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03 君の弟はゲイでおまけにサグ
まあ、ヒトラーは演説が下手だねえ。あ、やっぱりそうなんだ。測も同じこと言ってたよ。測って誰だっけ。ほら、わたしの高校時代の。ああ、いつか話してたね。でもなんかドイツ語のがなり口調って持ってかれるよねー。というより、あれはPA装置の効果。問:ヒトラーの演説はなぜあれほど大衆を魅了したか。答:音質が良かったから。あはは、オーディオ批評みたいだな。実際そういう問題。知ってるよね、PA装置ってそもそも Public Address の略。直訳で「公衆伝達」。ところが、 Address は複数形の Addresses になると 求 愛 行 為 って意味になる。ちょっとやめてよ耳元で。いまさら何を恥ずかしがってるの。PA装置や磁気テープの生産技術において当時のドイツ以上の国はどこにもなかった、それらがナチスの大衆煽動の手妻を準備した、って話は前にしたよね。したけどさあ。それらは今でも変わらずわたしたちの前にある。選挙キャンペーンでも如何なる政治的立場によるデモでも、音と言を遠く拡散する装置は不可欠なんだから。 Public Addresses, つまり「公的求愛」は音楽性および政治性と不可分……というか音楽性が政治性なんだよ。たとえば今わたしが九三の耳元で大声で怒鳴ったとしたら、心臓のBPMは否が応でも上昇せざるを得ないよね。しないでよお。しないけど、これは聴覚を持たない人でも同じ。人間の身体の中にはリズムがあるんだから。心臓の鼓動ともまた別の、生きるための、ことを済ませてうつりゆくためのリズムが。だから、人間が人間を隷下に置きたければ、それは粗雑な音質で号令をかけるよりも、淑やかな声音で身体ごと欲望をそそること、が必要でしょうね。いま不二良がわたしにしてるみたいにね、って、言わせたいんでしょ。
そういうわけでね、音と言で誰かに働きかける行為、それは「公的求愛」でしかありえない。「私がやってることは愛なんてものとは何も関係がありません」って顔してるふとっちょの政治家も、交尾の相手を求めて鳴くオスのセミも、やってることは同じ。たしかにね。ヒトラーの演説とセミの鳴き声のマッシュアップとかないかな、作ったらバズりそうだな文字通りに。今はYouTubeなんて便利なものがあって良いね……じゃあね九三、宿題。次に会うまでに、二〇世紀の名演説家たちのスタイルがそれぞれどのように異なっているか、を考えてくること。名演説家? とりあえず四人。まず反面教師としてアドルフ・ヒトラー、その対抗馬としてウィンストン・チャーチル、年代は隔たるけどマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、そしてマリク・エル=シャバーズ。マリク……何? マルコムX、って名前のほうが通りがいいのかな。ああ、たしか測の部屋に本あったな、中学の頃からずっと好きだって言ってたよ。ふふ、ちょっとその人に会ってみたいかも。いいね、連絡しとこうか。あっでもどーしよこういう関係ってバレたらあれかなー。気にしなくていい、あなたのことだからすぐバレる。んなことないよもー。話を戻すけど、さっき挙げた四名のなかで最も卓抜した演説家は、疑いの余地なしにマリク・エル=シャバーズだと思う。実際に聴き比べたらわかるよ。チャーチルの録音は大衆の反応が含まれないラジオ放送だから比較しづらいけど、ただひとりマリクだけが利用できている力がある。何だと思う? 笑い、かな。よく解ったね、ちょっと驚き。測が言ってたもん、誰もがマルコムの過激さを強調するけど、彼の言葉に込められたユーモアの力を読み取れている人は少ない、みたいなこと。その通り。ただマリクだけが、聴衆の笑い声を煽るフレーズとそれを響かせる間を意識して演説を行なっている。それが彼の最大の武器。ヒトラーの演説に笑いなんてひとかけらもないよ。あの手のひらひらした動きさ、あれ「ここで拍手をお願いします」って哀願にしか見えないよね。そう、実は聴衆の方なんか最初から見てないしね。むしろあの大掛かりな舞台装置は不安を隠し通すためのもの。マリクはそんな隔たりなんか必要としなかったよ。日系人のユリ・コウチヤマとのエピソードは知ってる? 誰それ。マリクが殺された場に居合わせた同志のひとり。彼女が初めてマリクに会ったとき、黒人でない自分に後ろめたさを感じつつも握手を求めたんだって。マリクはそれに対して「何のための握手だね?」、彼女は「あなたが人々に道を示していることを祝福するためです」。それを聞いたマリクは微笑みながら握手に応じた。これと同じことがヒトラーにできると思う? 自分の民族性とは違う人の、その肌に直に触れて共闘に応じるなんて。たしかあれでしょ、マルコムXの娘の名前もすごいんでしょ? そう、アッティラやフビライ・ハーンから採られた名前を付けてる。そもそも彼にとっては白人以外の英雄はすべて同志だから。解放運動ってそういうことだよ。未だにマリクのことを黒人至上主義者みたいに言う人がいるけど、そういう人は現生人類がアフリカ起源だってことすら知らないんだろうね。
というわけでね、九三。あなたもわたしに同行したいなら、それ相応の言葉の遣い手になってくれなきゃ困る。無理だよお、わたし不二良みたいに堂々と演説なんかできないし、外国語も全然だしさあ。だったら今から鍛えたらいい。もっと賢くなって、もっと強くなってね九三。そうすればもっと面白くなる。何が? 前に不二良が言ってた、革命的な小説のこと? まあ、そう言ってもいいけれど……もっと適切な表現があるでしょ? 何? この世界、が。でかいなあ。これは最初からそういうこと。わたしが九三に教えてるのは、この世界を愛するための方法。世界を愛することができないうちは、詩も歌も何もかもが無力なまま……わかる? わかんなーいけど、Perfume の『love the world』が名曲だってことはわかるなー。そうだこれ聴いてみてよ、この前買ったシンガーソングライターのアルバムに『love the world』が入っててさ、アレンジがすんごい良いの。藝大卒らしいんだけどさあ、そのせいなのかリズムが凝りまくってて……ふふ、じゃ、ここからは九三が教える番ね。Public Addresses を使ってね。いやふたりきりだから Public はおかしいか、 Private Addresses か。うわーこれすごいな、そもそも Private がそういう意味なのに求愛までくっついてるって、それもう『Lovesexy』とかじゃん。プリンスじゃん。ふふ、 Private Addresses は思いつかなかったな。それじゃ九三、PAしようか。うわー新しい。PAしようかって。ふふふふ。いいよ、PAしようか。
本当にやるのか。と、思わざるを得ない。のは、今まさに「χορός」と大書されたパネルがドーム入口の階段近くに掲示されているのを見たからなのだが。測に言わせれば、実感抱くの遅すぎるでしょう、となる。しかしこれは英語版企画概要やパンフレットやネット上の動画広告とはわけがちがう、自分が設営仕事で頻繁に出入りしていたドームに堂々と掲示されているとなると。
RyuDaMadafaka の発言:
全身骨折彦(ぜんしんぼねおれひこ)、とかどうかな。
HakaruK の発言:
どうかなって何が。
RyuDaMadafaka の発言:
クルー名。なんかあんじゃん、アリス・クーパーとかロブ・ゾンビとかマリリン・マンソンとか、フロントマンの名前かと思ったら実はバンド名なんですパターン。うちもそうしたらいいかなと思って。
HakaruK の発言:
なぜその辺りを参考にしようと思ったのかが解らないけど、要らないでしょう。あなたのソロプロジェクトと同じ「93」でいいと思う。
RyuDaMadafaka の発言:
ええ、でもせっかく三人でやるんだよお?こう、チーム感ある名前ほしいじゃん。あと「93」てこれどう読むの。キュウゾウ?きゅうじゅうさん?ナインティスリー?
HakaruK の発言:
あなたが決めた名前でしょう。
xxISRBxx の発言:
逆にアピールポイントになりませんかね?人によって読みかたが違うっていうの、面白くないですか?
RyuDaMadafaka の発言:
あーあれか、クトゥルフみたいな。
HakaruK の発言:
Y Kant Tori Read みたいな。
RyuDaMadafaka の発言:
なにそれ。
HakaruK の発言:
トーリ・エイモスがデビュー前に組んでたバンド。全然売れなかったけどね。
xxISRBxx の発言:
話戻しますね?じゃあ、出場登録用に使う名前は「93」だけでいいですね?読み方とかフリガナとかの欄はとりあえず無いみたいなので。
RyuDaMadafaka の発言:
でもなーなんかクルーっぽくないよなー。もうちょっとひねってみない?女三人組のクルーなんだからさ、「姦」、とかさ。
HakaruK の発言:
全然ひねってないうえに凡庸。
RyuDaMadafaka の発言:
「姦 a.k.a GAMI」とか「姦ROY」とかさ。
HakaruK の発言:
それ全部ソロ名義……だし「たまき」でしょう後者は。
RyuDaMadafaka の発言:
今ちょっと検索したけどさ、「姦」って「私的な遊び」って意味なんだね。最初から性的な意味だったわけじゃないのか。「姦」と書いて「プライベート」と読ませる、みたいなの良くね?
HakaruK の発言:
良くない。イリチ、もう「93」名義で送信しなさい。私が許す。
xxISRBxx の発言:
了解です(๑˃̵ᴗ˂̵)و
xxISRBxx の発言:
あ、もうアップロード終わりました。思ったよりしっかりしてますねサーバ。
RyuDaMadafaka の発言:
えー!!!????わたしに決定権ないのかよ!??ひどい!!!奴隷契約だ!!解散です!!!!!
と例の企画概要に沿って出場登録を済ませた、ら、もう七日後には連絡があった。メンバー三人ぶんのバックステージパスと、χορός九州北部予選会場への地図。といっても、わたしからすれば何度となく仕事で出入りしていた会場だったので案内なんか要らないわけだが、しかし福岡と言わず九州でも最大の観客収容数を誇るあのドームで開催されるとは思わなかった。関係者入口でそそくさと三人分のパスを見せると、手続きめいたものは到着時刻の署名のみで、あっさりと通過した。うわーすげえ非現実感。ついに会場だー、わくわくするすね。そうか漁火ちゃんはここで演るの二回めか。そうすー、でもあんときは音が散らないバンドピットにいたからそんな緊張しなかったすけど、ステージ出て演るってなるとどうなるかわかんないすねー。ああそうか、ひっろいもんなあここ。と、既に設営が終えられたステージを一塁側ベンチから一望する。あの何、花道? みたいなのは無いんだね。助かったあ。なぜ? だってあれあると行かなきゃいけないのかなーてなるじゃん、どっち向かなきゃいけないのかもわかんなくなりそうだし。ステージに陣取って一方向だけ見て、って構図の方がまだ安心だよ。そういうものかな。ていうかこれ転換どうすんだろ。タイムテーブルの間隔からすれば、ドラムキットとかDJブースとかは共用で、持ち込みの楽器のみ転換で、って感じでしょう。まあ、演者が心配するような事でもない。
控え室への通路を歩いていると、見るからにフライな格好したやつらが通り過ぎてゆく。わたしら地味だなー。格好で競ってどうするの。さすがにもうちょっとキメてきたほうがよかったかなー。オールドスクールなんすから派手さはなくていいすよ。まあねー……と出場者でごったがえす通路を見回していると、後ろから肩を叩かれる。ふりむく、と。あ。
定刻通り、一時間後に開演の予定となっておりますので。何やってんですか古市さん。楽屋裏のポジションじゃないでしょ。会場内でご不明な点などございましたら何なりとお問い合わせください、本日のイベントの出演者であらせられる龍様におかれましては……ちょっとやめてくださいよ古市さあん。わたしただの勤続二年目のペーペーじゃないですかあ。二年目なのにペーペーなのか。微笑の呼気とともに、いつもの声音に戻った。まさかお前が出る側に回るとはな。いやまあ、わたしもあんま信じられないつうか。ずいぶんでかいイベントだよな、これ勝ったら大変なことになるんじゃねえか。まあ、勝ったらですけどね。そんときはおおっぴらにクビにできるな。えええ待ってくださいよお、辞めるなんて一言も言ってないじゃないすかあ、ちょっと出てみようかなーってだけですよお、だからこうして有給消費して出させてもらってるんじゃないすかあ。ちょっと出てみようかなー、なの? 後ろから測に刺される。いや、もちろん勝てたらいいなーとは思ってるよ? でもまあ思い出づくりっていうか、これを踏み台にちょっと名前知られるようになればなーっていうか。有名になる為にやってんじゃない、ってこの前言ってたろ。正面から古市さんに刺される。えーと……それはあの……まあ良いよ。せいぜい楽しんでけよ。観客じゃないから投票はしてやれないけどな。あ、はい。ありがとうございます。と言い終わらないうちに背中を向けて去っていく。なんか、ふだん一緒に働いてる人と話すだけで一気に現実感が戻るな。いつも通りの場所に立ってる、気がする。もしかして、緊張ほぐすためにわざわざ来てくれたのかな。そんな気遣い……いやいや余計なこと考えんな九三、これから|93になんなきゃいけないんだから。
xxISRBxx の発言:
はかるんいますー?パンフレット提出用のテキストについてききたいことがあるんですけど。
HakaruK の発言:
何か不備があった?
xxISRBxx の発言:
いや文面は問題ないんですけど、これメンバー全員本名表記になってますよね?ねえさんはもともとキュウゾウ名義だし、あたしらもステージネーム持ったほうがいいんじゃないか、と思いまして。
HakaruK の発言:
ステージネーム……そうね。実はこっちの活動では本名以外の名義にしようかとは思っていたんだけど。
RyuDaMadafaka の発言:
全身骨折彦(ぜんしんぼねおれひこ)、とかどうかな。
HakaruK の発言:
私に関してステージネームが必要なら、「McAloon」と書いておきなさい。
xxISRBxx の発言:
なんて読むんですか?エムシー・アローン?
HakaruK の発言:
いや、「マクアルーン」だけど……でも、MCネームっぽく読めるのも面白いかもね。どうしようかな。
RyuDaMadafaka の発言:
そこはもう好きなように読みやがれ精神でいいよ。ていうかこれあれだよね、測のお父さんの苗字だよね。あれすか、世界的に有名になってお父さんにまた会えたら〜みたいなことすか。
HakaruK の発言:
そんな凡俗な感傷に訴えるなら死んだほうがまし。
xxISRBxx の発言:
じゃ、はかるんは「McAloon」で。
RyuDaMadafaka の発言:
漁火ちゃんのはわたしが考えてあげよう。
xxISRBxx の発言:
あたしのステージネームもう既にありますよ。「KATFISH」ていう。
RyuDaMadafaka の発言:
え?あ、この前のコンサートに出てたときもそうだったけか。
xxISRBxx の発言:
そうですー、サイトのドメインとかもこれです。
RyuDaMadafaka の発言:
「キャット」じゃなくて「カット」なのね?おお、ファンクのギタリストっぽくて良いじゃん。
xxISRBxx の発言:
あざす。じゃ、名前だけステージネームに置き換えて提出しますね。
HakaruK の発言:
任せる。
RyuDaMadafaka の発言:
わたしもそれでいいよ。うわー、マジで本当に出るのかーって感じだね。リクルートされたのはわたしらが最初だって話だったけど、どんくらい出場者いるんだろー。
四八組、てことは二四回バトルやるってことか。ここで半分にふるい落とされて、九州南部・沖縄予選で勝ち上がったやつらと一緒に九州大会やって、それで全国戦と。勝敗決定どうなるんすかねー。パンフには予選のことしか書いてないけど、大会まで上がったら全員ステージやってからの投票じゃないかな、さすがに数多すぎるし。予選はランダムに決めたカードでのガチンコ勝負で、大会なってからは会場外のオーディエンスにも公開のショーケース、って感じすかね。ビジネス的に考えてそうだろうね。しかしまあ、満席、とはね……一体どこから来てるんだろ今日の観客。外貌だけで判断はできないけど、やっぱり東南アジアからの客が多いみたい。まあ、主催の本社がシンガポールだからな。じゃあどう勝負すればいいんだろ、わたしらサウンドもしっかり作ってきたけどさーあんま歌詞じゃアピールできないのかな。あなたが戦略なんか考える? ただ演ればいいだけ。でもさー……
あらあ、あなたたち。ついに当日ねー待ちに待ったわあ。あ、杜さん。お久しぶりっす、今日キメキメっすねーあたしらより派手だー。すごいスーツ、虹色て。そりゃ気合い入れてるからねえー。いやもうーこの予選はあなたたちとともに始まったみたいなとこあるからさあー、インスタであなたたち見つけたときに「この土地にはなんかある!」って思ったわよおー。あはは。だから予選落ちなんてオチにならないよう頑張ってねえ。頑張るっす! あの、杜さん。なあに? 突然ですが、百済不二良って名前知ってますか。このイベント、もしかしてその女が関わってませんか。との問いを、飲み込んだ。いや、なんでもないです。そう? じゃあこれ観客配布用のパンフレットだから、開演前にどういう感じの進行になるかイメージしといてねえ。はい。
なんで訊かなかったの。え、わかった。あなたが考えそうなことくらい。まあ、さ……とりあえず予選通ってから考えればいいかなって。もしかしたら来てるかもよ。え。ここの会場に。ありえる、かもね……でもそうだとしてもさ、まずは見てもらうだけだよ。何を。わたしらが一緒に創ったものを。
あたしらちょうど真ん中あたりっすね。と、パンフをめくりながら漁火ちゃんがつぶやく。あれ、もう対戦カード出てるの? はい、この観客配布用パンフで発表って感じらしいす。あたしらにもページ割かれてますよお、なんかみんなキャッチコピー付いてるなー。見して見して、なに……「すべてのリリシズムを過去にする」? これ測が考えたの? まさか、主催側が勝手に考えたコピーでしょう。だよね、杜さんかな。不二良かもよ。とのくすぐりは無視する。「なになにを過去にする」で統一されてるらしいね、わたしらの対戦相手のコピーは……「すべての三連ラップを過去にする」? 具体的なのか抽象的なのかわかんないな。なんかを過去にしなきゃいけないんすかね。主催側のリクルート基準がそういうやつなんじゃないの。革新性、かな。たぶん。それがあると認められたわけね、私たちは。さあねえ……
考えすぎても仕方がないので、開演前に飯を済ませとく。測と漁火ちゃんはケータリングでいいでしょ。ねえさん喰わないんすか? 唄う前にそのメニューはちょっと重いでしょー、コンビニのサンドイッチくらいでいいよ。じゃあたしも行くっすー、はかるんは? 私も出ようかな、さすがに外の空気が吸いたい。
ハロウィン仮装大会めいてきた通路を抜け、関係者入口の駐車場に出る。階段上がったとこにファミマあったよな、と歩き出そうとすると、九三。との声が背中から。九三やいな。声のほうへ向き直ると、スカジャン姿の女性が一人。あ、わたしらの対戦相手の、ひとだよな……さっき目を通したばかりの、どぎつく加工されたパンフの写真を思い出す。え、ちょっとまて、だとしてもなんでわたしの本名知ってるんだ。パンフには載せてないぞ。
ここで会ったが一一年目ぞ。と、呆気にとられるわたしと後ろの二人を前にして続ける、その女性……の顔が、脳内で徐々に照合されていった。あれ!? 安影!? ようやっと思い出したか。安影楸、門司中学の頃いっしょだったあの。あの跳ねっ返り少女か! 跳ねっ返りちお前が言うな。何してんのこんなとこで! あしのセリフばっか横取りすんな。舌っ足らずなあの発音は相変わらずらしかった。あしらの対戦相手どんなやろう思たら、まさか中坊んときの同級生やもんな。面見て一発でわかったわ。同級生、ねえさんの? そう、わたしがこいつにヒップホップ教えたんだよー。はあ!? なん言いよんか捏造すんな。逆やろが、あしがお前に教育したっちゃろが。はー? 違うよ、あそうだ思い出した、わたしとこいつ好きなもん全部逆だったんだよ。わたしがトゥパックならこいつはビギーで、わたしがアイス・キューブならこいつはティム・ドッグで、わたしがランDMCならこいつはパブリック・エネミーだった。「エナミー」な。そういう細かいとこは変わってねえなあ。お前も一一年前と同じでしゃあしかな。なんだよ、中学んときなんてそんな覚えてな……あ、ぶふ、あった、思い出した。なんかちゃ。あんたにさ、楸にさ、昔つけた渾名。漢文の『矛盾』の授業でさ、「鬻ぐ」って言葉が「売る」って意味だって知ってさ。それで、ヤバいぞじゃあ「楸」は「売り」だぞってなって、それでわたしが付けた渾名が「売女」。ぶははは、と笑いながら測のほうを振り向く。あれ、ウケるかなと思ったら普通に引いてる。あなた、中学のときからそんなだったの。んー、人間そんなに変わるものじゃないからねえ。そういうことを言ってんじゃないの。しかしまた会うことになるとは思わなかったなあ売女。九三に言われとうないわこのガンジャ女。なんだとー!? 今まで一度も吸ったことないぞ。なんやお前らインスタでえらいバズりよったが、そいで拾われたんな。まあね……えーなに安影も音楽やってたの? あしつうか、弟がな。弟……? おお、帰ってきよう。と、わたしのはるか後方へ向けて大きく手を振る。釣られてわたしもそっちを向く、と、こちらへ歩いてくる人影が見えた。
安影の弟……? ってああ、さなぎくん! 櫟。そうだ櫟くん。喰らすぞ貴様。だってずいぶん前だから仕方ないだろ、えー初めて会ったとき小学生だったよね? 大きくなったねー、と世間話めく賑わいを訝しんで櫟くんは歩みを止める。思ったより小柄だ、私よりちょっと低いくらいかな。赤のアディダスはキマってるけど、金髪でシャギーの刈り上げにゴールドチェーンはちょっと無理めかな。よく見るとなんか『ブレイキング・バッド』のあの子に似てるな、酸でバスタブ溶かした子。なんてったっけ、たしかKORNの『Thoughtless』のビデオに出てたあの。 櫟くん、KORNのビデオ出てた? と、挨拶がわりの冗談でも言ってみる。と、眉をひそめるだけだった男性の顔が、みるみるうちに朱に染まる。誰がポルノ男優だ、と胸ぐらを掴まれる。え、ええ、そんなこと言ってないよ! マジでクズやな貴様、打て喰りこかせ櫟、あしが許す。なにそんなマズいこと言った? あ、もしかしてPORNって聞こえた!? PORNじゃないよKORNよ! ヌーメタルっぽいルックスだなーって意味よ! と宥めすかすと、舌打ちとともに手を離してくれた。人通りのない場所ならぶん殴ってたぞ。うんごめんね紛らわしいこと言って。でも久しぶりだねー元気だった? 櫟くんも音楽やってるの? と、無難な世間話ぽくしてみる。櫟じゃねえ。え? お前だってもう龍九三じゃねえだろ、キュウゾウさんよ。俺がANDYOURSONGのマイクロフォンNo.1 BargainShadeだ。これからステージでやり合うことになんだから覚悟しとけ。と、すこし嗄れたしかし滑舌のいい声で言う。ANDYOURSONG、たしかパンフに載ってたな。対戦相手のことすら調べずにお気楽だな。いやーわたしあんま検索とかしないからさ。パンフここにあるすよ、と言いながら漁火ちゃんがページをめくる。「北九州を拠点に活動するヒップホップクルー。BargainShadeとDa Clapの2MCによる掛け合いと、ヴァイナル二枚使いを身上とするDJ GUBのカッティングによるパフォーマンスは、オールドスクール志向のヒップホップヘッズの間で確固たる評価を獲得している。同時に、同性愛者二人による日本語ラップという異色のリリシズムが全国的に話題をさらっている」……え? て、書いてあるす。あ、そうなんだ。BargainShade、というか櫟くんの眉になにか暗いものが差す。わかるやろ九三、あしらにはもう後が無いけんが。なにか沈痛にすら聞こえる声とともに、姉弟が横並びに立つ。あしも櫟も、ここで突破口見出さんな終わりたい。え、なんで。わかんねえのか。右手をはためかせながら櫟くんが言う。もう時間が無えんだよ、先を越されちまったからな、フランク・オーシャンに。え? 意味わかるか。いや、あんまり。つまり、取られたいう事じゃ、「最初にブレイクしたゲイのラッパー」の座をな。え。戸惑う私を前にしても櫟くんは苦々しげに頷いている。せっかく俺にしか無え武器で勝負できるかと思ったのによ、あいつの『channel ORANGE』があまりにも名盤すぎるからよ……もうダメになっちまったじゃねえか、勝算が……えちょっと待って、なに、そのせいで「ゲイのラッパー」のアピールポイントが低くなっちゃった、みたいなこと? 目の前の姉弟が同時に頷く。もうこれがほぼ最後のチャンスなんだ、俺のことを世間に認めさせてやる最後の。だから絶対に上がってやる。
あの、ごめん。なんだ? ごめんだけど、ごめんだけど言わせて。なんかちゃ。今の話聞いてたらさ、ヒップホッパーが同性愛者であることに、すごい希少価値みたいなのを認めてた、て感じだったんだけど……そうだよ。えと、ごめんだけどさ……なんかちゃ、はっきり言えや。すう、と深呼吸。言いたくないなあ。でも言わなきゃダメだな。よし。
いまどき同性愛者とか、普通だよ。何も珍しくない。だから、「ゲイのラッパー」の希少価値なんてのも、最初から無いと思うよ。
沈黙。
殴られるかな。それでもいいけど。と思いながら数秒間待ったけど、櫟くんは歯を軋らせて黙りこくったままで、楸は口を半開きにして立ち尽くしている。
何がわかんだよ。ようやく沈黙を破ってくれた。お前に何がわかんだよ、ノンケの女ごときに何が。同性の人間を愛したことすら無えくせに。あるよ。えっ。あるよお……一人だけだけど。呆気にとられて固まる安影ズ、なぜか痙攣めいた声音で言う。あれだぞ、あの子ちょっと好きだったなーとか、そういうレベルじゃねえぞ。わかってるよ。おいふざけんなよ、俺はやったこともねえのに自分は同性愛者だとか思い込んでる奴らが一番嫌いなんだ。もー会うたび毎回だったよあの頃は……若かったなーいま思い返すと。九三お前ふつうに男の子と付き合いよったろが。一〇代の頃はね。でも何年か前に出会いがあってね、すんげえ厄介な女との……まあそのことに関しては、いまわたしの右後に立ってる彼女に訊くといいよ。ええ、あの時期のことならよく憶えてる。何から話しましょうか。中洲川端のアイリッシュパブで初めて会ったとき、やたらと手を握ってたからああそういう仲なんだなとすぐに気付いた、とか? ええ、あのタイミングでもう気付いてたん!? もちろん。すげえな測、恋愛番長かよ。あなたが並外れて鈍感なだけ。
依然として固まっている安影ズを眺めながら、たどたどしくも続けてみる。今まで櫟くんに何があったかは知らないけどさ、なんていうか、そんな劣等感抱くようなことじゃないはずだよ。もっとこう、気楽にしたらいいじゃん? このパンフに載ってるDa Clapて人がパートナーなの? 静かに頷く櫟くん。愛しあえる人いるんじゃん、すごい良いことじゃん。その人と一緒に音楽までやれてるんでしょ。じゃあもう「ゲイのラッパー」としての希少価値とか、そんなのは本当にどうでもいいこと、だと思うよ。違うかな? 安影ズ、言葉が見つからないようで一〇秒くらいの沈黙。もういいかな。ちゃんと言えたよな。
じゃ、わたしらもう行くから。ちょっ、行くってどこに。めし買いに。じゃあね櫟、じゃないBargainShade! こっちだって手加減しないぞー、MC93 show no mercy, 今宵のショーのアガりは二割増し、y'know what I mean? 「今宵」じゃないでしょう、私たちの出番は五時過ぎ。あーそうだった、この名乗りにもバリエーションつけないとなー。あはは、それじゃ後でよろしくっすANDYOURSONGさん! 正々堂々やりましょー!
あ、ちょっ、行きよっ、た。……姉貴。なんや、なん本番前に気落ちしようか。してねえよ。でもよ……変わったやつだな。あいつは中学んときからおかしかぞ。うん……それより買うてきたんな。え? コーヒー。ああ……はい。おま、これアイスティーやん! え、クラフトボスって書いてあるだろ。そのコーヒーのやつじゃバカタレ、白いキャップの! これ水色やろが! なんだようっせーよもう、じゃあ自分で買ってこいよ。
とりあえず二〇組目まで終わったけど、今んとこ一番ヤバかったのは「平均律を過去にする」さんだったなー。ジョン・ケージのフォロワーとしては最上級のパフォーマンスだったと思うけど、でも調律を破壊するってああいうことかな。「44,100Hzを過去にする」さんもまあ健闘してたけど、ライブでは伝わりづらいだろーあれは。「民主主義を過去にする」さんはキャッチコピーの時点では期待してたけど、実質はレキシと打首獄門同好会の左翼版みたいなネタだし、音はまんまミニストリーだしでがっかりだったなー。
とまあ、どうやら今回の九州北部予選は「あくまでシンガポールの企業が主催する世界的音楽イベントの一部」でしかないらしく、多士済々の出場者たちの半数は次々と観客の投票によって切り捨てられていった。それにしても開会式すら無いとは。あの「もう皆さんわかってると思うのでいつも通りの段取りで始めまーす」感すごかったな。予選の内容はネット配信されないから下調べもできなかったけど、本当に世界中でやってるんだな……
やっぱり客層の過半数は東南アジアの人らしく、歌詞がストレートに伝わっているとは思い難かった。むしろ、コンセプトが固まっていてパフォーマンスとしても奏功しているものが評価される傾向にあるらしい。そしたら、単に曲作って持ってきました式のヒップホップクルーであるわたしらはどうなんだろう、可もなく不可もなくって感じか、とか考えながら女子トイレに入る。もう二〇分後に出番とはねー、やべ緊張がぶりかえしてきた。古市さんに電話してみようかな。やめとけっての。あ、いま女子トイレすごい空いてるな。さっきは着替えで使ってる人たちがすごかったからな、と思うと、突然個室のドアが開いた。その中に一人の、QかOSUMIかと見紛うほどの髭面の巨漢がいた。男性が。
ふたりきりの沈黙。
あの、男子トイレあっちですよ。と、警備員のような口調で言ってみる。が、なんか哀しそうな顔をしている。誰か入ってきたらどうしようと入口を見るが、とりあえず人気はない。もう一回言ってみようかな。あの、男子トイレは……と、そこまで言いかけて気付く。
あれか。女性、なのか。この人。
トイレットペーパーですか。言い直したこちらの言葉に驚いて見える。単に個室のホルダーに紙が見当たらなかったから言ったのだが。ちょっと待ってください、はい。と1ロール渡す。どうも、と低い声で会釈しながら受け取る。ドアが閉められるまでの挙動を見届けたのち、わたしも隣の個室に入る。
えと、どうしようかな。どうしようってそりゃ排尿だけど。でも少しびっくりしたせいなのか尿意が止んだな。さっきのあの人、あんまちゃんと顔見てないけど、でも明らかにあれ、櫟くんの相方だよな。あのパンフレットに載ってた大柄のラッパー。
Da Clapさん、でしたっけ。隣の個室に届くように言ってみる。はい。と朴訥な声が応えた。えと、わたし実は対戦相手の|93ってクルーのもんです。ああやっぱり、そうじゃないかと思って。あはは、お互い偶然っスね。ええ、びっくりしたでしょう……まあ、少しは。えっと……肉体的には、男性? そう、ですね。トランスジェンダー、っていうんでしたっけ。はい。大変ですよね、体と心が食い違ってるって。いつもこっち側のトイレ使うんですか? いや、さすがに理解されないだろうと思って、外のトイレは極力使わないようにしてるんですけど……今日の会場はそこらじゅうフリークばっかりなんで、まあいいやと思って。あははは、わかります。そだ、実はさっき櫟くん、じゃないやBargainShadeに会ったんですよ。え? わたし、あの子の姉と中学の同級生で。うわ久々に会ったなーってやってたら、ゲイのラッパー二人のヒップホップやってるって知って。ああ……ゲイじゃないんだけどね、実は。トランスですかね。うん。ということは、えとDa Clapさんは女性で、BargainShadeは男だから、つまり男女カップルってことですよね。そうだね。あの子は知ってるんですか? うん、知ってのうえだよ。本当は櫟のお望み通りの相手じゃないんだけど、でも彼は僕のかたちを愛してくれてるからね……つかすんごい良い声してますね、阿部寛みたい。たまに言われる。ははは。
そうだ名乗るの忘れてた、わたし龍九三っていいます。あどうも、小松原伯修です。かっこいい名前、どんな字スか。にんべんにしろに、しゅうがくりょこうのしゅう。伯、ってことは長男スか。おお、よく知ってるね。中国、つか東アジアの命名では伯は長男でしょ。そうそう、うちの母親が中国人でね。そうなんスか、ご両親とはどんな塩梅スか。うん……あ、やっぱ言わなくてもいいスよ。いや、まあ、長男がこうだったらね……そりゃ動揺もするよなって。そう、スか。
あの、ブチギレさせてしまうかもしれないけど訊いていいスか。なにかな。話し言葉は女っぽくないんですね。性自認が女性だからといって女言葉じゃなきゃいけないのはおかしい、そもそも女言葉、って考え方自体がおかしい。お、おお、そーっスよね! いやあわたしガキのときからこんな話し方スけど、「だわ」とか「なのよ」とか、誰が使うかっつーんスよね! ああ、やっぱそうなんだ。女性にそう言ってもらえてほっとした。はい、いやそちらも女性でしょ。ははは、いやまあ。
カラカラカラ、とトイレットペーパーが切られる音のあと、ドアが開かれる。まさか女子トイレで連れションとは。わたしも出るか。横並びになって手を洗いながら、改めてお互いの顔を見る。しかしまあデカいな、サングラスのサイズでさえデカいな。とか思ってると、イケメンですね、モテるでしょう、とか言われる。え、わたしが? 同性に? ないスよー、一時期相方がいたくらいで。あ、ほんとう。まあ、長続きしなかったんスけどね。「相方」って言い方、良いよね。ですよね、一時期なんか彼氏のことを「相方」って呼ぶ女を必要以上にこき下ろすみたいなの流行りましたけど、何が悪いかっつーんスよねー。愛しあえる人がいることに性別なんか関係ないじゃん、女も男も「相方」でいいんスよ。わかるなあ。いや、こんな話が通じる人初めてで。あはは、恐縮っス。ちょっと泣きそうかもしれない、でも今からあなたと闘わなきゃいけないのかあ。いやもうそこは、正々堂々やりましょう。握手。
すっかり打ち解けて出てきたわたしらを前に、櫟くんが青ざめている。なにしてんだ伯、電話出ろや。あーごめん音オフにしてて。櫟さっき会ったんだって? こちら龍さん、に助けていただいて。は? いやトイレットペーパー渡しただけっスよ。でもあの状況じゃ大声出されても仕方なかったよお。櫟くんすごい良い相方さん持ったねーとくに声が。あはは、あ、龍さんLINE交換しませんか。あーすんませんわたしガラケーで。電話番号とメアドでいいスか? えー初対面なのにいいんですか。もちっスよ、つかLINEってそういう連絡先よりライトな感じなんスねーいま知った。
なに意気投合してんだお前。電話帳登録中の伯さんに噛み付く櫟くん。なにって、龍さんべつに警戒すべきタイプの人じゃないから。対戦相手だろ、つってんだよ。そんなの些細なことだろお。うっせえ、そんな穢らしいアマと絡むな。そいつに俺らのことが理解できてたまるか。いいからもう来い、姉貴が呼んでんだよ。明らかな体格差にもかかわらず腕を引かれていく伯さん。ちょっと待って櫟くん。その呼び方やめろや。ごめんBargainShade。ちょっと言いたいことがあるんだけど、いいかな。
すっ、と背筋を伸ばしながら、並び立つ二人を前にして言う。わたしのことはいくらでも嫌ってくれていいけど、さっき「俺らのことが理解できてたまるか」って言ったよね。ああ、だからなんだよ。でもわたしも伯さんと同じ女性だよ。理解の余地は有るんじゃないかな。無えよ。なんで? お前らは俺らと扱いが違うってんだよ、レズ野郎。いいか、女がふたり並んで歩いてても後ろ指さされねえだろうが。でも見てみろよ、こんな金髪のチンピラと髭モジャの巨漢が歩いてて。それで恋人らしい振舞いなんてできるわけねえだろうが。その時点でお前らと俺らには格差があんだよ。
沈黙。
それだけ? あ? 言いたいのはそれだけ? んだよ、なんか言いたいことあんなら言ってみろよ……既になんか怯えてるな。つまりあれか、他人に言うのは初めてか。じゃあ、聞き手としての務めは果たさなきゃいけない。
櫟くん。その呼び方やめ──やめない。君はやっぱ櫟くんだよ、ケツが青いままのガキだね。赤のアディダスが一歩たじろぐ。さ、始めるぞ。
君がいま言ったことで、何が許せないってね。それは自分だけじゃなく伯さんまで卑下したってことだよ。一歩前の口が半開きのまま歪んでいるが、言葉を継がせる隙は与えない。ふたりだと大手を振って歩けない、みたいなことを君は言ったね。じゃあ愛すること自体やめたらいいじゃん、伯さんを。でも無理でしょう。愛してるし、愛し続けるんでしょ。だったら堂々としてりゃいいじゃん。むしろケチつけるやつらを嫉妬させるくらいイケてるカップルになればいいじゃん。なにを知ったようなこと──ダサいよ。君がよくないのは結局、ダサいってことだよ。自分をかわいそぶってたらどうにかなると思ってるだろ。自分がゲイだってことに勝手に劣等感おぼえて、それを相方にまで押し付けてる。そういうのをケツが青いっていうんだよ。うっせ──率直に言う。わたしが君に言いたいのは単純な一事。君は愛する人と一緒に音楽やってて、今からそれを唄うんだろ。なら──愛を限ってどうするよ。最初から自分たちにしかわからないと思ってる奴らの歌なんか、誰が耳を傾けるかよ。かわいそぶりたいだけなら独りで部屋に籠ってたらよかったろ。でも、君は今日こうして出てきたろ、誰かに届けるための場所に。なら、もう覚悟を決めな。わたしは届けるつもりで来た。その覚悟すら決まってないやつになんか、ぜったい敗ける気しないね。
以上、って感じで背中を向ける。もう言う必要はない、ので、右手だけひらひらと振っとく。櫟くんも伯さんも追ってはこなかった。いやあ、それにしてもよくあれだけかませたな。でも、卑屈な歳下の男を相手にかますなんて余裕か。さ、もうすぐ本番だ。いくぞ、キュウゾウ。おうよ、九三。
…… 櫟、大丈夫か? ……だけかと……え? ……姉貴だけかと思ってたよ、俺を気遣ってくれる女は。え、気遣いだったか今の。そうだよ。一番必要な言葉を貰っちまった。よりによって、今から闘う敵から……はは。何なんだろうあいつ、バカかな。バカなんだろうな。
伯。うん? ごめん、なんか、甘く見てた。いや、いいよ。違う、お前だけじゃなくて。え? 歌とか、ライブとか、愛とか、いろんなことを……そうか。敗けてらんねえな、あんなレズ野郎には。うん、まずはその呼び方やめろ。今だけは許せよ、このままぶつけてやんだから、気持ちで敗けてどうする。ああ。じゃ、行くか。おう。あいつだけじゃなく姉貴もビビらせてやろうぜ、今までで一番良いライブやって。だな。
なんだあのラップ。
めっっっっっちゃ五連符じゃん。
あんなリズムの取り方はじめて見たすよ、ギターのピッキングならともかく、人間の喉でできるものなんすね。と、漁火ちゃんでさえたじろいでいる。「すべての三連ラップを過去にする」ってこういうことか……たしかに、あんなの聴かされたあとではミーゴスなんか聴けないわ。DJingはオールドスクールなブレイクビーツなのに、そこに乗るラップは奇数分割のリズムで構成されてる。まさに音楽性自体がバイセクシャルというか……あ、ああ、もしかしてANDYOURSONGってANDROGYNOUSのアナグラムか!? うわーうまいな! なんか急に強敵に思えてきた! 自分で危機感を煽ってどうするの。いやーだってこれヤバいぞ測! 落ち着きなさい、どんなのが相手でもやるべきことはひとつでしょう。でもさー、あんな複雑なリズムなのにめっちゃ沸いてたし、テクニック評価型の観客はかなり持ってかれたんじゃないかな……ちょっと、斬り込み方を変えたほうがいいな。
測、漁火ちゃん、本番直前だけどひとつ変更。なに。なんすか。イントロ前に三〇秒くらい時間ちょうだい。いいけど、何するの。演説。演説って……個人技能じゃない。あの三人のパフォーマンスに独りで対抗するつもりなの。いや、わたしの演説を突破口にする。いいかな、漁火ちゃん。もちろん、信じるすよ。測。はあ……持ち時間だけは超過しないように気をつけなさい。ありがとう。あと、終わりのほうでコール&レスポンス入れるから、わたしが合図したら We are! って言ってくれ、その直後に曲はじめるから。まったく、骨が折れること……やるけどね。ありがとう。いくよ。
うわあ、こんだけのステージになるともう顔なんか見えないな。これ全部人なのか、みんなこれから、わたしたちの音楽を聴くことになる……日本語わかるかどうかは知らないけど、確かなのは、みんな聴く耳を持ってる。そのために来てる──なら、お望み以上のものをくれてやる。
Wassup fuckers out there!? 雲霞にしか見えなかったオーディエンスが、この一言で初めて顔をもって見えた。行くぞ。
今日ここにいるやつらが、なぜ、どうして、どこから来たのか……そんなことはどうでもいい。なぜなら、何を望んでるかは明確だからだ。お前らはヤバいライブを味わいたくて来た。部屋の中で一人じゃ退屈だから、今日ここまで、身体を運んでやってきた。そうだろ?
そしてわたしらには応える用意がある。だが、一つだけ条件がある。この条件に見合わないやつは連れていけない。条件って何か? 音楽の神に忠誠を誓えるかどうか、だ。連れていくってどこにか? 音と言の流れる場所へ、だ。
いいか、今お前らが、わたしの喋ってる言語を理解できるか、そんなことは関係ない。音楽は何人でも、何人とでもできる。メイクラブと一緒だ。今からわたしらは、このドームに集まったやつら全員を愛し尽くすつもりだ。準備はできてるか? この空間を、愛と音で埋め尽くす準備はできてるか? ビッチ、ピンプ、非モテ、メンヘラ、女の童貞、男のヤリマン、色々いると思うが、全員まとめて連れてってやる。愛し愛される覚悟があるやつ全員だ!
Who's got the blues?
We are!!
Who's got ya sayin'?
We are!!
Who's got ya singin'?
We are!!
わたしら全員が|93だ、『好きなように唄いやがれ』!
よくやったじゃねえか。電話越しの声が不思議に暖かい。あざーす。音楽のことなんかわかんねえけど、なんつうか、まあ喰らったよ。古市さんが言うならウソじゃないんでしょうね。はは。ま、そのまま行けよ。お前がやってること、悪かない。悪かねえぞ。
ふうっ、と、いつのまにか500mlペットボトルの中身がなくなっている。いやー緊張、してた、のかな。よく憶えてないな。観客ノッてくれてたのかな。投票してくれたってことは、良いって思ってくれたんだよな。じゃあ悪かない、悪かないな。
どうなるかと思ったっすー、でも楽しかったー! マイク握り込むと音がこもるからやめろってあれほど言ったのに、やっぱりやってたねあなた。いやー立ってるだけで精一杯でさ、でも作曲の方向性まちがってなかったねー! モードのコンセプトばっちり伝わってましたよ、フックで「おお!?」ってなってた人いっぱいいたすもん。マジ? よく見えてたねー漁火ちゃんさすがだな。さすがに、演説の力だけでは勝てない相手だったはず。わかってるよ、でも楽曲の力だけでも勝てなかったはずだぞお。
よお。あ、楸……と、櫟くん。伯さんも。邪魔じゃねえかな。まさか、入ってよ。ああ……お疲れ。うん、お互いにね。なんつうか、敗けたよ。認めるしかねえ。いやいや、投票もそうだったけどほぼ互角だよ。どっちでもありえた。いや、今回ばかりはな、こっちの敗けだ。
なあ九三。なんだ売女。なんちゅうか、弟が世話んなった。世話なんかしてねーよ、ずっと櫟くんに付き添ってたのは楸だろ。DJもすげえキマってたよ。DJ GUBって名前、 Got Ur Back の略? まあな。ほんとその通りのDJingだったよ、良い姉持ったな櫟くん。良い相方も。ああ、誇らしいよ。実際、こっちも今までで一番良いライブだった。これで敗けんならしょうがねえわ。
続けなよ。え? 敗けたからといって、止めんなよ。当たり前だろ、いつか絶対吠え面かかせてやる。おー、そのためには作品つくりなよ。わたしらMCバトルなんかにゃ興味ないからね、どれだけの作品残せたかが勝負だ。わかってら。伯さん、あんたのスキルヤバいよ。あんなの誰にも真似できない。このまま行きなよ、相方と一緒にね。ありがとう。え、泣いてる。あーちくしょう、何のためにサングラスかけてるんだ。ははは、こいつこうなんだよ。なんかわかる気すんなー。お前KATFISHとかいったな? はい! 動画で見ようときから思てたけんが、お前のギターヤバいな。マジすかー、DJのひとに褒められるとうれしっす! お前の参加したレコーディングで良さそうな音源あったら教えり、あしの営業で使ったるけんが。あざす! じゃあLINE訊いていいすか? プロフィールのアドレス送るっす!
あーやっと泣き止んだか。あはは、ちょっと煙草吸いたいから外出ていい? よかばってん、キュウゾウが表出たらえらかこつならん? そんなスターじゃないだろ。あれ、お前ラッキーストライクなんか吸いよったか、マルボロやろ。そりゃ煙草の趣味くらい変わるよ。はーん。
ねえねえ時間あったらこのあと焼肉行かない? わたしのおごりで! はっ、勝者の余裕げなん腹立つな。いーじゃん楸、積もる話もあるだろー弟のこととか。は、お前に話すことなんかそんなねーよ。そうかー? 伯さんもそれで大丈夫? まあ、終電まにあえば。オッケー、そんじゃ今から予約入れとく。このへんウエストあったっけ。ウエスト!? 叙々苑とかじゃなくて!? 叙々苑ってナニモンだよ行ったこともねーよ。はは、そしたら単品の皿ば頼みまくって破産さしたる。もしもし定額食べ飲み放題プランで。それ以外のオーダーなしで。六人。はーいよろしくお願いしますー。
うわーすげえ夕焼け。ドームってやっぱ見晴らし良いな、すっかり秋だなー。なんが面白かと? いや、夜勤ばっかだから久しく見なかったなと思って。は、確かにな。DJやってても朝方の帰宅ばっかやけんな。だろ。夕焼け眺めながら一服だ。悪くないな。やな。悪かないな。
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