02 聖なる海と感化院

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02 聖なる海と感化院

 また死のうとしたら殺すから。と、こちらの(いい)を理解するだけの(ゆと)りはまだあるらしく、眼下では死にかけの昆虫の触覚めいた睫毛が(うごめ)いていた。蠢、というのもなかなか物凄い字である。春のあしもとに虫が二匹、いかにもおあつらえ向きではないか。お前は取り残された。秋に立って、冬に取り残されて、そしてまた明くる(ゆき)()けの季節に寿(ことほ)がれることもままならない。春の(かかと)(にじ)られた虫がここに二匹。  お前は失敗した。その失敗のしかたですら拙かった。いくらなんでも、もっと上手い失敗のしかたもあったろうに、こうして自分の死さえ為終(しお)えなかった。だから? だから何だ。地に伏したからといって殊更(ことさら)(よご)れたも草臥(くたび)れたもあるものか。倒れろ。倒れろ。そのまま好きなだけ臥せってたらいい。何も終えられなかった、何も始められなかった。だから? だから何だよ。何もしないほうがましだったとでも言うつもりか。いまさら何を悟り澄ましてる。したかったんだろ。してしまったんだろ。ならその結果を総身(そうみ)に喰らって、臓腑を()かれて悶えたらいい。負けた。失敗した。それが何だ。敗残者なら敗残者なりの意地を見せてみろ。そしてまたお前が()うのを聞かせてみろ。呻くのでもいい、喘ぐのでもいい、もちろん唄えたら一番いい。兎にも角にもけりをつけてみろ。青春には終わりがある。今、それは来た。もう二度とは無い、ならば。唄え、それを唄うんだよ。禿鷹にも見棄てられた空の下で、埋葬(まいそう)されるにはまだ早すぎるお前が、二〇代(はたち)そこそこに迎えることになった昧爽(まいそう)を明かすため、止むに止まれなかった歯噛(はが)みさえもがいつのまにか歌に変わる、その瞬間を迎えるまで。待ったらいい、ずっと歯を鳴らして待ったらいい。また終えるために、また始めるために。詩にも歌にも、恋にも愛にも、ひとつの終わりがなくてはならないなら。それが絶対に必要なら。  別れは急に来る。来た。幸せは歩いて来ない、不幸せも走って来ない。でも別れは急に来る、今日のように。  (こく)()先輩。と、呼びかけても、その背中は向き直らなかった。あれは手指消毒用アルコールだろうか、そのノズルを机上に向けながら、黙々とペーパータオルで表面を拭っている。あの、先輩。おはよう。おはようございます、あの、本当なんですか、の問い自体がもはや空惚(そらとぼ)けて響いた。デスクのドキュメントケースもすべて処分し鞄ひとつに荷物をまとめた人の背中に、いまさら「本当に辞めるんですか」もあるものか。それでも。本当なんですか、あの社内報に書かれてたこと。見ればわかるでしょう。やはりこうして()なされる。あの、わたし、前にも一度だけ言うチャンスがありましたけど……(こく)()先輩にあこがれてこの社に入ったんです。先輩みたいな作詞家になりたくて……(こく)()(はかる)、みたいな? と、しまった、もうこの人は。じゃあ、先にお悔やみ申し上げておくね。それは私が今から殺しにいく人の名前。  あの、先輩。消毒用アルコールを棚に戻しながら小さく伸びをするその背中に投げかける。わかってます、わたしみたいなのが、(こく)()先輩と自分を同列に並べること自体、不遜だってことくらい。でもわたし、半年間もあったのに、先輩からまだ何も学び取れてません。言いながら、なんて手前勝手な物言いだと思う。それでも。あの、せめて最後に教えていただけませんか。一体どうしたら、先輩のような言葉の(つか)い手になれますか。  ふりむい、てくれ、た。呼吸が止まりそうだ。もう一〇月だっていうのに脇腹に汗が滲む。先輩、その烏貝(からすがい)のような深い瞳の色。ってああなんて凡庸な比喩なんだ、とか思ってるうちに汗の筋が垂れていく。対して、先輩はなんて涼しい顔。  ──あなた自身が、と、唇が開かれた瞬間のノイズだけで身が凍りそうになる。は、はいっ、と甲高い声を漏らすわたしを前にしても、先輩は訥々と続けた。「あなた自身が書こうとしている言葉そのものに打ち砕かれることが必要です」って、ヴァージニア・ウルフが言ってた。私もそれが一番正しいと思う。言い終わると、また背を向けて歩き出してしまう。あの、あの、先輩っ、もうひとつだけお願いします。わたしも、わたしもなんです。先輩があのコラムでやっつけていたような──そのまんまの人間なんです。もう、わからないんです。一体どう書けばいいのか、何を書けば──まるきり子供めいた泣き言を並べてしまっているわたし自身を発見し、遅れて、目の前に(かざ)されている先輩の(てのひら)に気づいた。制されている、読まれている、見透かされている。すう、の一呼吸を聴きながら、わたしは不思議に自分の体温が引き始めるのを感じていた。「最初の一行目(いちぎょうめ)詩神(ミューズ)から与えられる。あとは努力である」って、ポール・ヴァレリーが言ってた。私もそれ以外に無いと思う。  あ。行ってしまう、先輩、まだ訊きたかったことが──て。うわ。うわあ。来ちゃった。なんで来るのおおお。いつもオフィス到着は一一時(じゅういちじ)前なのにいいい。やあ。この人にだけは、この人とその取り巻きにだけは会わさずに済ませたかった、って、わたしが気を揉むこと自体出過ぎた話。それはわかってる。でも井出さん、空気読んでくださいよお。おはようございます。ずいぶんすっきりしてるね。はい、私の個人情報がらみの書類はすべて処分しましたので、どなたかお()(すき)の方、あれだけシュレッダーにかけておいていただければ、とオフィスの一隅(いちぐう)を指差す。その方向には細々(こまごま)しい紙の山。経費で落ちなかった領収書だあ。あて、つけ、だあ。  本当に辞めるんだね。と、まるで合成音声のように無機質な声が響く。寂しくなるよ。そうあってほしいものです。淡々とした会話を背に他の社員たちも黙々とデスクに着き始めるが、無関心を装っているだけなのがバレバレだ。ひとつだけいいかな。君の一〇歳上(としうえ)の者として、一応忠告しておきたい。なんで年齢だけでそう居丈高になれるかなあ。はい、是非伺いたく。今までにも見てきたよ、会社を離れてフリーランスとして活動し始めた作家を。でもね、やっぱり、クリエイターがひとところに集って高め合える環境は()(がた)いものだ。言わば共有資産だよ。そんな環境を、君は本当に棄てる気かい。もちろんです。うわあ、ばっさり。作詞家は、会社に所属しなければ名乗れないような肩書きではありませんから。実質だけがものを言う身上(しんしょう)です、全世界のラッパーたちもまたそうであるように。そうか。でもね、これだけは言っておきたい。「ひとつだけ」じゃないじゃん、もうううこれ以上何言う気。一般論として、あくまで一般論としてだが、職業作詞家のフリーランスとしての独立は、決して幸福な結果を(もたら)さない。今までと同様には業界とも交れなくなるし、むしろ不自由が多くなる。せっかく二年も務めた会社だろう、もう少し我慢すれば幸福な将来が待ってるかもしれないんだぞ。だっていうのに、どうしてここを離れるんだ。「俺たちの(しゅ)に交わっておとなしくしていろ」ってはっきり言えばいいのに。先輩どう返すんだろう、もうわたしが直接手を引いて連れ出しちゃおうか『卒業』みたいに、とかばかなことを考えているうちに、先輩の口角がつり上がっている。右手に抱かれていた鞄が、静かに足下に降ろされる。()いた両の腕が、胸の前で悠然と組まれる。  考えが変わったんです。  こんな笑い方をする人だったんだな。両頬を(ほころ)ばせ、片眉を吊り上げ、鷹揚とした挙措でオフィス全体を見回した、のち、目の前の男を()(いち)(もん)()に見据えて続けた。  二年は、長すぎます。その間、ただ(くち)(のり)するためにお仕着せの詞を書き続けてただなんて、よく気が狂わなかったなと思います。あんなことを続けるくらいなら、私は心を病んだ人たちと一緒にクリスマスカードを折ることを選びます。はは、君もスミス好きだったね。入社時は気が合うと思ったんだけどな。うわあキモい。ナチュラルにキモい。さすが『500日のサマー』がオールタイムベスト映画だとか得々と語ってた人だ。でも、君はこれからも作詞を続けるんだろう、一生。であれば、この決断は君にとって消しようのない傷になるだろう。なんで。もうそんなネームバリューないよこの会社。それでも、本当にいいんだな。これからのキャリアも考えた上での決断なんだろうな。  すう、とまた一呼吸。置いたのち、先輩は(りょう)(まぶた)を閉じて、囁くように言った。  そうですね。一生は、長すぎます。  空調(エアコン)がうるさく聞こえるほどの沈黙。が、決然とした口吻(こうふん)によって破られる。  私の人生は長く恐ろしいものになるでしょう。それでも、あなたがたの人生ほど恐ろしくはないでしょう。(りょう)(まぶた)が見開かれる、いつのまにか、この場に居合わせた全員の視線が、オフィスの真ん中で倨傲(きょごう)として佇む一人の女性の姿に注がれている。私は決して自由にはならないでしょう。でも、絶えずそうなりつつあると感じるでしょう。右手で鎖骨を叩くようにして、指揮者のように細指を振りかざす。私の人生、それをどうやって擦り減らすか言いましょう。両掌(りょうてのひら)の甲を、まるで高笑いせんばかりに掲げながら言う。鉄鎖(てっさ)をこすり合わせるんです。朝から夜まで、夜から朝まで。この無益な小さな音、これが私の人生になる。  言い終わる、と、目の前の男性に背を向け、足下の鞄を拾い上げる。まるでタップダンスのように軽快な響きを伴いながら、出口扉まで歩いてゆく。と、小首だけこちらへ傾けながら言った。  私の幸福、などは知りません。幸福のことは、あなたがたに任せます。  ばたん、という無機質な音とともに、縁は切れた。うしなわれてしまった、わたしと先輩の関係は。もう戻らない、のに、不思議だな。なんでこんなに涼しいんだろう。この涼しさは、きっと一〇月のせいだけじゃない。  取り巻きたちでさえ、井出さんに何を言ったらいいのかわからないんだろう。いたたまれないとはこのことだ。もう、いいよね。空気も読まず言っちゃおう。  今のやつ、歌詞に使ったら、盗作になっちゃいますかね?  おざまーす。おーう、悪いねー散らかってるけど。いや全然じゃないすかー、ていうか、うわー、モノが無い! あはは、褒められてんのかなそれ。いや良いことじゃないすかー、あたしの部屋なんか段ボールとか梱包材で溢れかえってるすもん。機材の? そうす。1LDKだよね、部屋の改造どうなった? あれあたしの部屋じゃなくて、知り合いの物件みんなで改造してスタジオにしようて話なんす。そういうこと。なんかわたしより良い暮らししてる感プンプンだなー。あはは。あねえさん、これお土産っす。おーありがとう、なに? ひよ子っす。え。え、嫌いでした? いや好きだけど。あ、あ、ねえさん福岡住みのひとじゃないっすかー! あははそうだよ。しくったー! とりあえず福岡空港でお土産買って東京帰ろうて考えてたから、一緒にしちゃったすもん。いやいいよ、ひよ子好きだし。でも福岡住んでて県外の人からひよ子贈られるって、すげえ斬新だな。あははー。ありがとう、冷蔵庫入れとこ。あと途中で差し入れ持った奴がひとり来るから。(こく)()さんすか? いや、別のがもう一人。来たら紹介するよ。  九州旅行どうだった? とりあえず全部の県まわれたんでよかったすよー、次は別府の温泉制覇したいす。あれでも結構あるよー。やっぱ九州のひとって県外いくすか? いや、仕事ではそりゃ行くけどねー、旅行では大分と長崎くらい。一口(ひとくち)に九州って言っても北と南では別世界だよ。やっぱそうすか。うん、気候も農作物も訛りもね。でも皆そんな頓着(とんちゃく)しないよ。ていうか、「九州」って単に「中国全土」って意味だもんね。そうなんすか! そうだよー中国語由来で。あ、これ鉄板ネタなんだけどさ、じゃあ中国地方は九州地方なのかっていうね。ぶははは。九州地方は中国地方なのかっていうね、じゃあただの薩長閥(さっちょうばつ)じゃねえかそれ。あははは、うけるー。やばいすねそれ。でもこれあんま笑えないんだよ、だって安倍晋三の爺ちゃんって岸信介じゃん。で麻生太郎の三代前って大久保利通じゃん。あそうすか! そう、どっちも薩長閥(さっちょうばつ)の流れなんだよ。維新から一四〇年経っても未だにこれなのかよって感じだけど、さらに言えばさ、自民党のトップ二人がどっちも九州=中国出身なわけでしょ。ってことは、日本はいま「中国人」に支配されてる。ぶっははははは! ネトウヨくんたちが思ってるのとは全く別の意味でね、はっはっはー。すげえキてるじゃないすかーそのネタ。ああ漁火ちゃんには通じてよかった、これ前に飲み会でやったらスベっちゃったんだよなー。あラインきたっす、(こく)()さんから。お、交換したんだ。あと一五分くらいで着くらしっす。おし、とりあえずMacBook起こしとくかー。冷蔵庫にお茶とかコーラとかあるから適当に飲んで。あざす。おお、赤いプラスチックカップじゃないすかー。ぽいでしょー。ぽいすー、ヒップホップクルーのスタジオて感じするー。(はかる)がこの前来たとき食器くらい用意しとけって言われてさー。ねえさんずっと一人暮らしっすか? ん、まあね、長いね。そうすか、(こく)()さんも? あいつはね、まあ、ちょっと複雑つか。うーん、これどこまで話していいのかな。  母が泣いているからといって、私が泣かせたとは限らない。のだが、居ない父の投影として私が愛されていたというのはありそうな話だった。佐世保基地駐留のアイルランド系アメリカ人と、大正創業の蕎麦屋の一人娘との間に生まれた子供、それが私らしかった。らしかったというのは、その由緒を伝えてくれる筋がどれも不確かだったからなのだが。そもそも父と母が尋常の情誼(じょうぎ)で結ばれていたのかすら怪しい。栗色の髪と眼をした常連客と仲良くなった世間知らずの娘が、いじらしい情交の結果として子を孕み、そこでいかにもカトリックらしい婚前交渉パニックを発した男のほうが先に逃げてしまった、そのアイルランド系アメリカ人の「マクアルーン」という姓の(おん)を取って名付けられたのが(はかる)だという。種だけ付けて逐電した男の、それも名ではなく姓を産まれてくる娘に付けるとは如何(いか)(よう)な精神状態の成せる業なのか想像を絶するが、そう伝えられているのだから()(よう)がない。  産後すぐに母の親戚を頼って北九州に移り、門司(もじ)区にて人並みの幼少期を経たのだが、(にぎ)()(たま)(あら)()(たま)かで言うと明らかに後者であった。そもそも学校というものが気に入らなくて、文字と数字の読み方を覚えるとあとは余技だった。小集団のなかで結束したり媚びたり目配せしたりが(うるさ)くてしょうがなく、むしろスポーツ推薦で成り上がりたがる類の奴輩(しゃつばら)を率先して()()らすのが好きだった。所謂(いわゆる)いじめっ子は粗雑な陰湿さでふんぞりかえっているのが気に喰わないので殴って泣かした。所謂(いわゆる)いじめられっ子も小癪な陰鬱さに居直っているのが気に喰わないので殴って泣かした。そんな素行を取り沙汰す教師も鬱陶しいので殴っていたらいつのまにか女子少年院送りとなり、数ヶ月の矯正教育を受ける次第となった。  知恵をつけるに越したことはないと思った。受け容れられないものがあるとして、それがどのような機構でどのように動いているかを知ることができれば、正面衝突を避けることができるはずだから。最も愚かなのは相手がどのように()れているかを知ろうともせず自分の独断で断罪したがるような人間だ。そんなんで体力なんかつくものか。体力不足の賢者気取りが一番性質(たち)が悪い。生きるための知恵は学校の外でも学べるのだ、ということを私はマルコムXの自伝から学んだ。少年院の図書室の片隅に打ち棄てられていた一冊、そこに書きつけられていた熾烈な知性とユーモアに裏打ちされた言葉の数々に、私は魅了された。「あなたはとても知性的な人ですね、どの大学で勉強されたのですか」「監獄の図書室だ」というあのセリフを一度でいいから言ってみたいと思い、少年院ではむしろ模範的な在院者となっていた。  (こく)()さん。あなたすごく賢いようだし指もきれいなのだから、それはもう別のことに使うべきだよ。という指導教員の言葉が忘れられない。単に賢さと指のきれいさとの関連がわからなかったからなのだが、とりあえず勧められるままにピアノを弾くことにした。当初は練習用シンセサイザーと実演用ピアノとの鍵盤の重みの違いに難儀したが、一ヶ月も練習すればラヴェルくらいは弾きこなせるようになっていた。興味本意でパッヘルベルの譜面をさらってみるとその和声の緻密さに感嘆し、同時に反発を覚えもした。なにか絶えず同じところに戻ろうとする姑息なエンジンのように思えたからだ。  仮退院のために反省の色を示す材料が必要なので、何かまとまった作文をせよという。とりあえず院の図書室で参照できる限りの資料を用い、「音楽の実践と訓育」に関する小論文を書いた。たしかバッハのミサ曲とドイツ・コラールに関する試論だったように思う。院長は「なぜこんなしっかりした文章を書ける子がここに来たのかわからない」と眼を丸くしていたが、それは話が逆で、音楽が私の暴力衝動を吸い上げてくれたのだ。小論文を読んだ学校の担任は、内申書はズタズタでも試験と作文で取り返せるから高校進学を考えろと言ってきた。そもそも義務教育で充分な身からすれば不服だったが、母も高校くらい出ておけと言うので従った。  人を殴るより鍵盤を叩く方がおもしろいと知った私は問題集よりも定番曲集(くろほん)を履修することに専念していたし、誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさいという奇妙な道徳に興味があった私は教科書よりも聖書ばかり読んでいた。父が置いていったというシャロナー改訂版と母が読むために買ったという新共同訳を読み比べていたおかげで、英語は自ずと身についた。音楽理論を学びたければ音階だけ覚えてあとは楽曲を分析すればいい。外国語を学びたければ初等文法だけ覚えてあとは外国語訳の聖書を読めばいい。学校で習う必要などない。語学留学とかいって、わざわざ大金払って外国語を学ぶためだけに留学する輩がいるが、馬鹿じゃなかろうかと思う。基礎の基礎さえ入ってない輩が他所(よそ)に紛れ込んで一体何を学ぶつもりだ。肝心のことは肝心のものに当たれば身につく。あとは使うだけだ。  高校に進んで一番の収穫は、もちろん(りゅう)()()の存在だったろう。隔靴掻痒(かっかそうよう)の感しかない授業は退屈きわまったが、あの場所で彼女と出会えたことは僥倖だったとしか言いようがない。へえ、そういう由来で(はかる)なんだ。ええ。気に入ってる? 特には。でも親のネーミングセンスに不満なんか漏らしたところで不毛なだけ。けっこういいと思うけどなー、つかわたしの()()も相当だよ。なんかうちのかーちゃんさ、思った以上にお産が延びたらしくて、取り上げられた時にはもう西暦一九(きゅうじゅう)(さん)年になってて、じゃあ名前は()()だあってそりゃないよ。もっと親らしい情緒とかねえのかよおって何度思ったか。わたし那須(なすの)与一(よいち)の気持ちがわかるよ。今、この地上で那須(なすの)与一(よいち)の気持ちがわかる女なんて、そう多くないはずだよ。と、あの日の話しぶりは未だに思い出せる。初めて私が他人の話で噴き出した瞬間だったから。え、何、そんな面白かった。だってねー、一一(じゅういち)人目の子供だから与一だあってそりゃないよねえ製造番号じゃん。ふふっ、確かに。話が面白かったから。それだけで相手を特別に思っちゃいけないなんて理由があるだろうか。あー笑うとかわいいねえ、そっちのがいいよ。と、ぬけぬけと言ってのける同い年の子がいたとして、好きにならずにいるのは難しいのではなかろうか。なんかクラスのやつらみんな一歩置いてるもん(こく)()さんには。知ってる。少年院いたんでしょ、女子の少年院ってどんなとこだった? 女囚モノみたいな? その女囚モノを知らないからなんとも言えないけど、でも、馬鹿な人間はナメられる環境って意味では中学と同じ。どんな殺伐とした中学だったんだよ、もっとみんなゆるいっしょー。日本人の両親ふたりに囲まれて郊外の一軒家で育った彼女とは金銭感覚も世界観も合わなかったが、むしろそれが心地よかった。じゃあわたしもナメられないようにしないとな(こく)()さんに。する必要ない、あなたは馬鹿じゃないって既にわかるから。あと、(はかる)でいい。  彼女がヒップホップのCDを一〇枚貸してくれるたびに、私はマルボロ一箱を進呈した。私による和声理論初等講義の授業料として、彼女はブッシュミルズ一瓶を献上した。おそらく、私たちは互いが辛うじて持っていたものを分け与えていたのだろう。私はヤンキーのシュプレヒコールでしかないと()(くび)っていた音楽に思いのほか晦渋(かいじゅう)な非和声構造が潜んでいたことに眼を(みは)ったし、彼女も実践的な学理によって音楽への興味をさらに深めたようだった。  で、そのモードってのはダイアトニックとどう違うん。ドレミファをどの音から弾き始めたか、ってだけでしょ。音列的にはそう。でもモードはトニックに解決することを問題にしてないって言ったでしょう。ドミナントの不調和段階からトニックの制動状態に帰結する、ってエンジンがそもそも無いの。ずーっと不調和でいいってことか。精確には、調和・不調和という二分法自体を相手にしてない。だから同じ一つのモードでもいいってわけ。えー、でもそれつまんなくねえ? そんなこと無い……というか、あなたヒップホップ好きでしょう。うん。ヒップホップってモードだよ、と言うよりも、ヒップホップの骨子の(こっし)一つであるファンクはまんまモードの音楽なの。JBみたいなやつ? そう。和声的解決を必要としない、永遠に踊り続けられる音楽。そのモード性をループミュージックの原理に則して発達させたのがヒップホップ……だとは言える。後付けだけどね。一発モノってそういうことか。でもさあ、『Sex Machine』ってあれ転調してない? 転調じゃなくてモードチェンジ。どう違うん。ええと、ファンクはメロが薄くてわかりづらいから……たとえば、この曲。  おお、日本のバンドも聴くんだ。いいよねこのアルバム。うん、本当に作曲が優れてる。この曲ね、イントロからBメロ前半までならF#mキーでしょう。ちょっと待って音取らせて……ん、そうだね。ただBメロ後半のサビ直前で、F#mつまりエオリアンからドリアンにモードが変わる。どこ? 「なにを・しんじ・あおうか」の所よく聴いて。この「しんじ・あ」の「じ」と「あ」の音がF#の長六度。エオリアンの短六度を半音上げるとこのドリアンモードになる。それで……あ、サビはずっとこれか。え、これ単にC#mキーに転調したんじゃないの? 音列は同じだからそう考えてもいい、けど、私は明らかにこの曲はモードの理論で作られてると思う。なんで。イントロとAメロまでのコンピングが明らかにF#センターなのと、サビでこの……ピアノの音が入るでしょう。「テーレーン」てやつ? そう。これは長六度と短七度の音で、ドリアンをドリアンたらしめる音。わざわざこんなフレーズを入れてまで強調したかったってことは、F#センターのモーダルとして解釈しうるってこと。ああ、そこの違いか……しかしまあ良い曲だなあこれ、海行きたくなるね。ふふっ、関門海峡(かんもんかいきょう)? 聖なる海とはとても言い難いけど。いいじゃん行こうよカーステで音楽かけながら。来年わたし免許取るからさ、(はかる)くんは助手席でブッシュミルズでもラッパ飲みしていたまえ。捕まるでしょう。えっ助手席でも飲酒運転なんの? 未成年が堂々と酒飲んでたら、って意味。そっちか。あっそうだこのネタ言ってなかったな、知ってる? 飲酒運転で殺された人はいっぱいいるけど喫煙運転では……  と、飲んだり吸ったり読んだり唄ったりしているうちに高校生活が終わった。()(へき)も歓楽も性愛も人並みに経験したが、それらが私にとって人並み以上の価値を持つようには思えなかった。ただキリスト教文献に関する興味はひとときも途切れることなく、アクィナスの英語抄訳に挑戦しながらこれをラテン語原文で読んでみたいものだと歯噛みする程度にはなっていた。高校卒業後の進路としては、東京大学宗教史学研究室に入って鶴岡賀雄氏のもとで専攻を得るのが理想だったが、その鶴岡氏の一番弟子の博士論文を書籍化したものを読む機会があり、あまりの論考の緻密さと文体の強烈さに格の違いを思い知らされ、もはや学問で長ずることは諦めた。適当に決めた大学で独文専攻となり、ひたすら読みと書きに専念し、卒論の主題をリルケに求めて四年間を終えた。この時点でマルコムXの例のセリフを言う資格は失くしてしまったが、とくに後悔も無い。少年院で腐っていることも大学院で(やに)()がっていることも両方ままならなかった、どっちつかず(In Limbo)のこの身だ。ただ、ねえねえリンボーダンスのリンボーってあれ『神曲』とは関係ないんだってねあれ立ってるのでも寝てるのでもない中途半端な姿勢だから辺獄(リンボー)ダンスっていうのかと思ってたけど関係ないんだわたし西インド諸島の語圏にまで影響及ぼすなんてダンテぱねえなと思ってたんだけどやっぱ何でも西欧中心で考えるのよくないね、とだしぬけに一方的な電話を()()してくる(りゅう)()()との縁だけは切れることがなかった。高校卒業後にオフィス用品通信販売会社に職を得、その納品業務中に出入りした学習塾の講師の一人と恋仲になり、同棲はじめたから会いに来なよ3LDKよ3LDK大丈夫デカい音で音楽鳴らしても大丈夫な物件よ鍋パしよ鍋パと言うので、まさか福岡市に魂を売るとはねこれからはアンクルトムと呼ばせてもらう(はかる)だって生粋の北九(きたきゅう)民じゃないじゃん生まれ佐世保でしょえっ佐世保ですかもしかして基地近くですか実は第一印象ハーフっぽいなと思ってたんですけどあー(きゅう)(ぞう)じらい踏んだわーえっどういう別に地雷ってことないよただ「ハーフ」なんて言葉を無批判に使えてしまう神経は堪え難いかなご存知の通りミトコンドリアDNA解析の知見では日本人ほど多種多様な民族ってないんだよ東南アジアはもちろんコーカジアンもアフリカもそれどころか未知の人種さえあるんだってこの島以外では滅びたのかもねでたー(はかる)マジお前より頭いいかんねほんとすいません不快にさせてしま不快じゃないわかってほしいだけそもそも純血の人間なんていないんだってことを、と他愛もない会話で夜を明かしもした。(はかる)さんのご職業訊いてもいいですか。文筆。といってもやくざな仕事。でっちあげの風俗体験レポとか納品するあれでしょ、よく続くねえ。文体模倣ごときで収入が得られるんだから楽なもの。独文出たんでしょー翻訳とかやればいいじゃん。翻訳は一人の著者……いやそれどころか一冊の本のために命を捨てる覚悟がある学者だけの仕事。私みたいな半端者が手を出していいものじゃない。まーねえでも(はかる)もっとそーぞーてきな仕事やったらいいじゃんね文章上手いんだしさあ、と言われても、作詞家の仕事については明かさなかった。後ろめたかったのではない。照れくさかったのかもしれない。いくらボーカル譜の音節数に見合う言葉を当てるだけの仕事だとしても、いわゆる創造的な仕事には違いないのだろうから。しかし仕事を受け続けていると、決して恵まれているとは言えない環境で切歯扼腕しながらそれでも音楽を生み続ける意志を離さない人々も決して少なくないことを知り、いささか蕩揺(とうよう)した。索漠(さくばく)とさえした。あの人々は何に突き動かされているのだろう。学校を出たから、コネがあるからでもない、金になるからではさらにない。あの人々と私を隔てるものは何だろうか。作れるはずもないものを作ろうとしている、(きた)るはずもないものを(きた)らしめようとしている。では、私は。詩学を専攻したなら詞くらい書けるのかもと漠然と稼業を増やしただけの私は。書けるものしか書かないのなら、それは何も書いていないのと同じ、か。  などと漫然と過ごしているうちに一年が経ち、大学の同期との縁も薄まりゆく頃、例によって()()から電話があった。会って話そうよ、すげえ面白いやつがいるんだよ。たしか(なか)()川端(かわばた)のアイリッシュパブで待ち合わせたのだったか、ひとりの女性を伴って来た()()の表情は、まるで読みたての書物を猛烈に薦めるときのそれにも似ていた。あるいは、思春期の少年が強々(こわごわ)しいエアガンを手にしたときのそれだったのかもしれない。  百済(くだら)()()()。名前からして実在すら疑わしいその女性はしかし、決してエキセントリックな印象は抱かせなかった。むしろ話し上手より聞き上手の口吻(こうふん)だったが、今になってみるとあれは他人の口を滑らせて所望(しょもう)のものを引き出そうとする諜報術(ちょうほうじゅつ)(たぐい)だったのかもしれない。  イランの出身で、居住地区での政治的迫害を逃れて日本に移民した、その家系の(すえ)だという。イランから九州ですか。ああ、九大(きゅうだい)は西アジアからの留学生も多いしマスジドもありますもんね、と鎌をかけるといやその価値基準で選んだんじゃない、との応え。パブでの待ち合わせに了承したからにはおそらくムスリムではないのだろうと思ってはいたが、ではなぜヒジャブを着用しているのか説明がつき難い、しかし訊くのも無礼だと躊躇していると、ああ、これ? 美しいから。と一言で応えられてしまった。見透かされているのか、ではこちらの問いを躊躇することもないなと思い直截に聞いた。福岡での暮らしはどうですか? 思ったより暑くない。高層ビルの鏡面体からの照り返しとコンクリートの蓄熱が少ないから、夏の気温はむしろ東京のほうが高いんですってね。そうですか、比べたことなかったですが。比べると色々なことがわかってきますよ。東京と比べてこの土地がとくに良いなと思うのは、混ざってるってこと。混ざってる? ええ、地理的にも歴史的にも。ああ、たしかに。大陸とも半島とも……長崎ではオランダとも交易がありましたしね。(はかる)は佐世保の出身なんだよー。そう、基地のある……ええ、そこの軍人との間に生まれたんです、と口を滑らせたのは、目の前の女性もおそらく西アジアと東アジアの混血であろうとの見立てからだった。「雑種と混血こそが人種の真の名」、とはなかなか良い言葉だと思いませんか。との云いは、いわゆる「純日本人」以外の間で交わされてこそ正当な意味を持ちうるものだったろう。人種は混ざって出来ている。この意見において、百済(くだら)()()()と私は対立しているとは言い難かった。むしろなぜ他の人々には解らないのだろうかと訝しまれる当然の前提を共有した同志である、とすら言えたかもしれない。  ()()とはどこで知り合ったのか、知り合ってどれくらい経つのか、今の職業は何か、などの薄味な会話ののち、私の独文専攻に話が及ぶとすぐさまリルケ談義になり、彼の謂う「天使」はプロテスタントやカトリックのそれでも、もちろんユダヤ的でもない、むしろイスラームに近いと思う。ああ、確か彼も書簡でそのことにふれていましたよ。そうでしょ、あの詩は明らかにスーフィズムの匂いがする、スペイン神秘家でもドイツロマン主義でもなくスーフィズムの。などの二言三言を軸足にして、話題はすぐに一次大戦に移り、エルンスト・ユンガーとワイマール共和制、ブレヒトとベンヤミンの詩的抵抗、オットー・ヴァイニンガーと性嫌悪まではついていけたがランツ率いる新テンプル騎士団の人種主義(völkisch)にまで話が進むと流石にお手上げとなり、むしろこちらが教示を乞うに近くなった。人名、書名、事跡名などの固有名詞がひっきりなしに飛んできたので内容はほとんど覚えていないが、ひとつだけ脳裏に焼き付いて離れない光景(シーン)がある。あれはたしか、二〇世紀における反セム主義の跋渉(ばっしょう)を以ってしてもユダヤ的なるものは滅びなかったこと、および二一世紀に継承されたネオリベラリズムの奸策(かんさく)に抵抗しうる拠点がイスラームであること、であるからこそ硬直的な原理主義、いや無原理主義をこそ駆逐しなければならないこと、を冷徹にしかし情熱的といって何を誇張したことにもならない口調で述べたのち、彼女は、百済(くだら)()()()は、こう言い切ったのだった。  この世界は変えられる。  ねえ、面白いやつっしょー。と晩に電話を()()してきた()()に、あの時点で忠告しておくべきだったろうか。確かに彼女の人文知は透徹している。その理論構築にもよどみがない。しかし、彼女の語る革命論──そう呼ぶことができるなら──は、あまりにも急進的(ラディカル)すぎるというか……と言ったところで、そもそも radical には「根本的」の意味もあるのだから彼女の性質を補強することにしかならなかった。唇寒しとはこのことだ。百済(くだら)()()()は根本から、徹底的に世界を変えようとしている。しかも、その手段が藝術だという。なんとナイーヴな──いやしかし τεχνη と ars はそもそも人間が生きうるための場所を造る「工夫」の意であって、無関心性を前提とする近代藝術の定義とはそもそも関係がない。ならば人類史の更新はその「工夫」を変革することであり、その手段こそが藝術であると──なるほど、革命的(radical)だ。  そして行ってしまった。私が言葉に詰まっているうちに、()()()()()に連れられて行ってしまった。東欧の新共産主義者のコミューンに当てがあるんだって。()()()なら間違いなくやれる。ぶっ壊せるよ。もう戻らないから。との、決然としたというより微熱に浮かされたとしか言いようのない電話を最後に、()()は行ってしまった。部屋の中から身分証も通信端末もすべて跡形無く消えていた、とは、()()(きゅう)(ぞう)から直接電話で聞き出した。彼自身も()()の出立を引き止めることができなかった、とは、その土気色(つちけいろ)の声から窺えた。  何故止められなかったのか、今ならわかる。怖かったからだ。あの女の、異様なまでに冷徹な世界認識と、壁を壁として認識した上でそれを穿(うが)つ方途を見出さんとする炯々(けいけい)たる眼力を恐れた。それは私が持ちたくても持てなかったものだから。()()()()()を選んだのも無理からぬことだった。ゲームを変えること自体がゲームであると心得た者と、既成のゲーム盤にすがって手前の上がりに目を配るばかりの者とでは、どちらが面白いかは一目瞭然だったからだ。そして()()は、いつだって面白いものに飛びつく。私は()()に取り残された。そして、()()()()()に取り残された。  東欧を渡り歩く旅費全額を、その新共産主義者とやらのカンパのみで賄っていたというのだから、まったく肝の太さに恐れ入る。とは言っても、その旅程すべては()()()ひとりによって計画されていたものだったが。ポーランドのグダニスクに滞在中、何の前触れもなくホテルに置き去りにされたと、ランボー&ヴェルレーヌ的な痴話喧嘩を経たわけでもなく、朝目覚めてみたら()()()だけが彼女の持ち物とともに忽然と消えていたと。そうして英語すらもおぼつかない不用意な同伴者は、当ても無しにグダニスクの街を三日三晩探し歩くことになったという。電話をかけようにも小銭さえ無く、警察に捜索を願おうにもどう伝えたらいいのかすらわからない。彷徨の果てに飢餓に倒れ、警察に保護され身分を照合したところ新共産主義者とやらからの金銭授受が露見し、反社会的組織との癒着の疑いありで強制送還の運びとなった。パスポートすら紛失していたために緊急連絡先が不明で、手帳に書き付けてあった唯一の日本人名の連絡先であった私のもとに電話が来た。なぜ私の名前が、と未だに考えることがある。ことを為終(しお)えたら凱旋の連絡でも()()すつもりだったのか、それとも慣れぬ旅先で祖国への想いを繋ぐための護符(feitiço)代わりだったのか。どちらもありそうにない。もし私も()()()の同志だと認められていたのなら、どうして()()は私を連れて行かなかった。どうして声さえかけなかった。  止むに止まれず身元引受人となった私は、登攀(とうはん)中に梯子を外されたどころか蹴落とされた格好となった(てん)()(しゃ)を蘇生させる務めを負わざるを得なかった。北九州の(りゅう)家の両親を頼ることは、本人の頑なな拒絶によって取り下げられた。()()(きゅう)(ぞう)に助けを求めても電話にすら出ない。ので()()の現状を書面に(したため)て送ったが、三行半(みくだりはん)のように()()の私物をまとめた段ボール箱を私の住所に送ってくる始末だった。なるほど、突然現れた女に自分の交際相手を奪われた九州男の傷心ぶりが如何なるものかは私とて察しがつく。しかし、数ヶ月前まで同棲していた男が行方不明の相方を気遣いすらしないとはどういう了見だ。結果的に住まいすら失った()()は、私の1LDKの片隅に場所を得るほか仕方なかった。  って感じかなあ。思ったよりハードすね。あの……なに? その、()()()さんとねえさんとの間に何があったかは、訊いちゃだめすか。だめっていうか……わかんないんだよね、わたしも。未だに? うん、いきなりいなくなっちゃったからね……たぶん、わたしじゃ()()()の道連れには相応しくなかった、そういうことなんだろうな。  おっ。きたきた。(はかる)ー? ういーいま玄関あけます。  また死のうとしたら殺すから。あの言葉は効いたらしい。自殺はいけません皆が悲しむし道徳的にまずいし天国に行けなくなりますなんて、そんな説教が役に立ちはしないことはアイリッシュの血を引く娘なりに弁えていた。だから前もって共犯者になることにした。どうせ自分も死ぬとはいえ、死後に腐れ縁の友人が犯罪者になってしまうことを斟酌(しんしゃく)すれば躊躇(ためら)いたくなるものらしい。しかし瓶入りスピリタスを三本(さんぼん)一気飲みして急性アルコール中毒で死のうとは、本気だったかどうか怪しいものだ。その気になれば全身にスピリタスを浴びて火をつけることもできたろうに……  あ、また鳴ってるすよ。お、あいつだ。同時に来たか。あーい、ようよう差し入れ持ってきたろうね。ならさっさと上がってこーい。  思ったより綺麗な物件だな。家賃いくらだろう。1R(ワンルーム)だって言ってたけどな。しかしまあ会うの何年ぶりだ、またくだらん言い争いにならなければいいが。  しかし、あれほどまで思い詰める前にどうにかできたはずではないか。私のせいでもある、が、私だけでもない……みな手詰まりだった。異国を放浪する途上で同性の伴侶に棄てられた者への気遣いの言葉なんて、一体どう工夫すればいいものか。もし満足な言葉をかけてやれたとしたら、それは彼しか……と、こんな辛気臭い回想はもうよそう。作曲に頭を切り替えなければ、  (はかる)? もう鍵あいてるよー。  え? あれ、あの人も同じ部屋か。あ、もしかして、たしか動画で見た。彼女か。  ならない。と思っていたら、(とな)る男性がいた。見れば、()()(きゅう)(ぞう)である。  インターホンを押した指先が拳に変わるまでに、一秒もかからなかった。  ドアを開けたら、元カレが音楽仲間に殴り倒されていました。  なぜ教科書調だ。いや教科書調にもなるわ、目の前にその通りの光景が展開されてたんだから。止めなきゃか。ちょっと(はかる)だめだよそこまでよ二発目はだめよと諌めたかったが、既に倒れた肉体の胸ぐらを掴みにかかっていた。  どこにいた。言ってみろ、お前はどこにいた。私が()()の身柄を引き取りに行っていた時、お前はどこにいた。私が()()の保険だの税金だのを肩代わりしてた時、お前はどこにいた。私が()()の世帯主になるために役所で七面倒くさい書類を書いてた時、お前はどこにいた。ちょっと(はかる)やめなよそんな『The Fragile』の頃のトレント・レズナーみたいなの、九〇年代はもう終わったんだよ。関係ない。このスターファック野郎に思い出させてやる、あの時果たすべき役割を怠けたせいで私たちがどれだけ苦しむことになったか。あの時、一体お前はどこで何をやっていた。  ちょっ、とまっ、こぼっくのぁ、しもんきオッケーオッケー、ちょっとマジで落ち着こう(はかる)。まずその手え放そうか。まだ返事を訊いてない。あのね(はかる)、一般的に言ってね、人は頭部に打撃を加えられたあと恫喝されながら数年前の自分の行いについて詰問されてまともに答えられるようにはできてないんだよ。(きゅう)(ぞう)大丈夫? 目え見える? オッケーじゃあ起こすから手、いや肩組んだほうがいいか、起こすよ、いっ、せーの、せ。  頰に一発くらった男性の肩を組んで帰ってくる、という光景に漁火ちゃんは慣れていないらしく、うわあどうしたんすか誰すかと狼狽していた。えーっとね前話したでしょ、元カレ。あねえさんの! ファンク好きの! と不意をつかれた(きゅう)(ぞう)の頰に化学反応めいて気色(きしょく)が戻り、えっなんで知ってるんだ、と人間らしい文句を吐いた。前ねえさんから聞いたっすー、ファンカデリックのTシャツすよね。そもそもねえさんと知り合ったきっかけがあの会話じゃないすかー。つことは、彼氏さんあたしとねえさんの仲人っす! え!? 仲人!? そうだよーわたしね今このヤングでギフテッドなファンカティアとつきあってるのー、と肩とか組んどく。漁火ちゃんも面白がってピースとかしちゃう。え、本当ですか!? 本当なのでしょうか!? なぜそこで(はかる)に訊く。なんだその丁寧語。さすがにこれ以上からかうとアレなので、(きゅう)(ぞう)を椅子に座らせて冷蔵庫から湿布を取り出す。右頬? はーい動かないで、歯とか折れてないよね。よし。  ぶんなぐられたんすか、来る途中すか。よっぱらいに? いや、(はかる)に。え! もーめんどくさいから当人が説明しな。と言っても(はかる)はそそくさとプラスチックカップに冷茶を注ぎはじめ、あまつさえミスドの紙箱を卓上に置きはじめる。(はかる)。なに。なんで殴ったの。差し入れのチョイスが気に入らなかったから。ぬけぬけと何言ってんだお前は。いちいち言わなきゃわからない? 借りがあるの、そのファック野郎は、私に。(きゅう)(ぞう)はといえば頰をさすりながら身に憶えのある顔。あなたがすべきだった尻拭いを、よりによって私が。いくら()()の行動が不用意で無軌道だったとは言えね、帰る住所すら無い人間をひとり放置するなんておかしいと思わない? (きゅう)(ぞう)はといえば何度か唇を開きかけるが返す言葉が見つからない様子。もう、いいって。わたしが言うしかないよなあ。もう何年前のことだよ。そんなに昔でもない。もういいから。わたしは何とも思ってないから、じゃなきゃ今日呼んでないよ。な(きゅう)(ぞう)、わたしら電話で仲直りしたもんな。実際は数年越しの(わだかま)りを解くための罵りあいだったけど。差し入れありがと。もらっていい? 右頬から手を放して頷く。ほーい、じゃあ作業開始前にちょいブレイクでーす。皆さん差し入れ持ってきてくれた(きゅう)(ぞう)さんにありがとう言いましょうー。ありがとっす。(はかる)、ちょっとどこ行くの。サンマルクカフェ。あほか駅前まで歩いて行くつもりか。ミスドよりはまし。座れ、いいから。  とりあえず、三人と一人でのブレイクタイムが流れる。いたたまれない空気は好きじゃない、から小石でも投げる。焼肉連れていった? え? 生徒さんを。いや……おいー秋から受験勉強シーズンでしょそれくらいやってあげなよ。お前な一体何人いると思ってんだうちの生徒。え何人? (ふた)学年ふくめて三八(さんじゅうはち)人。そんないんの! それだけの人数連れていったらさすがに財布に穴空くわ、なんかしてやりたい気持ちはあるけどな、こうやってドーナツとか買ってってやるくらいだ。ああ、その流れでのこのチョイスか。漁火ちゃんこいつ個人経営の塾やってんだけどねー、もともと九大(きゅうだい)のファンク研の初代部長。ファンク研とかあるんすか! あるっていうか俺が作ったんですよ、フォーク研がしゃらくさいから。でもまあ俺の卒業後に潰れたらしいですけど。あちゃー惜しいっすねー。あ、あたしギター仕事やってる漁火っていいます、これからねえさんと組むっす。つきあってはいないよね。つきあってはいないっす。バンド、ってことになるのか? んーでもビートに乗せてやるからねえ、三人組ヒップホップクルー、てのが一番適当なんじゃないの。じゃあその、(こく)()、さん、は……フレンチクルーラーを()みちぎりながら毒蛇のような一瞥をくれる。(はかる)。なに。少年院前に戻ってるぞ。知りもしないくせに。知らんけど、ドーナツ喰ったからにはちゃんと話せ。右手をナプキンで(なす)りながら左手でカップを持ち上げる、ごくりと喉が鳴る、一呼吸おく。話しはじめる。  二年前、入社してね。え、その話か。()()もそろそろひとりで大丈夫かなって時期に、音楽制作会社入ったでしょう。うん。とりあえず福利厚生あればいいなとは思ったけど、やっぱり小集団では創造性より処世術がものを言うんだなって思い知らされた。そっか。だから辞めた。えっ。漁火ちゃんどころか(きゅう)(ぞう)まで目を剥く。あべこべに、(はかる)は悠然と腕さえ組んでいる。  (こく)()(はかる)、今月より晴れて無職よ。  The 最も誇らしげに言うべきではない thing I've ever had なのだが、なにか清々しささえ感じる。そっか、まあ、よかったじゃん。よかったのかな。久蔵(おまえ)が心配することじゃねえ。いやでも、えと、東京住みでしたっけ。そう。拠点移すってこと。当分その予定はないけど、このプロジェクトがどうなるかで変わってくる。それまではフリーで作詞の仕事は受け続けるけど。まあ引く手数多(あまた)でしょうしねー、でもわたし(はかる)が作詞やってたってことすら知らなかったんだよ、何年か前まで。そうなんすか。だって言いたがらねーんだもんこいつ。  なに書いてるの。仕事。文筆? まあ。あ、譜面だ。これ聴きながらやるの。もしかして、歌詞? まあね。(はかる)こういうのもやってたんだ、すごいじゃん。すごくもない。だっていちから(つく)るわけでしょ。ジャンルによって使う語彙が限られるし、あとはディレクションに沿って言葉を当てるだけ、大したことじゃない。そうなの。もう切り上げるからご飯にしよう。今日は外に食べ行こうよ。だめ、昨日の鍋が残ってるでしょう、あれ雑炊にするから。  野菜鍋の雑炊に発泡酒って、ザ・貧民の晩餐って感じがするよねー。と軽口を叩ける程度には情緒的に安定したらしく、もう自殺未遂を心配する域ではなくなっていた。以前どおりの暮らしを以前どおりに行える状態を回復すること。それが傷心した人間への最も基本的で重要な療法であることは精神科医ならずとも解る。まずは一日に最低二食摂れるようにすること、決まった時間に寝起できるようにすること、さらに重要だと思われたのは今までの()(へき)──飲酒と喫煙──をほどほどに行えるようにすることだった。とかく()(へき)は過剰摂取によって自己破壊衝動へと傾きやすい。一度急性アルコール中毒で自殺を図った者にとっては尚更である。よって、毎日一九〜二〇時の間に必ず一緒に夕食を摂り、飲ませるにしても発泡酒の500ml缶ひとつを上限とした。結果、俗世間との接触と人並みな金銭感覚の回復のために始めさせた中華料理屋のバイトにも遅刻しなくなり、昼間から夕方にかけて幻聴が起きる頻度も低くなっていた。とりあえず、臨床や投薬に頼らない素人療法にしては奏功したと言えるだろう。  しかし、当然ながら自己申告できる(たぐい)心的外傷(トラウマ)はそもそも心的外傷(トラウマ)ではない。本人に知覚されず無意識のうちに行動を呪縛するものが問題なのである。()()の場合は、就寝の際に大きめの抱き枕が欠かせないこと、その割に独りの寝室以外では入眠が困難になること、極め付けには音楽や映像で性交を直接的または暗喩的に示す表現があらわれそうになると過敏なほどの精度でスイッチを切ること、これらの行動から()()()との一件によって極端な性的失調があらわれていることは明白だった。何しろマーヴィン・ゲイのアルバムでさえ嫌だそれ消して聴かせないでと癇癪を起こすほどなのだから。  わかりきっていた、()()()()()が性愛関係にあることは。「身体の傷は何ヶ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四〇年前の傷がなお血を流す」とはポール・ヴァレリーの言葉だが、()()にもその通りのことが起こったのだろう。性愛がらみの傷はその人間の言葉に影を落とし続ける。実際、ヴァレリーの詩はかなりのところエロス詩として読むことが可能だ。そもそもPとVのイニシャルがそれぞれ男性器と女性器を示しており云々は、やりすぎだと思うけども。しかし()()にとっても、()()()との破局に正しく服喪するには、文字通りのセクシュアル・ヒーリングが必要と思われた。  じゃ明日も九時起きね。おやすみー。ええ、私も。あ、今日は夜まで(こん)詰めないの? 珍しいね。ええ。ねえ()()。なに。今日は一緒に寝ようと思うんだけど。一緒の時間に、て意味じゃなくて? 言葉通りの意味で。おーどうしたんすか(はかる)さん、寂しいんすか。ええ、寂しい。だから一緒に寝てほしい。  揶揄(からか)いの(おも)()ちが徐々に(いぶか)りに変わる。そういうの、いいよ。冗談で言ってるんじゃない。がらにもないじゃん、お互いに。実はずっと前からそうしたいと思ってた。  沈黙。  そういう目で見てたんだ。まさか、そんなわけないでしょう。あの塾講師にしても()()()にしても、あなたみたいな跳ねっ返りを恋愛対象にできる人ってどうかしてると思う。両頬が通電めいて引き()るのが見えた。()()()の名前出すなよ。なに、思い出したくなかった? 忘れる気も無いように見えたけど。言っとくけどね()()、あんな読みかじりの知識ツギハギして息巻いてる革命家気取りなんて、世界中に腐るほどいるよ。あの女は特別なんかじゃない。()()()を悪く言うなよ。じゃあ良く言ってあげる。あんな明石(あかし)元二郎(もとじろう)めいた語学の俊才を逃して残念だったね。もしあの旅が続いていたら、あなたも革命組織の一員になれてたはず。ボリシェヴィキ並みのすばらしい革命のね。いまごろ彼女もヨーロッパのどこかで書記長とか呼ばれてるんじゃないかな。いつだって逃した魚は大きいね、()()。  (いら)えはなかった。ただ水面(みなも)めいて揺れる両眼だけがそこにあった。言い返していい。いいんだよ、あなたにはその権利がある。義務ですらある。自分が赤手(せきしゅ)で取り組んだ過去を嘲弄(ちょうろう)されて、それでいいわけがないでしょう。  寝るよ、もう。ひとりで寝るから。戸を閉めようとする、その手をとる。何なの。()()、敢えて言う。あなたが打ち当たったのは取り立てて悲惨な失恋談でもない、空前絶後の大失敗でもない。ただの、ありふれた青春。振り向いたその頰に朱。羞恥の、それとも憤怒の。どちらでも構いはしない。ありふれた青春の、その終わり。それはそれでいいの、誰にだってあるものなんだから。だからといってね、いつまでもここにいない誰かを思い煩っていてどうするの。お前になにがわかんだよ。わかるけど。頓狂とする、その表情に投げかける。置いてかれた側の気持ちは、痛いほどわかるけど。  沈黙。  夢にさあ、と、薄らな自嘲の笑みを浮かべながら言う。夢に出てきてくれるかな、と思ったんだよ、()()()が。でもなんだかな、全然なんだよな。どころか、わけわかんない感じであの声が聴こえてくるんだ。うん。夢に見る外傷記憶はほぼ治りかけている証拠、日常に闖入してくる視聴の幻覚こそが厄介、と耳学問で知ったことを並べる気にはならなかった。聴こえるのにいないんだよ、いないのに聴こえるんだ。わかるかな、これ。足下に横たえられた抱き枕が無造作に掴み上げられる。こうでもしないとさ、おかしくなっちゃいそうでさ。  沈黙。  愛してたんでしょう。不意打ちだったのか、(りょう)(まぶた)が見開かれる。そして愛されたんでしょう、あなたは。睫毛が窮屈に歪む。どうかな……結局誰でも代えがきく役割だったんだと思うよ、()()()にとっては。それでいいと思う。代えがきかない、かけがえのない人なんて、本当はこの世に一人もいないと思うよ。残酷なこと言うね(はかる)は。ええ。だから、代わりでいい。あなたが誰かの代わりでも。私が()()()の代わりでも。  えっ、と不審がる顔に一歩近づく。あなたがしたみたいに、してみたらいい。あるいは()()()にされたようにでも。意は察せられたらしく、しかし視線は曖昧に逸れゆく。無理、だよ。そうかな。そんなんしたって意味ないよ、だって(はかる)()()()と違うし、との逃げ口上を断ち切る。どこの誰でもやってる、ありふれたことだよ。ひと呼吸ぶんの沈黙、ののち、こちらを見据える。ありふれた……そう。こういうことは特別な相手としか、()()()としかできないと思ってるでしょう? 残念だけど、これは何も特別じゃない。誰とだってできること、誰でもやってること。誰とだって……()()、はっきり言うけど。あなたは、これから、こういうことを、誰とでも、ふつうにできるようにならなきゃいけないの。あの人は私のすべてだったとか、あの人がいなければ私はとか、そんなのは一番くだらないことだよ。  沈黙。  忘れろって、こと。忘れられはしないと思う。ただ、普通に傷つけばいい。特別な痛みじゃなく、ありふれた痛みとして。はは、スティーヴィー・ワンダーの歌詞にあったな。ありふれた痛み……  沈黙。  (はかる)。なに。ごめん、これだけさせて。言うと同時に、左掌でこちらの両眼を覆う。汗ばんだ指の腹が(まぶた)に吸い付く。  接吻というのは()(ずる)い。する側とされる側との区別がないのだから。喧嘩や戦争に似ている。起こってしまった以上はしょうがない。とりあえずの調停が置かれたからといって、そこで終わりというわけでもない。  歯茎を探るように(ねぶ)るのは、どちらの癖なのだろうか。()()()()()か。もちろん、どちらでもいいのだけど。しかし上唇を吹きあげるように息を当てるのはくすぐったいから控えめにしてほしい。舌の撫でが一本調子になってきたので、差し込まれた舌先をこちらから吸ってみる。びくと頭部ごと戦慄が走るのがわかる、ので、片腕で腰を抱き寄せてみる。そのまま。そう。(まぶた)に当てられた指先がいつのまにか(たわ)み、その間伐(かんばつ)めいた隙間から、ストロボのように反射して覗く。しとどに濡れた両の瞳が。  声らしい声はなく、(むせ)びだけがあった。どこの誰でもやってる、ありふれたこと。が、依然としてこれほどまでに人間の心身を揺さぶるとは、驚くべきことではないか。驚くべきことではない、か。  (はかる)。うん。ごめん。ありがとう、でいいと思う。うん……ありがとう。右手の親指で押しつぶすように睫毛をぬぐい、力無い微笑を投げている。でも、やっぱ今日はひとりで寝るよ。そう。もう、こいつも使わない。抱き枕が寝室の外へ蹴り飛ばされる。わはは、こんなもんしょせん(わた)の塊じゃん。無理して気丈ぶらなくていい、とは、言わない。おやすみ。うん。幻聴ひどくなったら責任とってよ。もちろん。何度でも使ってくれていい。幻聴なくなったら、なくなったで……責任とってよ。もちろん。何度でも使ってくれていい。  何もかも言う必要なんて無い。まあね。そんじゃそろそろ始めますか。うわー初めての作曲合宿(ソングキャンプ)だよ緊張するねー。あたし初めてじゃないすよ。そうなん。はい、知り合いがやってる匿名プロジェクトで一度。じゃあ漁火パイセン進行役よろしくお願いします。頼まれたっすー。じゃあとりあえず曲のテーマ決めから始めましょ。よし紙とペン()るか。いや要んない、テキストエディタあるし。つか(きゅう)(ぞう)いつまでいるの。えっ。差し入れ持ってきてくれるって話ではあったけども、えっと作業にも参加したい感じなの。いやしたいというか、俺、音楽聴くのは好きだけど作ったことはないだろ。ちょっとどういうふうにするのかな、見てみたいな、と思って。なんか、レズセックスの見物したがるノンケ男みたいな言い方だったね今。はい。わたしはレズセックスの見物したがるノンケ男のようなことを言いました。死んでお詫び致します。え、ちょ、嘘じゃんってー。マジにすんなってー。おい(はかる)お前のワンパンのせいで脆くなってんだぞ。そこまで負わされるのは心外。  じゃ(きゅう)(ぞう)とりあえず出たアイデア書きとめといて。紙でいいよな。いいけど、ミスドのナプキンにってちょっとな。あはは、マイルスみたいで良いじゃないすか。じゃまず方向性だけど、前提としてキュウゾウ名義の楽曲とは違った趣にしたいと思う。うん。オーセンティックな1MCヒップホップとは、ってことっすよね。そう、せっかく組んでやるんだからね。だから一発モノのブレイクビーツにヴァースとフックで、って前提は無くていいと思う。サンプリングも無しでね。今回は権利の問題も絡むでしょうし。そう、わたしあんま理論の引き出し無いから、そのへん固めるのは(はかる)と漁火ちゃんお願い。もちろんっす。  じゃあ、と(はかる)がシンセサイザーで指慣らしのフレーズを弾く。とりあえずキーから決めましょうか。えっ作曲ってそういうふうに始めんの。人によって得意な音域が違うからね、ヒップホップベースならそこまで神経質にならなくていいと思うけど。ビートから決めた方が早いんじゃないか。おっ(きゅう)(ぞう)先生。いや、なんかのミュージシャンのインタビューで、鍵盤で作曲するときはコードよりもリズムに重きを置いてる……みたいなの読んだ気がする。(はかる)、不承不承ながらラグタイムふうのコンピングを弾く。こういうのかな。んー、いやもっとブレイクっぽくていいよ。と指示すると、演奏のテンポと音価が細かくなるが、リトル・リチャードすぎるというか、なんかやっぱ違う気がする。オッケー(はかる)、ちょっと停めて。  いざとなると出てこないなー。ビートから決めるのはアリだと思うすよ。いきなり高望み言うようだけど、どーせならこうアンセムーって感じにしたいよね。本当に高望みね。だってバトルつかコンペティションで使う曲だしさー、特別感ほしいじゃん。特別感、すか。お、漁火ちゃんなんかある。いや、さっき言った作曲合宿(ソングキャンプ)で話題に出たことなんすけど……「優れたポップソング」と「伝説的なポップソング」とを分ける違いは何か、って話になって、いろんな意見が出たんすけど、最終的には「歌メロと同じかそれ以上に有名なインストゥルメンタルパートが含まれているかどうか」だ、て結論になったっす。ああ、ああ……たしかにそうかも。あれかな、『Can't Take My Eyes off You』とかかな。そうそうそう! あの曲もんのすごいすよ、パーラッッパーラッッパーララッッパッッパだけでもう天才なのに、直後にあのサビが来るんすもん、神が宿ってるとしか言いようないすよ。確かに特別なポップソングってインストゥルメンタルパートも思い出せるなあ。『Gimme! Gimme! Gimme!』なんて典型ね。だよねー、トラックもメロ付けも完璧だな。あれサンプリングしたってマドンナやっぱキレてるよね。最近の曲で当てはまるとしたら……アヴィーチーの『Wake Me Up』。あー、もう歌メロ前座でしかないよねあれ。あそこまでくると潔いよね。あの人惜しかったすねえ、もっと生きるべきでしたよ。と、また涙ぐんでるんじゃないかと反射的に漁火ちゃんのほうを向くが、今回はそうでもないらしい。Pファンクとは思い入れが違うのだろう。  て、おい、いいのか。何が。ヒップホップとは程遠い名前ばっかり出てるけど。程遠くねえよ、つかヒップホップと無縁な音楽ジャンルなんてありませんー定義上。いや、明らかにジャンル違いじゃないか。ヒップホップて言ったらファンクかR&Bの流れだろう。出たーヒップホップ部外者が抱きがちな先入観。ヒップホップは生まれたての頃からテクノとかディスコとか色々混ざってたのー、バンバータのデスミックスから聴きなおせ。  えと、じゃあ……まとめるぞ。『Can't Take My Eyes off You』みたいな、歌メロと同じくらいインストが印象的な曲つくればいいってことか。フランキー・ヴァリねえ……なんか逆差別みたいなこと言っちゃうけど、アメリカのイタリア移民って音楽の神に愛されやすい人種だよね。シナトラ、ディーン・マーティン、トニー・ベネット、シルヴェスター・スタローン……なんでスタローン? ばっかすげえ歌うまいんだよスタローン。あとボン・ジョヴィな。『Livin' On A Prayer』って実はすごい曲だぞ。みんな知ってるわ。いや、ちゃんと具体的にわかってるか? あれまずベースラインがショッキング・ブルーの『Venus』だし──そういえばバナナラマ版と同時期に出てるな──それにパティ・スミスの『Dancing Barefoot』を足したような曲だろ。パティ・スミス関係な……あ、そういえばあいつら『You Give Love A Bad Name』のサビで『Because The Night』まんまパクってたわ。関係あるかも。ていうかデズモンド・チャイルドがそういう趣味なんだよ。デズモンドが唄ってるデモ版の『Livin' On A Prayer』聴いたことあるか? ほとんどローラ・ニーロだぞあれ。マジ? YouTubeにあるから聴いてみろ、ちょっといいか、これ。え、ピアノ弾き語り。マジだー! ローラ・ニーロだ! そーだローラもイタリア系だ。だろ。全部のピースはまったろ。はまった! ええと、何のすか。脱線しすぎでしょう戻りなさい。この脱線、に、意味があるんだろ! つまりこういうことだよ、ピアノ弾き語りでもできるようなシンプルさで、でも編曲はいろんなとこから持ってきて踊れる感じにして、そしてキラーなインストゥルメンタルパートが入ってる曲! あ、あー、今すげえ具体的にイメージが。でしょ、でしょ! 浮かんできたっしょ漁火ちゃん。どうよ(はかる)! いや、特には……もー鈍いなあ。考えるより先ず弾いてみなよ、こう、ズッタツターンツカタツカッターンって感じでさ。こう……? そう。この上でこう、ギターが動くわけだよ。高いのっすか低いのっすか? どっちも入れたいかな。こう宇宙っぽいのとベースラインっぽいのと両方。てことは、低音部は白玉(しらたま)で鳴りっぱなしのほうがいいかな。白玉? 全音符または二分音符。細かく刻まないってこと。(はかる)が両手で低音部と声部を弾き分ける。おお、それっぽい。ピアノだけで表現するとこうなるけど。これでいいよ、でベースが入るのはさ、三二小節くらい過ぎてからにしよう。ああ、よくあるな、段階を増して厚くなっていくやつ。そうそう重厚っぽさは後でいいから、とにかくド頭はインパクト重視でいこうよ。  こんなに……すぐ、それっぽくなるもんなんだな。いやまだワンループできただけだよ、ヴァースどうすっかな。いま歌詞書いてみます? ていうか、実は……既に書いてるんだよね。おお、()(せん)っすか。いつもはトラックと同時進行で書くんだけどね、今回はちょっと当たりをつけてみた。んーでも、先にフックがどうなるか見えてたほうがいいかも。ここで例の、ヤバいインストパートっすか! そうよー、あーでも(はかる)さーどうすればヤバくなるかなー。いくらなんでも漠然としすぎ……いい? ヴァースまではB♭mのキーで進行してる。フックで近親(きんしん)調(ちょう)に転調すれば意外性は出るかも。もっとひねった転調もできるけど、そこはもう歌詞との兼ね合い次第かな。うーちょっと弾いてみて。何を。メロをさ。コードから先に作ったほうがいいと思うけど。いやそこはさ、今回はわたしに合わせてみて。  シンプルなコンピングの上で、手探りのメロディが弾かれる。なんかなー……これ転調してないやつね? そう……近親調に移るならこんな感じ。うーん。()()、そもそもメロから考えるのは無理があると思う。そっすか? そこはヒップホップの発想でいいんじゃないすかね、ねえさんの好きなGファンクみたいな。あー、べつにGファンクは好きだけど、だいぶやり尽くされた感あるでしょ。そっちに寄せずにどうにかならないかなあ……  モードかもね。モード? ()()にはずいぶん前に教えたでしょう。Gファンクぽく聴こえるとすれば、ベタなマイナーだからなのかも。それとは別に、際立って特徴的で、明るさでも暗さでもない印象を喚起する……そういうメロディは、長調でも短調でもなく、モードで書かれるべき。へんな当為。でも、乗ってみる価値はある。どんな感じになるかな、(はかる)。任せるよ。  一呼吸ぶんの黙考ののち、静かにメロディが奏でられる。B♭のドリアン……で弾いてみてるけど。いい感じじゃん。ただオクターヴ上でいいよ。こうかな。おーあれだ、フレーミング・リップスっぽい! フレーミング・リップスじゃだめでしょう。いいんだよせっかく回ってきたんだから。振れ振れサイコロを。シーケンスをMIDIで入力し、メロディをループさせながら、微妙にテンポを調整してみる。こんくらい、こんくらいでさ。そんでこのケツのとこを……そう、シンコペする。そうそうそう。おお、いいじゃないすかー。  ちょっと待って。シーケンサの停止ボタンが押される。どしたん、いい感じだったのに。これもうサビでしょう、フックじゃない。サビとフックて同じ意味だよ。歌謡曲フォーマットすぎるって言ってるの。さっき言ったろ、キラーなインストゥルメンタルパートが入ってる曲だって。それがこれだよ。あ……これボーカルパートじゃないの? べつに唄ってもいいよ。唄ってもらってもいい。『Can't Take My Eyes off You』だってそういうことだろ。好きなように唄いやがれ、だ。きた、曲名決まったすね。ええ……『Sing It As You Like』? 英語じゃなくてもいいだろ、『好きなように唄いやがれ』。ええ……? あはは、ますますマイルスっぽいすー。  その後、フックのメロにベースラインを付け、ボイシングを丁寧に選び、ヴァースともどもにビートを調整した。で……きた? できてない。目指したやつと全然違う。当たり前だろ博打(ばくち)なんだから。これが今日の出目(でめ)だよ。いい……な。お。いや、初めはどうなるかと思ったけど……いいと思うよ、これ。ヴァースとフックで切れてるのがいい。切れてる? モーダルに聴こえる、って意味でしょうね。いいじゃん、ちゃんと伝わってるよリスナーに。彼は半分身内でしょう。そうだけどさあ。  録ってみましょ。えっ。さっき、リリックある程度できてるって話だったでしょ。四八小節くらいでやってみたらいいすよ。そう、だね。たぶん得意なBPMのはず……でも、うわあ、みんなが見てる前で録るのか。あはは。なんか変な汗、ごめんわたし普段録り直しまくるほうだから、みっともなかったらごめんね。そんなエクスキューズいらない、唄えばいい。と言いながらマイクホルダーを調整する(はかる)。うん、やってみる。  で、でえ、フックのメロの入りがこう。おー! きたー! 強、引、でしょう。強引じゃなきゃどうするよ! 1MCだけじゃ絶対に足りないってリリックなんだからさ、『好きなように唄いやがれ』! モードの使い方がまた効いてきたっすねー、暑苦しいのにクールな感じ。あたし正直、リリックのおかげでモード使った意味がやっとわかったっす。でしょー! (きゅう)(ぞう)どうよ。次のヴァースどうするんだ。なんだよちょっと、気が早いよ。    できた。としか、言いようがない。  時計を見ると午後五時過ぎ。いつのまにか三時間もやってたのか。何度やっても慣れないな、時が飛んでるこの感じ。同じ曲の同じパートを何度も繰り返し、繰り返し肉付けして、失敗し続けて、いつのまにか失敗が失敗じゃなくなって──作品と呼ばれるものになっていく。  できた。  沈黙。  これさ。  (きゅう)(ぞう)が言う。  成功しちゃったら、どうする。  爆笑。  なんだよ、なにがおかしいんだよ。そっちこそ何だよ「しちゃったら」って、いけないことなのかよ、こちとら遊びでやってねえよ。そういう意味じゃない、たださ。これってさ……誰かに聴かせなきゃ、いけないものなのかな。  沈黙。  たしかに、ね。一理あるかも。そうだろ。どういうことっすか。いや、これさ……結局、(つく)ってるその時だけが重要なんだよな、って。わかってた、キュウゾウとして独りでやってた時から。やっぱりか。うん。実際、誰かに聴いてもらえたらとか、認めてもらえたらとか、そりゃ音楽だから思うこともあるけど、それって結局……二の次なんだよな。二の次。頷く。(つく)ってる時だけが、その時だけが。  そしてその時が、もうすぐ終わろうとしている。  ぺし、と側頭を叩かれる。そんな腑抜けでは困る。こちとら会社辞めてるんだから、もっと殺りにいくつもりで(つく)ってくれないと。わかってるよお。でも実際かなりキラーっすよこれ。(きゅう)(ぞう)さんもそう思うすよね? え、それはもう。ただ……ただ? 今の段階ではこの曲、この部屋の四人しか聴いてないんだな、って。まだ誰にも知られてないんだよな、って思うと……へんな感じだ。  へんな感じ、わかる。わかるすー。そうかな、発表しなきゃいけないから(つく)ってるわけでしょう。そうとは限らないよ。ただ(つく)りたかったから(つく)ってる。(つく)ってるあの時間が好き、いや好きってんじゃないな、ただ……あの時があってほしくて。あの感じでいたくて。わかるす。(はかる)、わかる? まあ……少し、なら。  沈黙。  ミスドもうないな。ひよ子あるすよ。え! いきなり大声出すな。いや、高級菓子だろ。そんな高くないすよ。それに、久々に名前聞いたなあと思って。あはは、せっかくだしお茶煎れるか、冷茶よりあついのが合うよ。ええ、このカップに煎茶かよ。他にないんだから文句言うなー。ほい、楽曲完成祝いのひよ子だよー、ひとり一個ずつだよ。まだ完成じゃない。じゃ着想祝い! あはは、これ買ってきてよかったっすー。さあ、いま(かえ)ったばかりのわたしらが、新しい歌を覚えたばかりのわたしらが、ひよ子喰ってお祝いだ! 共喰いだ! いくぞ! いくぞ! かんぱーい! 「初めて見る光景ばかりで楽しかったよ、また是非」だってさ。そんな面白い見世物だったかなー。作曲中の現場って、そんな見られるもんじゃないすからね。「(こく)()さんにはちゃんと文面で謝りたいからメールアドレス教えておいてほしい」だってよ、はは、こういうとこ律儀。  お、(はかる)。もー風呂長いよー、ぼーこー破裂するかと思ったぞ。あなたの尿意を私のせいにされても困る。しかたないじゃん1R(ワンルーム)なんだから、風呂入ってるあいだ浴室前うろうろされるの嫌だろ。まあね、1LDKにすればよかったのに。こんなに人呼ぶことになるとは思わなかったんだよー。  実際さ。何。ほんとに思わなかったよ、わたしがひとりで唄って録ってるだけの部屋に、誰かを呼ぶことになるなんて。えへへ、こちらこそうれしっす、まさかキュウゾウのプライベートスタジオで作業できるなんてー。そんなかっこいいもんじゃないっしょー。個人制作用のスペースなんだからそう呼ばれるに値すると思うけど。実際、ここならベーシックトラックのプリプロまで出来そうじゃない。まあ、今日の感じならね。でさ、ここで作ったやつをさ、漁火ちゃんのスタジオでブラッシュアップできないかな? いいすね! チーフじゃないすけどあたしもそのスタジオのエンジニアなんで、色々融通できるはずすよ。よし、じゃあ二日後くらいにミックス送るよ。了解っす!  ねえねえせっかくだからみんなで吸おうよー。なんすか、ガンジャ? なわけない、煙草。そんな貧乏くさいこと。いいじゃん初めて過ごす夜なんだしー。せめてバルコニーで吸いなさいよ。いいの、曲流しながら吸いたい。ちょっとまって何にしようかな、おあつらえ向きのないかな……あった、これだな!  おー、これの演奏 Mountain Mocha Kilimanjaro じゃないすかー! さすがよく知ってるねー。超イイすよね、キメッキメなのにベースのエッジがまろやかなとことかー。そうなんだよー聴き疲れしないんだよ不思議に。ほい漁火ちゃん。はい、わーあたし煙草吸うの初めてだー。そうなの! ちょっと初めてだってよ(はかる)、責任重大だよわたしら。なんの話。はい(こく)()さん。ん。吸った感じどうだった? なんか、すーってするすねー。まんまじゃん、あはは。あー(はかる)が煙草吸ってるの久々に見るなー。(こく)()さんかっこいっす、番長みたいっす。褒め言葉じゃないでしょう。それとね……(はかる)でいいから。お、おおー! ついに名前呼び認定もらったっすねえさん! やったね漁火ちゃん! なにそれ、いつ呼んでもよかったのに。だってこくぶ、じゃない、(はかる)さん精神的バリケードすごい堅い気するからー。そんなもの張ったことない。あと、呼び捨てでいい。うおー! 一緒に組んで作曲までしといて、いまさらさん付けもないでしょう。(はかる)と呼びなさい、イリチ。うぃっす、はかるん! はかるん……? イリチ? 漁火ちゃんそんな名前だっけ? そうっすよーあはは。そういうところ無神経ねあなたは。  あ、次の曲行っちゃった。わーカノン進行だー、ヒップホップなのにすごいすね。『Grateful Days』があるでしょう。いやあんなのとは比べ物にならないよ悪いけど。この曲でアルバム全体がぐっと引き締まってるよなー。 眠らぬ街の 眠れぬ夜に コトバの神よ 与えたもう ひらめきを 何か産まれそうな そんな気がしてる きっと あともう少し あともう少し あともう少しで 「コトバの神」ってのが、もうハンパなく冴えてるよなー。そうね、もともと言葉は神だし。そうなんすか? 神は言葉、つまり合理性。一神教だけの話だけどね。はかるんクリスチャンなんすか? 父親がそうだっただけ。そうすか。あの、訊いていいすか? どうぞ。神って本当にいるんすか? その問い自体が間違ってる。そもそも神は存在。何かが存在する、という出来事自体。なぜ人間が言葉を持ってしまったかも、神を使って説明するのが一番早い。なぜなら神はロゴスだから。神なしに言葉はなく、言葉なくては人間ではない。なんかピンとこないっすー。一神教ってそういうものだから仕方ない。ほら(はかる)なんだっけ、トマス・アクィナスのやつ。ああ、「神は一体どこで何をなさっているのですか」と問われて。そうそう。答えたのが「神はご自身を満喫しておられる」。「俺、神だな〜ッ」ってことすか? そう。ますますわかんないっすー。  こういう話してるとさ、()()()のこと思い出すね。そうなんすか。べつに。そもそもあたしらが一緒に作曲するきっかけになったのが、その()()()さんなわけすよね。本当にあいつが関わってると、まだ決まったわけじゃない。ねえさんは会いたいんすか、また会いたくてこれを? どうかな、わかんないな。はかるんはどうすか、()()()さんに会えたら。殴るだけじゃ済まさない。あははは。たぶん本気だぞーこれ。当然のこと。()()にあれだけのことをしといて、ただで済ませるわけがない。あの、これ昼のときには訊けなかったんすけど。何? 結局ねえさんは、()()()さんと一緒にいたことを、その、後悔してるんすか。  ……そうかもね。後悔はあるよ。あんな奴といなきゃよかったじゃなくて、あの人に見合う人になれなかった意味でね。そんなに大した奴じゃない。いや、大した奴だったよ。色んなことを、あまりにも色んなことを教えてくれた。私からも訊いていい。お、何。あなたは、あの頃に()()()から吹き込まれた事たちを、未だに信じてるの。  ……どうだかね。そもそも全部を憶えてるわけじゃないしね。でもね、わたし、()()()が言ってたことのなかで、未だに疑いなしに信じてることがあるんだよ。なに。「この世界は変えられる」。  沈黙。  煙草、もう一本ちょうだい。おーなんだ(はかる)、火ぃ着いてきたか文字通りに。そういうことでいい、なんだか猛烈に愚痴が言いたくなってきた。あはは、よーしせっかくだからバルコニー出よーぜ、漁火ちゃんボトルとカップ持ってきて。了解すー。あなたにも聞かせてあげるから、あの女がどんなに傍迷惑(はためいわく)な輩だったか。あはは、わたしのほうがよっぽど知ってるぞー。あちょっと待って、このヴァースまで聴いていこう。スピーカー持っていけばいいじゃない。音量大丈夫かな、話し声も。大丈夫でしょう。そっか。そうだよね。 たとえキミが出したのがオレとは違うアンサーでも 星の下 似たステップを踊り続けるダンサー またはタフなボクサー この世は残酷さ だが何度打ちのめされようとも懲りずに立っとくさ だから今はただじっと 傷を癒してる そして胸の奥で火種をまた静かに燃やしてる 眠らぬ街の 眠れぬ夜に コトバの神よ 与えたもう ひらめきを 何か産まれそうな そんな気がしてる きっと あともう少し あともう少し あともう少しで 眠らぬ街の 眠れぬ夜に リズムの神よ 与えたもう ときめきを 何か産まれそうな そんな気がしてる きっと あともう少し あともう少し あともう少しで
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