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「そう言って貰えて、本当にうれしい。でもね、もう駄目なの。」
彼女が背中側に体の重心を傾ける。両手で手すりを握っているが、それを話したらすぐにでも真下に落ちそうだった。
力ずくでも彼女を抑えなければ、そう思っても、足がどうしてか動かない。踊り場までのあと数段が、どうしても登れない。心の中の焦りが最高潮になる。
「駄目だ!そんな馬鹿な真似は止めてくれ!」
必死で引き留める。今にも僕の方が泣き出しそうだった。
「そんな顔しないで。私は、やっとこうすることができて嬉しいの。」
いつしか彼女の目から涙は途切れ、いつもの涼しい瞳が蘇っていた。
動け、動け!
必死に念じても、僕の足は言うことを聞かない。プルプルと震えるばかりだった。
「最後に、繰り返しになるけど、君とここで過ごす時間は楽しかった。私も、あの日見た夕焼けを忘れない。死ぬ前に、いい思い出をくれて、ありがとね。」
涼しい瞳は変わらないが、口元にはこれまでで一番柔らかい笑みが浮かんでいた。
「美雪!」
そう短く叫ぶと、やっと僕の足は前に動いた。急いで彼女の傍へ向かう。
だけど、間に合わなかった。
「さよなら、東野圭太君。」
そう言い残して、彼女の体は後ろに倒れる。
逆さまになって、ストンと人形みたいに下へ落ちていった。
僕の目の前には、誰もいない空間が広がる。
だらしない雨の中、もうそこに、僕がかつて見た人影は無かった。
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