拓磨の章-8

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拓磨の章-8

「拓磨さん…」 「…はい…」 「今夜はご自分の部屋に戻られた方がいいわ」 「え…?」 「なかったことにしましょう。 私が部屋に誘ったりしたから、こんな…」 「いやです」 「え…」 「なかったことになんて…いやだ」 自分が何を言ってるのか、 自分が一番わかっていなかった。 ただ…なかったことになんて、したくなかった。 「優しい方なんですね…」 留理はそう言って俺の頬をそっと触った。 その顔は愛しい者を見守る聖母のようで、 とても柔らかな表情だった。 「とにかく…また明日。おやすみなさい」 「おやすみなさい…」 俺は身支度を整えると、 留理が俺にしたように留理の右の頬を 手のひらでそっと触った。 留理は俺の手に上から自分の手を重ねて 「ゆっくり休んで」と微笑んだ。 あんなに激しく求め合ったことが ウソのような出来事に思えてきた。 留理は本当に不思議な女だ…。 翌日… 昨日の事が夢だったのでは、と思われるほど 留理の様子は淡々としていた。 むしろ、あまり俺と目を合わせないように しているようだった。 「松本さん、次回のイスタンブールの日程 とスケジュールについてなんですが…」 「そのことでしたら、東京に戻ってから 内容をまとめてすぐメールしますね。」 と、はぐらかされた。 もう少し話せると思っていたのに…。 帰りも一緒に帰れるかと思っていたら、 「寄るところがあるので便を1本後にします」 と言われてしまった。 さすがに一緒に、というわけにはいかず、 帰りは、1人で飛行機に乗る事になった。 帰りの飛行機の中で 俺の考えることは留理のことばかりだった。 …本当に留理は昨日の夜をなかったことに しようとしているのか…?? …そんなの、いやだ。 …何を思ってるんだ。俺には純夏がいるんだぞ! そんな悶々とした思いを胸に抱いたまま 俺は帰路についた…。
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