1人が本棚に入れています
本棚に追加
ホワイトローズの誘惑
寒い朝だった。吐く息が白かった。
曇天の小雨が降る空から、なにか白い羽のような、埃のようなものが
舞い落ちてきた。
雪、だった。
ここ数年、都内で雪を見たのはこの日が初めてだった。
首筋に冷たい風が吹き込んだ。僕は首をすくめた。
電車待ちのホームのベンチで僕はスマホを見るともなしに眺めていた。
ニュースのサイトを見ていた。コロナ感染者が昨日より数十人も多く確認されたとサムネイルに表示されていた。
本当なら、家でリモート業務に励んでいる時間だった。午前10時22分。
23分発、池袋駅行きの準急がホームに差し掛かってきた。
僕はホームのベンチから立ち上がり、五番目の車両に乗車するために最終列に並んだ。
前に女性が立っていた。長い髪が白いロングコートの背中のあたりまで届いている。今時珍しい黒髪で、それはつややかに手入れされ、頭頂部のあたりには、天使の輪っかが光っていた。
僕は瞬間、彼女の髪に見とれた。
しかし、こういう女性に限って、表側はそう美しい見た目じゃないのだろうな、と同時にネガティブな思考が頭をよぎった。
電車はホームの指定の場所に停車した。ドアが開いて中から人が降りてきた。
コロナの時節柄だろう。そう夥しい数ではない。
乗車する人の列が動いた。僕は見とれていた長い髪の女性の背後から、
徐々に歩み始めた。
その時、彼女の足が止まった。止まったというよりも、足がもつれてよろけ
倒れそうになったという方が正しい。
僕はよろめいた彼女の腕をとっさに掴んだ。ホームにいた駅員がめざとく駆け寄ってきた。
「お客様、大丈夫ですか?」
駅員は後方から彼女に声をかけた。彼女はそれに応える間もなく、その場に崩れ落ちた。僕は彼女の腕をつかんだままだった。駅員は僕と彼女が連れ同士と勘違いしたらしく、ホームから僕と彼女の両方を引き離した。
彼女はホームから引き離された瞬間、うずくまった。
その後、電車は何事もなかったかのように定刻通りに発車した。
「どうされたのですか?気分でも悪いの?」
行きがかり上、僕は彼女に声をかけていた。それに気づいた駅員は
「お連れ様ではございませんでしたか?」
と僕に尋ねる。
「連れじゃないけど、この方気分悪そうだからつき添います」
僕は反射的にそう言った。仕方がない。
今日の予定は僕と僕の友人であり、二人で立ち上げたベンチャー企業の社長でもあるナカモトと、仕事の打ち合わせを兼ねたランチ会だけだったので、彼に事情を説明して今日の会合はキャンセルし、日を改めてもらおうと考えたのだ。
女性は駅の事務室に、僕が支えながら歩いている途中、ずっと下を向いていた。
事務室の横には小さな仮眠室があり、彼女はそこに通された。
仮眠室で僕がコートを脱がす手伝いを始めた瞬間、初めて僕は彼女の顔を見た。
細面で切れ長の目に、筋の通った鼻、すっと唇の端が切れ上がって、それは誰が見ても美人の部類にはいる容姿だった。
僕は急にどぎまぎして、顔が赤らむのを覚えた。
歳のころなら、四十代の初めくらいだろうか?あるいはもっと若いのかもしれない。僕は女性の年齢を考察するのは苦手だ。もっともほとんどの男性はそうなのかもしれないが。
「大丈夫ですか?」
僕は間抜け面で尋ねているであろう、自分を思い乙女のように恥じらった。
彼女は前髪に掛かった髪の毛を左手で掻き揚げた。
そうしてけだるそうな眼差しで僕をじっと見つめた。
「すみません、あの電車に乗らなければならなかったのでしょう?」
彼女は僕に対して、心底すまなそうにそう言った。
「大丈夫ですよ」僕がそう言ったその時、スマホの着信音が鳴った。
「すみません、ちょっと失礼、電話です」僕は事務室の外に出た。
電話は今日会うはずだった、ナカモトからだった。
「すまん、ちょっと用事が出来て今日の会食はキャンセルできないか?うちの子どもが熱を出して、あ、コロナじゃないと思うよ。カミさんもなんだか風邪気味らしくて俺が小児科に連れていく羽目になっちゃってさ」
僕はナイスタイミングだと思ったが、こちらの事情は話さずに彼にこう言った。
「そうか、大変だな。ついでに彼女の方も病院に掛からせるほうがいいな」と。
電話が終わり、僕は再び事務室に戻った。
「あの方を病院で診てもらった方が良いと思うのですが」
僕は僕と彼女を事務室に連れて来てくれた駅員にそう言った。
「今、救急車の出動要請を検討していたのですが」
駅員は事務的な声で僕にそう言った。
「しばらく休んでもらって彼女が動けるようになったら、僕の知り合いの内科医に診てもらうように連絡を付けます。さっきの電話は、今日アポイントを取っていた僕の仕事先からのキャンセルの電話だったので」
僕は駅員に名刺を渡して、自分の身分を明かした。そういうことなら女性が歩けそうになった時にタクシーを呼んで、病院まで行く手配をする、と駅員は僕の要請を承諾した。
仮眠室に行くと、彼女は起き上がり、自分のハンドバックの中身を確認し、小さなコームで軽く髪の乱れを整えていた。
「気分はいかがですか?」と、一緒に仮眠室に入ってきた駅員が彼女に尋ねた。
「ああ、すみません、お世話になりました。大丈夫、一人で帰れそうです」
そう言っている彼女は、まだ青ざめた顔色をしていた。
「顔色が良くありません、駅員さんにタクシーを呼んでもらいました。僕のかかりつけの内科医に診てもらいに行きましょう。あ、怪しい人間ではありません。僕は会社経営に携わっています。こういう者です」
そういって僕は彼女に名刺を渡した。
「IT関連業務の会社です。今日は共同経営者と打ち合わせる予定で、池袋まで出るはずだったのですが、タイミングが合ったというか、何とも言い難いのですが、彼の方で私用が出来てしまい、打ち合わせがキャンセルになったのです。」
彼女は細く長い指先で僕から名刺を受け取り、じっと僕の目を見つめた。
その目の光彩は暗い緑とコバルトブルーに縁どられ、深い深海のような色を
している。
見ている僕は、その瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
軽いめまいが僕を襲う。こんな深い色の瞳は見たことがない。
僕は彼女の瞳に見惚れた。
僕がややしばらく彼女の目を見つめたままでいると、仮眠室に入った者とは違う駅員が僕を促した。
「駅前にご名刺にあったあなたのお名前でタクシーを呼んであります。
たった今、到着したそうです」
その駅のコンコースは狭く、タクシー乗り場がないので、駅からタクシーに乗車するときは、流しのタクシーを拾うか、タイミングが悪ければスマホアプリでタクシーを呼ぶかしかないのである。
「タクシーが来たみたいです。一人で歩けますか?」
僕は彼女の二の腕を軽くつかんで、彼女が立とうとするのを手伝った。
彼女は力なくぐったりしていた。仮眠室の簡易ベッドから降り、靴を履こうとしたとき、彼女は床に手をついて倒れてしまった。
「大丈夫ですか?歩けない?」
彼女はすまなそうに僕を見て言った。
「大丈夫です」
「大丈夫そうには見えませんよ。無理しないで」
僕は彼女を再びベッドに座らせ、靴を履かせ、彼女が脱いだ白いコートに袖を通させた。
「ちょっと、恥ずかしいと思うけど僕の背中に負ぶっていきましょう」
僕は膝を曲げて腰をかがめ、彼女を背中にもたれさせた。
気力がないのか、彼女は子供のように素直に僕に体を預けた。
「すみません。お世話になりました」
彼女はおそらく、僕と駅員に対してそう言ったのだろう。しかし駅員は厄介払い出来た、とでもいうように事務的に「お大事になさってくださいね」
といい、すぐさま忙しげに業務に戻ったのだった。
僕は彼女を背負ってホームの階段を上った。彼女は見た目もほっそりしていたが、恐ろしく軽かった。ちょうど白いハトの羽が肩に乗っているみたいだ。
「すみません、お忙しいでしょうに」
彼女は僕の背中でそう言った。苦し気な吐息が僕の首筋を撫でている。
さわさわとうごめく呼吸がひどくなまめかしく感じられる。
「大丈夫ですよ、今日はオフになったんだから。そんなに気を使わなくて平気だよ。あなたは病人なんですから」
僕は気楽さを装ってそう言った。本当は心臓の鼓動が激しくなり、息苦しいような心持になっていた。鼓動の激しさが背中にいる彼女に伝わらなければいいが、と僕は思っていた。
「そんなに具合がよろしくないのにお仕事でも行く途中だったのかな?」
僕は彼女が気を遣うことのないように努めて平然と会話をかわそうとした。
「仕事ではないんですけど、ちょっとした用事で」彼女は言った。
「デート?」僕は冗談めかして言ったが、すぐに軽はずみな言動を後悔した。
「もしデートなら、すぐに彼に連絡入れますよね、こうしてしがない中年男の背中におんぶされることなんてないよな、失礼」
僕は時々、こういう軽い冗談とも言えない冗談を言って、不評を買うことがある。
女性の知り合いには空気の読めない男、といわれているぞとナカモトにも指摘されることがあった。それを僕は思い出した。
「やらかした」と、僕は彼女に言った。
「くだらないこと詮索してごめんなさい」
僕の意に反して彼女はふっと軽い笑い声を漏らした。
「思い出します」
「え?」
「思い出します。亡くなった彼のことを」
「え?」
「今年の春、桜が散ったころ、恋人が亡くなったんです」
「ああ」
僕は言葉を失った。こういうとき他の人間はどういう言葉で応じるのだろう、と僕は沈黙の中で思考した。
「思い出しました。彼は自分が病んでいるのにも関わらず、病床でいつも私を笑わせてくれていたんです」
「優しい人だったのですね」
「優しい人です。今でも」
彼女はふっとため息をついた。
「急に思い立って今日は彼のお墓参りに行こうと思ったんです」
「そうなんですね」
「はい」
彼女は続けて言った。
「彼のお墓は神戸にあるんです」
「神戸?」
「そうなんです。だから池袋まで私鉄で出てから、JRで品川までいって、そこから新幹線に乗るつもりでした」
「そんなに無理な行程、今の状態では無茶すぎますよ。いつから具合が良くなかったんですか?今朝から?それとも駅で立っているときに急に?」
僕は急に訳の分からない苛立ちを覚えた。
「わたしね、そんなに長くないんです」と彼女は言った。
「は?」
彼女の言っている意味が分からない。
「生きていられる時間、という意味です」
何だって?僕の苛立ちは幾分上昇した。
「重病なんですか?それなら余計に無理しちゃだめですよ」
「特定難病疾患に指定されている病気です。かんたんに言うと膠原病みたいなものです」
「膠原病?」
「自分で自分の免疫細胞を壊してしまう病気です」
「なんてことだ。なんという無理をするんですか?寝ていなきゃだめじゃないですか?」
「お医者さんにもそう言われています」
「そんな無理をして、あなただけじゃなくて駅員さんにも迷惑がかかったじゃないですか?もしホームの下にあのまま転落したら、何万人の人を足止めしてしまうか、考えが甘いですよ」
僕の苛立ちはマックスを振り切った。彼女に対して心底怒りを覚えた。
僕は僕の信条として、他人には迷惑を掛けない、もし迷惑をかけるとしたらそれを最小限度に抑えるべきだという考えを抱いている。
それは真実として正しいものではないのかもしれない。しかし、僕が生まれ育ち、四十余年これまで生きてきた僕自身のコモンセンスとして、それは自分を自分たらしめる重要な信念になっているのである。
「ごめんなさいね。わたしのいけないところ。すぐに感情で動いてしまうところ。彼にもよく怒られていました。行動する前には一呼吸おいてよく考えてから行動しろよ、って。でもダメなんです。すぐ行動に移してしまうんです。空からなにか、お告げというか、天啓というか、天命というか、そんな理性では対応しきれない感情に突き動かされて動いてしまうので」
昨日…。と彼女は話を続けた。
「…昨日の夕方、四時ころだったかな、雪が降ってきたんです。ひとひらだけ。ちょうど天使の羽が下りてきたみたいに。それからちらほら雨の小粒が白いものに変わって落ちてきました。ほんの数分でした。雪が降ったのは」
僕ははっとした。奇妙なシンクロニシティ。彼女は一息ついた。
「あの、ね。その雪の花びらが桜の花びらに見えたのです。あの人が『ここに一人で居るのは寂しいから来て』と言っているように思えて、そうして眠った朝、急に『今日は行かなきゃならない。神戸に。あの人の眠っている場所に』そう思ったのです。おかしいと思われるかもしれないけれども」
「おかしくはないですよ」僕は静かに彼女の心を受け止めた。
人はこういう言葉では言い表せない奇妙な衝動に駆られることがある。それくらいの寛恕の気持ちは僕にもある。
僕が彼女の立場だったら、僕もそのような行動をするかもしれない。
愛しい人を喪うのはそれくらい痛みを伴うものだから。
「僕も、二十年くらい前に亡くしました。婚約者をね。だからそういう気持ちになるのはまったく同じようにというわけにはいかないけれども、共感できる部分は多々ありますよ」
そうして僕は静かに彼女に言った。
「タクシーで神戸まで行きましょう。ご一緒させてください」と。
これは僕の言葉じゃないな、と僕はすぐ分かった。僕は出会ったばかりの女性と軽々しく遠出をするようなことは極力避けたいと思う慎重な人間だ。
しかしその言葉は僕の唇に馴染みつつ、するりと僕の常識を飛び越えて出てきたのだ。天啓、というやつかな?僕は直感で感じる。
ところが今度は彼女の方が、慎重な常識人に変容した。
「そんな。ご無理を言わないでください。それはできません。私は一人であの人に逢いに行かなきゃいけないの。新幹線に乗るまでか、神戸についてからでもいいのだけれど、白いバラの花を一本調達しないといけないし」
「今日は二月十四日ですね。ああ、日曜日だ」
「そうなんです。日曜日。花屋さんは開いているかしら?」
彼女はどこを見ているのかわからないような茫漠とした視線を、宙に泳がせている。僕は再三、彼女の視線に捕縛されっぱなしになる。
そういえば…と僕は思った。そして彼女が調達しなければならないという白いバラの花の由来についての記憶が、その典雅な香りとともに頭の隅をよぎった。
僕の思考は彼女の視線を通過して、過去に飛ぶ。
「アメリカに住んでいた時のことです。僕はサンフランシスコで日本人留学生の女性と婚約していた。朱里(あかり)という名前でした。
婚約したのが1998年の2月14日だった。恋人に一本だけ白いバラの花を渡す、あちらのバレンタインデーは日本みたいに女性がチョコレートを渡して告白する、とかいうお菓子屋の陰謀説とは違う。おしゃれで粋でしょう?」
彼女は微笑む。
「Johnも同じことを言っていました」
「白いバラの花一本。おしゃれで粋でしょう?って」
「Johnって?」
「ああ、亡くなった彼の愛称です。本名は、ホ・ジョンス。アメリカの大学に通っていたころ、同級生のジョンソンと本人のジョンスの発音が紛らわしくて、ジョンスの方がJohnと名乗るようになった、と聞きました。面白いでしょ?
彼の名前は漢字ではこう書きます。許す、の許(きょ)に忠義の忠(ただ)、そして秀でるという意味の秀(ひで)『許 忠秀』」
「韓国の方?」
「済州島出身です。私はチェジュには行ったことがないけど。これから行くこともできないでしょう。今はコロナだし、コロナの終息後まで私が生きている保証はないし」
「僕は、僕の婚約者が、婚約のしるしに僕が白いバラの花を捧げたのを、とても喜んでくれていたのを思い出します。
芳香剤とか、調香のエッセンスオイルのように強くなく、自然な甘いフローラルに、少しだけスパイシーなグリーンノートを含んだような典雅な香り。
彼女はホワイト・ローズの香りをそう表現していました。センスのいいひとだったな。彼女は繊細過ぎていろいろありすぎて。お互い好きだったけれども、生活を互いに営んでいくという、生きていくための力強さが彼女には欠けていた。
いや、ちがう。彼女に欠けていたものがあるなら僕が満たしてあげればよかったのです。僕には彼女を満たしてあげられる余力がそのころはまだなかった。
失ってみなければ、その存在や、状態のありがたさがわからないなんて、人間って皮肉にできていますよね」
彼女は僕の肩に顎を乗せた。とがった小さな重みが僕の肩のツボに当たった。
気持ちがいい、と思った。その瞬間、彼女の思考が僕の脳にダイレクトに音声として飛び込んできた。
彼女は声を出しているわけではないのだ。そのダイレクトな彼女の思考は僕の脳天を撃つような軽い衝撃を与えた。
「ほんとうはね、違うのです。人は人生で失うものなんて何一つないのです。なぜなら、人間は時間というものがあると思っている。
だけどね、本当は時間なんていう概念は実はないのです。人間が時計という道具を使って、それで日の出から日の入りと、夜の星がたどる道筋を切り刻んでいるだけなのです。
それで私たちは日常という誰かの作った決まり事を推し量りながら生きている。本当は、あなたの中に眠っている記憶の集積たちだけがあなたの世界を形作っているのです。
だから、あなたは今でも好きな時に好きなように、あなたの大好きな人に逢うことが出来るし、私は好きな時に好きなように彼に会うことが出来るから、神戸にある、彼が眠っているお墓に行く必要なんてないのです。
そのモニュメントは偽りです。彼は石で作られたモニュメントの下にいるわけではない。もちろん、彼という遺伝子を乗せた肉体の船を構築していた、骨組みの残骸は残っているし、
そこに閉じ込められてはいるけれど、本当のところ、彼は今も自由に行きたいところに行って、会いたい人に逢って、疲れたら安心して眠れる、光でできた褥に戻ることが出来るのです」
「え?どういうことですか?」
僕は思わず彼女に問いただした。僕も音声ではなく思考で会話していた。
「宇宙には時間なんて概念はない、ということです」
意味が分からない、と僕は思った。そう思った瞬間、僕は背中の重みを感じなくなった。
僕は一瞬のうちに光の差す祭壇に立っていた。
目の前には婚約者の朱里が立っていた。白いゴージャスなドレスを身にまとっていて、エレガントに微笑んでいた。
「ごめんなさいね、待たせちゃった」
朱里はそういった。
僕は訳が分からなくなって、しどろもどろになっている。
ただ、この言葉だけは彼女に伝えたいと思った。そして言った。
「綺麗だ。ホワイト・ローズのようだ。」
「ありがとう。私幸せだよ」朱里の笑顔に後光がさした。そしてそれは彼女の存在ごと包み込んで、僕の心の中に溶け込んでいった。
とても満たされて、平和で生まれてきてよかった、と心底思える、美しい瞬間だった。
電車は定刻通りにホームに到着した。2021年、2月14日、日曜日。午前10時22分。23分発池袋駅行きの準急列車は、日曜とあってか、乗降客の数が思いの外多かった。僕は寒さに首をすくめ、スマホのニュースを眺めながら、準急列車に乗り込んだ。
人ごみに押された誰かが、ホームに落ちた一本の白いバラの花を踏みつけた。もちろん、僕にはそんなことはどうでも良かった。
最初のコメントを投稿しよう!