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生ぬるい風が頬を撫でた。微かに鼻を掠める梅の花の香りに振り向くが、そこは静寂と暗闇だけが広がっている。
「……ちっ」
舌打ちが出たのは〝梅〟と意識することに嫌悪感があるからだ。
露になっていた鼻をぐっと擦り、首元で役目を無くしていた口布を上げ鼻を覆った。幾分、嗅覚は落ちるが梅の香りを嗅ぐよりはいい。
気を取り直して前を向けば、闇深い林の中へ再び足を進める。ねちょりと音を立てる足元は、雪解けで湿った土とその上を覆う濡れた枯葉のせいだ。
雪はない。春はもう来ている。
春が近付けば近付く程、夜明けも早い。夜の帳が明ける前に急がねば。
無意識に早まる足。息は上がり、心は興奮していた。秘めた思いを果たす為、練りに練った計画。この時期を待ちに待っていた。
しばらく歩くと、ころころと水の流れる音が聞こえてきた。
濡れた枯葉に足を取られながら駆け込むと、そこには細々とした沢があった。大人の足なら軽く大股で飛び越えられる程小さな沢だ。
自然で形成された窪みを流れる、透き通った水が夜闇の中でも見て取れる。露になった石を滑り落ち、軽やかな音をたてるその様子は涼やかで寧静だった。
心がすーっと洗われるような気持ちになる。気が済むまでずっと耳を傾けていたいと思える。だが、どこからともなく嗄れた声が聞こえ、はっと現実に引き戻された。
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