彼女とマスター

1/1
前へ
/5ページ
次へ

彼女とマスター

 それからは会話という会話をほとんどしなかった。  何せ彼女はマスターと楽し気に話しているのだ。  喫茶店を訪れれば、彼女は必ずカウンター席にいて、挨拶をしてくれる。挨拶を返してマスターに注文し終えれば、彼女はマスターに何か楽し気に語り出す。マスターもまんざらではないようで、始終仏頂面を緩めながら聞いている。  その間に流れる空気が、ただの常連とマスターの関係ではないと早々に気付いていた。  だから俺は、朝の挨拶以外で彼女に話しかけることをしなかった。  彼女からも話しかけてくることはなかった。  二月も終わる頃。  今日もまた、二月の初めと同じ曇り日だった。  その日もいつもと同じ時間に店を訪れた。 「おはよう、マスター……」  だが、俺より先に来ていたはずの彼女は、今日は居なかった。 「あれ、彼女は?」 「……まだだ、今日はな」  マスターの声は少し、硬い気がした。まあ人間なのだから、遅れてくることもあるだろうし、来ないこともあるだろう。  俺は「そうかい」と返し、いつも通り注文してから席に着いた。  本を取り出してからふと気が付く。  栞の位置がまだ全然進んでいないのだ。読み始めたのは軽く、三週間前だと言うのに。  ――恋愛小説は、案外疲れるんだな。  こんなことなら最初からミステリー辺りを読んでいればよかった、と後悔しつつページを開く。  しばらくしてコーヒーの香りが漂い始め、そこにモーニングセットが用意された。 「ありがとう」  運んできてくれたマスターにお礼を言う。  と、マスターはチラッと俺を見た。 「……今日のはあんまりおいしくないから、ミルクを入れるといい」  長々と言葉を吐いて、すぐカウンターに戻っていく。  ――珍しいこともあるもんだな。  俺は念のためブラックのまま飲んだが、確かに少しとげとげしい味がしていた。結局ミルクを入れてもう一度口を付ける。さっきよりはましだと思った。  さて、と本を置いてトーストを手に取ろうとした瞬間、カランコロン、とベルがなった。 「――おはよ、マスター。遅くなっちゃった」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加