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彼女とマスター
それからは会話という会話をほとんどしなかった。
何せ彼女はマスターと楽し気に話しているのだ。
喫茶店を訪れれば、彼女は必ずカウンター席にいて、挨拶をしてくれる。挨拶を返してマスターに注文し終えれば、彼女はマスターに何か楽し気に語り出す。マスターもまんざらではないようで、始終仏頂面を緩めながら聞いている。
その間に流れる空気が、ただの常連とマスターの関係ではないと早々に気付いていた。
だから俺は、朝の挨拶以外で彼女に話しかけることをしなかった。
彼女からも話しかけてくることはなかった。
二月も終わる頃。
今日もまた、二月の初めと同じ曇り日だった。
その日もいつもと同じ時間に店を訪れた。
「おはよう、マスター……」
だが、俺より先に来ていたはずの彼女は、今日は居なかった。
「あれ、彼女は?」
「……まだだ、今日はな」
マスターの声は少し、硬い気がした。まあ人間なのだから、遅れてくることもあるだろうし、来ないこともあるだろう。
俺は「そうかい」と返し、いつも通り注文してから席に着いた。
本を取り出してからふと気が付く。
栞の位置がまだ全然進んでいないのだ。読み始めたのは軽く、三週間前だと言うのに。
――恋愛小説は、案外疲れるんだな。
こんなことなら最初からミステリー辺りを読んでいればよかった、と後悔しつつページを開く。
しばらくしてコーヒーの香りが漂い始め、そこにモーニングセットが用意された。
「ありがとう」
運んできてくれたマスターにお礼を言う。
と、マスターはチラッと俺を見た。
「……今日のはあんまりおいしくないから、ミルクを入れるといい」
長々と言葉を吐いて、すぐカウンターに戻っていく。
――珍しいこともあるもんだな。
俺は念のためブラックのまま飲んだが、確かに少しとげとげしい味がしていた。結局ミルクを入れてもう一度口を付ける。さっきよりはましだと思った。
さて、と本を置いてトーストを手に取ろうとした瞬間、カランコロン、とベルがなった。
「――おはよ、マスター。遅くなっちゃった」
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