒声が入り込んでくる。
このまま溶けたい、崩れ去りたい。
そんな叶いもしないことを、ただただ願うしかなかった。
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