其の二

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其の二

いつものように一日が始まって。 いつものように一日が終わるはずで。 明日から二連休。 晩御飯は冷蔵庫にあるものでいい。 温かい風呂にゆっくりと浸かって、今晩はぐっすりと眠りたい。 その前に、世話になっている祖父母の家へ行って、不可解な怪奇現象に怯えている二人の様子をみなければ。 預かっている祖母のお守りも、返さないといけない。 あまりにも弱っているようなら、明人自身も怪奇現象を把握する為に、祖父母の家に泊まってみるのもありかもしれない。 少し。 いや、かなり怖いけど。 そんな事を考えて狭い路地を帰宅していた宮下明人(みやしたあきひと)とは、もはや別人になったような気がする。 もう何も知らない頃には戻れない。みたいな。 本気で突然の恐怖体験だった。 通り慣れた路地の小さな辻に閉じ込められ、その辺のホラー映画なんて裸足で逃げ出すような恐怖の中で、辻の魔なんてものに命を狙われたのだ。 黒い影が明人の体を這いあがってきて、もうおしまいだ――。 そう思った瞬間、ギリギリの所で命を救われた。 絶体絶命のピンチに英雄参上。 少女漫画ならばイケメンが登場する所だが、明人の目の前に現れたのは茶色い犬のような狸ようなモフモフだった。 モフモフは(むじな)という妖怪で千徳(せんとく)と名乗り、非時香果(ときじくのかくのみ)という霊力のある果実を、七日以内に明人の命の代わりとして辻の魔に渡す約束をしてくれた。 その約束のおかげで明人は命を救われたのだが。 何と、千徳は非時香果の在り()を知らなかったのだ。 もちろん、非時香果を交換条件に出してくれなかったら明人は即喰われていた。 だから、虚勢にしろ、嘘にしろ、感謝に感謝を重ねるべきだと脳は理解している。 でも、でもっ――。 なっっっっんで知らないんだよ! そこ、一番大事な所じゃん! しかも、この世のどこかにはあるって何だよ!? 範囲広すぎて見つけられる気がしないんだけど! 七日以内に非時香果が見つからないと、今度こそ死んでしまうのだ。 不安と恐怖に、今にも泣きだしたくなる。 ――ああ。僕に八日目は訪れるのかな――。 魔物に妖怪に不老不死の果実。 まるで映画や小説の中に入ってしまったかのようで、心身ともにパニック状態だというのに。 まだ気持ちが追いつかないが、己の命をかけて、非時香果という霊力のある果実を、千徳と共に探しに行く事となった。 来週の仕事運びについて悩んでいたのが、遠い昔に感じる。 毎日、得意先を回って、荷物をさばいて、運賃を計算して――。 現実逃避を続けて仕事から逃げる事ばかり考えていたのに、いざ非現実的な世界が目の前に広がると、毎日の生活が非常に恋しく感じた。 あのボロボロな営業所が尊いものに思えてくる。 皮肉なものだ。 「あき~。そんな悲しそうな顔をするな。可愛い顔が台無しじゃぞ。非時香果は七日以内には確実に手に入る。余計な事を考えるのはよろしくない」 千徳がぴょんと飛び跳ね、柔らかな尻尾が明人の足を撫でる。 「……そうだね」 明人は苦笑を浮かべた。 さすがに、この不安と恐怖を余計な事として割り切れるほど、楽観はできなかった。 「すぐに場所は分かるからな。死の恐怖とも、早々におさらばじゃ!」 わざとらしいぐらい明るい千徳の声音が、明人の耳を通り抜けていく。 辻に放り投げていた傘と鞄は、急いで自分のアパートに置いてきた。 それから千徳の案内のままに、明人が通った事のない自宅近所の路地を歩いている。 雨はかすかに降っている程度だ。 「千徳さん。もし非時香果が手に入らなかったら、僕はどこにいても七日目の夜に死ぬんだよね……?」 千徳に言わせれば余計な事の筆頭だろうが、聞いておかないと逆に怖い。 「またそんな心配を。まぁ……どこであろうが迎えにくる。八日目の夜明けは拝めん」 「…………」 千徳には秘策があるようだが。 やはり、どこにあるとも知れない果実を探すのに、一週間は短すぎではないだろうか。 それに――。 「仕事がまずいな……」 明人の呟きに、千徳は驚きの声を上げた。 「こんな時に仕事なんかどうでもよかろうっ。おぬしの命がかかっておるのじゃぞ」 「そ、そうなんだけど、その、急に欠勤すると迷惑がかかるし、色々とさ……」 さすがに急死して迷惑が、なんて事は自分で言いたくなかったが。 その可能性は十分にある。 「仕事脳じゃのぅ」 千徳が呆れたように息を吐いた。 「僕は……そんな仕事人間じゃないよ。急に休むっていうのは、大迷惑だからさ」 「仕事に縛られる身は面倒じゃなぁ。まぁ幽冥界に入れば時間の流れは曖昧になる。少しの時間の調整ぐらい、いくらでもできるぞ」 「本当? それなら一安心だ」 と言いながら、死んでしまったら安心も何もないな……と、また余計な事を思う。 「これから万事に通じておられる御方の所に行くからな。時間を気にせずとも、すぐに非時香果が手に入る」 万事に通じておられる御方。 何だその神みたいな御方は。 明人程度の人間が会ってもいいのか。 「えっと、僕が普通に会っても大丈夫な御方?」 「それは気にしなくともよいぞ!」 千徳が足取り軽く明人を先導する。 相変わらず、よく知らない細い路地を進んでいる。 雨はタイミングよく止んでくれたが、こんな住宅街の中をどこに行くのだろうか。 「そろそろじゃ。歩みを止めるなよ」 千徳が振り返って明人を見上げた。 言われた通りに歩調を緩めることなく、茶色い尻尾について行く。 「あ……」 明人は息をのんだ。 少しずつ。少しずつ。 周囲の景色が遠くなり、後ろに消えて闇に溶けていく。 膝がぶるりと震えた。 黒に溶ける周囲の景色。 繰り返される小さな辻の絶望が頭によみがえり、足が竦む。 「怖くはないぞ。幽冥界に入っていくだけじゃ」 明人の怯えを感じ取った千徳が優しく言う。 「ゆ、幽冥界に? あっ、千徳さんが見えない……っ」 家々から漏れる光や外灯。 全てが闇に消え、完全に視界が暗くなった。 「平気じゃ。すぐに見えるようになる」 何も見えなくなり焦るが、少し進むと暗い世界にぽつりぽつりと青い光が現れ、明人は千徳を見失わずに済んだ。 「千徳さん、あの光は?」 「あれは青鷺火(あおさぎのひ)じゃ。長く生きた鷺が青く光っておる。あやつらは妖怪になりかけと言ったところかの」 「へぇ……」 闇に浮かび上がる青い灯。 ウミホタルの光に似ているだろうか。 暗い野に青い花が咲いているようだ。 「すごい綺麗だね……」 美しく幻想的な光景に、明人はうっとりと見入った。 「あき。見惚れておる所を悪いが、場が変わるぞ」 「ん?」 千徳の声に意識が戻される。 場が変わるとはどういう意味か。 問いかける前に足元が急に固くなり、明人はつまづきそうになった。 「ここはもう幽冥界?」 「幽冥界と人の世の狭間じゃ」 青い花が視界からなくなっていく。 先程のように暗闇になるかと思いきや、己の目が闇に慣れたのか、うっすらと周囲が見え始めた。 「……洞窟?」 足元が固い凹凸だらけになり、見る見るうちに周りが岩になる。 気付けば、薄暗く狭い洞窟の中を進んでいた。 照明器具なんて当然皆無なのだが、何故か視界が把握できる。 「少し進みづらくなるぞ」 千徳が凹凸を飛び越えながら言う。 貉には軽々な凹凸のようだが、普通の人間にとっては一苦労だ。 「えっ……ち、ちょっと待って……!」 慌てて進んでいる内にどんどん岩の隙間が狭くなり、半ば這うように千徳を追う。 「せ、千徳さんっ」 少しでいいから待ってくれ。 頭も身体も、何もかもが今の状況についていかない。 固い岩の感触が幻に思えるほどだ。 もちろん、屈強な岩肌は夢幻などではなく、明人は岩の隙間に足を取られ、思いきりこけた。 少し進みづらいだと? 冗談はやめてくれ。 ここを革靴で進むのは、かなりの難易度だ。 本来ならば、かなりの装備をして挑むような洞窟ではないのか。 すぐに足先に痛みを覚え、たった一歩に、ものすごい体力が奪われ始める。 「い、痛っ」 茶色い尻尾に懸命についていくが、視界が悪い中で手足を岩にぶつけて、声にならない悲鳴をどうにか飲み下した。 最悪だ。 己の思慮不足が憎たらしい。 明人は息を切らしながら、非常に後悔した。 何故、スーツに革靴で来てしまったのか。 道中の険しさなど、全く考えていなかった。 いや、考える前に道中の険しさという概念がなかったと言っていい。 こんな事になるのならジャージに、せめて靴だけでもスニーカーに履き替えてくればよかった。 「ほら、頑張れ、頑張れ」 千徳の声と、明人の荒い呼吸が洞窟内に響く。 「……っあ、あと、どれぐらい……?」 岩を掴み、懸命に体を持ち上げながら聞く。 安物のスーツと革靴は岩に可愛がられて最早ボロボロだ。 きっと、こんな洞窟を妖怪と一緒にスーツと革靴で進んだサラリーマンは、世界に自分ぐらいだろう。 「ここを抜ければすぐじゃ」 大きな岩の向こうが一際狭くなっている。 これを抜ければ。あと少し、あと少し――。 脳内で繰り返し唱えながら、機械的に足を動かす。 「もっと足を上げんと、登りきれんぞ!」 「~~~っ!」 軽々と厳しい凹凸を飛び越えて進んで行く千徳。 妖怪が、仕事ばかりで全く運動をしてない人間の体力なんて知りもしないだろうが。 洞窟を進むのに全く適さない服装も相まって、明人の体は早くも疲れきっていた。 「もう足が、限界……」 膝を震わせながら、大きな岩を越える。 無理だ。 太腿が痛い。 膝がビリビリして、一ミリだって動かせない。 「あき。顔を上げてみろ」 大きな岩を越えてへたり込んでいた明人は、千徳の声に視線を上げる。 「え……! ひ……広い……」 明人は思わず呟いた。 狭い洞窟からは想像ができないぐらい視界がひらけ、目の前に大きな競技場ぐらいの空間が存在していた。 「あの火の所まで行くぞ」 「ん……?」 岩の大空間の奥。 よく見ると、小さく、遠くに篝火がある。 もしかして、あれか。 「あんな所まで歩くの……」 明人の疲れにまみれた声音に、千徳は眉根を寄せた。 「まだ赤子のような年で何を言うておるのじゃ! まだまだ疲れておる訳がなかろう」 「あ、赤子!?」 五百年生きると、年齢はどんぶり勘定になるのか。 しかも、あれだけ険しい洞窟を歩いて、疲れておる訳がなかろうなんてどういう事だ。 妖怪め。 羨ましいではないか。 体力のないこの身が悲しくなってくる。 「お、あの祠じゃ」 息も絶え絶え。どうにか辿り着けば、篝火の奥。岩のくぼみに合わせて大きな祠が建っていた。 古い、古い、木造の祠。 質素な佇まいは美しいが、強風が吹けば今にも壊れそうな経年具合だ。 こんな洞窟の奥深くで強風なんて吹かないだろうが。 「お行儀よくしておくのじゃぞ」 祠の前で千徳が止まる。 明人はそっと視線を伸ばして、鮮やかな幾色もの布が垂れ下がった祠の中を見た。 誰かがいる。 布の隙間に影が見えた所で、明人は目を伏せた。 「案山子神(かかしがみ)様、お久しぶりでございます」 かかし……神? マジかよ。 やっぱり! 思った通り神様なんじゃないか! 千徳の言葉に、明人は慌ててその場に正座をして頭を下げた。 何となく偉い人に会うのは分かっていたが、まさか本当に神様だなんて。 そんな、そんな、畏れ多い事を! 明人は恨みがましく千徳を見た。 神様に会うなら言っておけよっ。 心の準備とか色々あるだろう! 「さあ、名を名乗るのじゃ。その後は、わしに任せておけ」 言われなくても、全てお任せする他ない。 「は、はじめまして。宮下明人と申します」 うわ。 緊張で思いきり声が震えて裏返った。 固まる明人の横で、千徳が辻の魔の事や、非時香果を求めている事を説明していく。 「どうか、非時香果の在り処をお伺いしたいと――」 鮮やかな布達がふわりと揺れた。 ――滝霊王(たきれいおう)――。 声は聞こえない。その文字が頭を通り過ぎた。 聞いた事のない名だ。字から想像するに、どこかの王様か。 「なんと! 滝霊王でございますね。ありがとうございます」 千徳が深く礼をするのを見て、明人も一層深く頭を下げた。 再び布が揺れる。 視線を上げると、もう祠の中には何も見えなかった。 「よし! 何やら滝霊王が知っておるようじゃ! 良かった。滝霊王とは面識がある。無口だが、気はいい奴じゃ」 安心したように千徳が言う。 「その滝霊王さんって妖怪? どこかの王様?」 「妖怪というより滝の精霊じゃ。王ではないぞ」 魔物に妖怪に神に、次は精霊か。 この短い時間に、ファンタジーの主要登場キャラクターを制覇してしまいそうだ。 「その滝霊王さんが非時香果を持ってる、なんて簡単な話じゃないよね……」 「案山子神様は手がかりをくださったのじゃ。本人が持っておるやもしれんし、在り処を知っておるやもしれん。その辺は滝霊王と会わんと分からんな」 「なるほど」 明人は案山子神の祠に再び視線を移した。 「あの、気になったんだけど、案山子神様ってあの案山子?」 田んぼを見張っている人形。 たまに素晴らしく雑に作られた物があって、笑いや恐怖を誘う鳥獣避けの仕掛けだ。 「そうじゃ。案山子神様は田の神であらせられる。そして、万事に通ずる力を持っておられるのじゃ」 「万事に通ずるって千里眼みたいな?」 「そのようなものじゃな」 「何か……命がかかってるとはいえ、神様に自分の個人的な事を教えてもらうって、大丈夫かな……」 神を私用になんて、とんでもない事だ。 「気にする事はないぞ? わしとて聞く相手は選んでおる。神も気性は様々じゃ。妖怪や人の子など相手にせん神もいらっしゃるが、案山子神様は非常に寛容な方じゃ。全てが解決すれば、近所の田んぼにでも礼を叫んでおけばそれでいい」 「え? そんな軽い感じでいいの?」 近所の田んぼというか、近所には田んぼしかないぐらいだが。 「別に軽くはなかろう。深い感謝の意を込めて叫べばよい。そして米を美味しく食えば尚よろしい」 「……そういうものなんだ」 神様へお礼とは、賽銭に供物、祝詞に舞いに、それから何か色々――というイメージだったのだが。 「そういうものじゃな!」 千徳がひらりと身をひるがえした。 「よし。滝霊王の元へ急ぐか。おぬしは仕事が気になるのだろう?」 嫌な顔をした明人に、千徳は愉快そうに笑った。 「早く終わらせてしまおう。仕事に遅刻しては一大事じゃ!」 「笑えない冗談だね……」 足取り重く、明人は再び千徳の後ろに続いた。 「また洞窟を進むが、前よりは短い。頑張ってくれよ」 「……ゆっくり進んでくれたら嬉しい」 「軟弱じゃな~」 「どうせ僕は弱っちい人間ですよっ」 今度は、あからさまに気を遣われながら、洞窟を行く。 大きな窟を抜けて、来た時とは別の穴を進むようだ。 すでに足がだるい。 確か、足を痛めずに体力を温存して岩場を進むには、全身を効率よく使うといいとか何とか。かんとか。 どこかで聞きかじった知識を総動員しながら、二度目の洞窟探訪を進める。 一度目よりは足運びが少しは上手くなったかと思いきや、明らかに歩みが遅くなっていった。 滑るのだ。 来る時は乾いていた岩が、今度は水気を含んでいる。 濡れた窟内は革靴では困難を極める。 しかも、奥へ進めば進むほど水気は増え、気付けば岩の凹凸に水の流れができていた。 近くに水源でもあるのか。 「あき……」 千徳が明人を小さく呼ぶ。 「千徳さんっ! さすがにこれはひどくない!? こんなに水が流れてたら歩けないって」 なんて洞窟を選んでいるのだ。 明人が声を上げている間に、今度は周囲の岩壁から水がしみ出てきて、数瞬後には足首までが水浸しになった。 「あ……」 革靴が終わった。 いや、もう終わっていたけど。 これで完全終了だ。 「ねぇ千徳さんってば。これ、湧水? 川みたいになってきたよ」  こんな水量の中をズルズルの革靴で進めと言うのか。 「湧水ではないな……。あのな、あき。落ち着いて聞くのじゃぞ?」 足を完全に水に取られた千徳がゆっくりとした動作で明人を見上げる。 「な、何……?」 正直言うと、聞きたくない。 とてつもなく嫌な予感がする。 どんどん増していく水嵩。 明人達は全く動いてないのに。 異常だ。 さすがに、ここまで水の流れがある洞窟は千徳も選ばないだろう。 しかも、急激にものすごい水量になっている。 「あのな……まずい事に、わしらは水妖に囲まれておるようじゃ。すまん、気付くのが遅れてしもうた」 「……水曜?」 頭が深く考える事を放棄した。 「阿呆っ! 水妖! 水に属する妖怪達じゃ!」 「水の妖怪? が何で僕達を……?」 「この辺りで人の子は珍しいからな。多分、おぬしの血肉目当てじゃ」 「僕っ!?」 もう何が何だか意味が分からない。 辻の魔に続いて、今度は水妖に命を狙われているのか。 何故、こんなに次から次へと。 七日後なんてごちゃごちゃ言わずに、今日中に潔く人生を終わらせろという事か。 僕の寿命は今日かよっ! 嘆いている間もなく、水がどんどん増してくる。 冷たい。 服ごと冷水に浸かる気持ち悪さに明人は身を固くした。 「すごい勢いじゃ」 居場所のなくなった千徳が、明人の首回りに飛び乗った。 「……千徳さんが水妖をやっつけたりなんて――」 「数が多いな。こやつらを倒すほどの力は、わしにはない」 「…………」 またかよ! なんて上から目線で叫びそうになる。 「どうするかのぅ……」 「ゆっくり悩んでいる暇なんてないよっ」 悩んでいる千徳の尻尾を、明人は容赦なく掴んだ。 水はすでに腰まで到達している。 どうにか助かろうと背伸びをして岩の壁に背中を預けるが、その壁からも水が出てきて、明人は悲鳴を上げた。 己の体がなす術もなく水没していく。 「千徳さんっ!!」 「ま、待ってくれっ。ああ、頭が真っ白じゃ」 「また真っ白!? 待てないって!!」 「さっき、わしは待ってやったぞ!」 「それとこれとは話が別でしょぉ!?」 水が胸から鎖骨を濡らしていく。 「ええと、ええと、そうじゃの、何か……」 「せんとくさぁぁぁん!!!!!」 千徳はここを切り抜ける妙案が浮かばないようだ。 「もう限界だってっ! 千徳さんっ! 早くっ」 水が喉元まで上がって来た。 「は、はやく……」 「あきぃ!!」 無理だ。本当、無理。 呼吸ができなくなるまで、あと数秒だ。 唇に水が触れて。 溺れるっ――。 「こんな場所で喰われて死ぬとか、しょうもねぇな」 水でいっぱいになろうとしている洞窟内に、からかい混じりの若い男の声がする。 こんな緊迫した状況には似つかわしくない、のんびりした声音だ。 「その声、魃鬼(ばっき)か! ちょうど良かったっ。水妖を追い払ってくれ!」 声を明るくした千徳が明人の肩で飛び跳ねた。 それが合図のように、洞窟内の気温が急激に上がり、顎にまできていた水が一挙に引いていく。 声の主の力か。 呆然として、逃げていく水を見送っていると、いくつもの濁った悲鳴が岩壁の奥から聞こえた。 「おお! 水妖達が逃げていったぞ!」 水が満ちていたのが嘘のように洞窟内が完全に乾ききった。 「服まで……!」 びしょびしょに濡れていた体、スーツや靴の水気まで消え、明人は目を(みは)った。 ただ、一度水浸しになったスーツはゴワゴワ、革靴はガバガバだが。 「大貉の(じい)が、こんなとこで人間つれて何してんだよ」 「わっ」 何の前触れもなく、目の前に少年が現れた。 「おぬしのおかげで命拾いしたぞ、魃鬼! 助かった、助かった!! いやぁ、色々あって、滝霊王の所に向かう途中でのぅ。ひどい目に遭うたわ」 千徳が明人の肩から飛び降りて、嬉しそうに少年を見上げる。 命を救ってくれた声の主。 魃鬼という名らしい。確実に妖怪であろう。 背丈は明人よりわずかに低いぐらいか。 綺麗な黒緋色の髪に、いたずらっぽく輝くアーモンド型の瞳は琥珀色。 意思の強そうな凛々しい眉に、嫌味なく通った鼻筋。 ここまでなら、男らしい顔つきになりそうだが、珊瑚色のこぶりな唇がそれを裏切り、どこか可愛らしい。 そんな容姿の十七、八ぐらいの少年が、黒橡(くろつるばみ)色の簡素な水干を着て、明人をじっと見つめてくる。 一見して、いかにもやんちゃ盛りというような男の子だが、実際年齢は絶対に十代ではないだろう。 「ちょっと油断しすぎじゃね? こんな美味しそうな可愛い子ちゃん連れてさ。喰ってくれって大声で呼んでるようなもんじゃん」 「わ、わしだって多少の構えはあったのじゃ! まさか、こんな所に水妖が来るとは……」 「……確かに。この辺で水妖なんて初めて見たな。しかも、あんな大量に」 「そうじゃ! 完全に予想外じゃ! 死んでしもうても仕方なかろう!」 「仕方ないって……千徳さん、もしかして諦めてたの!?」 頭が真っ白なんて騒いでいる時に、もう死ぬ気でいたのか。 「いやっ、その、違うぞ? わしは最期の瞬間まで諦めるつもりはなかった!」 「最期って言ってる時点で諦めてんじゃん」 「う……魃鬼は黙っておれ!!」 千徳は豊かな尻尾で魃鬼の脛をモフっと叩いた。 「そうじゃ! 紹介がまだであったな!」 五百歳の茶色のモフモフは強引に話を変えると、明人と魃鬼の間にふわりと浮いた。 「こやつは魃鬼(ばっき)という、人の世に旱魃(かんばつ)をもたらす妖怪でな。害虫のようなもので普段は迷惑極まりないが、今回は助かった。水気を払うからの!」 「害虫って何だよ! 本当この爺は。で、お前はあきっていうのか?」 好奇心丸出しの視線を受けて、明人は頷いた。 「宮下明人といいます」 「それで、あきね」 琥珀の瞳がゆっくりと細められる。 少しも逸らされない視線に少しばかり居心地が悪くなって、明人はまばたきで誤魔化して視線を逸らした。 「先程は助けてもらって、ありがとうございます」 「気持ちわりぃ。普通に話せ」 魃鬼が、苦虫を噛み潰したような顔で言う。 「……(じい)。あきは滝霊王への贄なのか?」 無邪気な琥珀色の瞳を、千徳は瞠目しながら見返した。 「はぁっ!? そんな訳なかろう!! 滝霊王が人の子など欲すものか!」 「だってさぁ、爺があきみたいな美人つれてるなんて、それこそ死んでもありえねぇ事じゃん。だから贄だと納得がいくなと」 「馬鹿にしおって! わしだって本気を出せば老若男女、誰であろうと虜にできるわ!」 妖怪としての本気を出さずとも、千徳のモフモフっとした可愛い体は、誰もが虜になるだろうなと明人は思った。 「じゃあ、美人を化かしてつれまわす趣味でもあんの?」 「違ぁうっ! そんな悪趣味は持っておらんわ!」 千徳と魃鬼がぎゃいぎゃいと言い合っている。 いや、騒いでいるのは千徳だけか。 明人は一切会話に入ってないが、自分が美人という設定で話が進んでいるのが解せなかった。 くたびれたサラリーマンを前に何が美人だ。 十代半ばぐらいまでは、柔和な面立ちの女顔の為か、女の子に間違われたりしていた。 だから、小、中学生ぐらいの時には、どうしても甘い印象を持たれてしまう己の目鼻立ちが嫌いだった覚えがある。 よく羨ましがられていた二重の目に、細い鼻梁や色味が淡い唇。 男らしい容姿の友人と、それらを交換したいと本気で思っていたぐらいだ。 当時は鏡を見る度に気持ちがくすぶっていた。 しかし、それも昔の事だ。 順調に成長期を迎えて、無事に微妙な青年期を過ごしまして。 今は安物のスーツに身を包んだ、立派な無趣味童貞のよれよれ平凡以下のサラリーマンである。 「わしを勝手に変態にするなぁ!」 千徳が一際大きく声を上げた。 「わしらは非時香果を求めて滝霊王の元へ向かっておる。くだらん言い合いをしておる場合ではないのじゃ!」 明人に行くぞと声をかけて、千徳が水の消えた洞窟を再び進んでいく。 「待ってよ、千徳さんっ」 あ。もう足が最高に辛い。 わずかに歩いただけだが、明人はぐっと奥歯を噛みしめた。 ゆっくりと進んでくれているのは分かっている。 だが、水妖からの水攻めで、それでなくとも少なかった体力が根こそぎ奪われた明人にとっては、一歩が素晴らしく苦痛だった。 千徳が今までの経緯を魃鬼に語っているが、耳に入れて会話を理解するほどの余裕がない。 段々と窟内の凹凸が激しくなり、荒々しく隆起する岩に何度も手足を強打した。 もし明日があるのならば、絶対に痣だらけだ。 「いくら何も思い浮かばねぇからってさぁ。非時香果って馬鹿だろ……。見た事ある奴なんていんの?」 「確かに、ほとんど噂も聞かん伝説の果実じゃ。しかし、相手はやっかいな辻の魔じゃぞ? 非時香果ぐらいのものを条件に出さねば、あきは喰われておったわ」 「それでも非時香果は頭おかしいって。かぐや姫も驚きの難易度じゃん。まぁ、今更、何言っても遅いけどさ」 魃鬼は呆れ顔から一転、楽しいイタズラを思いついたような顔をした。 「なぁ、オレもついて行っていい? 何か、すげぇ面白そうだし」 「面白そうとは何じゃ。決して遊びではないのじゃぞ? あきの命がかかっておる」 「分かってるって! 何か起こったら、ちゃんと守ってやるからさ」 千徳が疑わしそうに魃鬼を見上げた。 「構わんが、おぬしは本当に気まぐれだからのぅ。ちと心配じゃ。そういえば、何故こんな辺鄙な所におったのじゃ?」 「すげぇでかい雨気を感じてさ。人の世に覗きに行こうとして、近道してた」 「ああ。ちょうど、あきの住んでおる辺りで不気味な長雨が続いておったな」  「それそれ。おかしいんだよな。よく分かんねぇけど、ただの雨じゃねぇ」 「うむ。わしは魃鬼ほど雨気に敏感ではないが、確かに異常に濃い雨の気配であったな……」 ふと考え込む千徳。 「ご、ごめっ……ちょっと、待って……」 千徳達の少し後ろを歩いていた明人は、とうとう泣きそうになりながら声を漏らした。 足が痛い。体が苦しい。 少しでもいいから休みたい。どこでもいいから寝転がりたい。 自分の命の為に動いてもらっているのだ。 あまりにも要望や文句が多いのは如何なものかと思っていたが、明人の足はもう言う事を聞いてくれそうになかった。 「はっ!? 何でこんなに疲れてんだよ」 魃鬼は振り返って、明人が岩に倒れ込んでいるのを見て驚いた。 「あきは随分と体力がないようでのぅ。ゆっくりと進んでおったつもりだが、へばってしまったようじゃ」 だから、妖怪基準で考えてくれるな。 こんな前人未到感溢れる洞窟、体力たっぷりのスポーツ選手だって苦戦するに決まっている。 それを妖怪達は息一つ乱さず易々と。 これが実力の差というやつか。 微塵も疲労感なんてない一人と一匹を前に、明人はもう一度謝罪した。 足手まといなのは情けないが、もう限界だ。 「仕方ねぇなぁ。ほら、背中に乗れ」 魃鬼は明人の前に屈みこむと、背中を向けた。 「え、でも……」 躊躇(ためら)う明人に、魃鬼が語気を強くした。 「この状況で遠慮なんかすんじゃねぇよっ。早く乗れ!」 手を引かれて、ぶつかるように背中に乗る。 存外にしっかりとした背に背負われ、明人が自力で進んでいた時とは比べものにならない速さで窟内を攻めていく。 「ありがとう、魃鬼さん」 「呼び捨てでいい。とりあえず、お前はもっと飯食って体力つけろ。体重も軽すぎる」 「……が、頑張りマス」 魃鬼の背で、明人は申し訳なさそうに答えた。 生きて帰ったら、通勤はスロージョギングにしよう。 明人は心に誓った。 「オレ、滝霊王に会うの初めてなんだけど、一見には厳しい感じ?」 「いや。社交的な性質ではないが、相手は選ばん」 「よし。なら、オレがいきなり行っても平気だな」 千徳は滝の精霊で王ではないと言っていたが、王とつく以上、やはり高貴な存在なのであろう。 滝霊王(たきれいおう)。 名前からすると、厳ついイメージだが。 「お、そろそろ聞こえてくるはずじゃ」 千徳がせり出した岩をひょいと飛び越えながら言った。 「聞こえるって……?」 「瀑声(ばくせい)ってやつ。あ、聞こえてきた」 瀑声とは滝の音か。 耳を澄ませると、かすかに、ほんのかすかに落水の音がした。 「この滝に滝霊王が?」 「そうじゃ。滝霊王の棲家への入口と言えばいいか……」 瀑声が少しずつ大きくなるのに合わせ、洞窟内の様子が変わっていく。 狭く険しく。ついには傾斜まで激しくなってきて、もはや岩山を登っているようだ。 千徳は、ここを明人に進ませようとしていたのか。もはや体力以前の問題である。 無茶苦茶だ。 唖然としている明人の体を、魃鬼がからかうように揺らした。 「背負われてて良かったじゃん。さすがに、これはあきが体力百倍でも無理だよな」 「……おっしゃる通りで! こんなの、装備のない人間には不可能だよ」 「あー。オレらさ、人間がどこまで出来るかとか、その辺の感覚が曖昧だからさ。もっと人の世に溶け込んでる妖怪なら別なんだろうけど」 千徳と魃鬼は、人の世から距離を置いているという事か。 「二人共、普段はどこにいるの?」 「幽冥界かな。人の世にいても山奥とか。爺はオレよりも人の世と縁があるくせに、人間の事まったく分かってねぇんだよな。耄碌(もうろく)してんだよ。糞爺だから」 「聞こえておるぞ! 耄碌などしておらん! そもそも、大貉のわしが何故、人の(ことわり)を学ばねばならんのじゃ」 「はいはい。大貉様、大貉様」 「ほんっに腹立たしいな、おぬしはっ!」 尻尾を逆立てて、千徳が今にも魃鬼に飛びつかんばかりだ。 「お、落ち着いてよ。千徳さんの言う通り、大貉様が人間の事なんて知る必要ないと思うよ。今回は僕の体力が異常になかっただけだしね」 「うわ、人間に慰められっ、んぐっ!?」 「魃鬼はもう黙って」 明人は後ろから魃鬼の口を両手で覆った。 どうも、この二人は小競り合いが多い。 主に魃鬼の軽口のせいだが。 「滝の音。かなり大きくなってきたけど、そろそろ洞窟の出口かな?」 「すぐに出るが、あきが想像しておるような出口はないぞ」 「え? 出口がないってどういう……えっ! 魃鬼!?」 部屋の電気が突然消えたような。うっすらと見えていた洞窟内が闇一色になった。 「幽冥界に入った時と同じじゃ」 暗闇から千徳の声がする。 そういえば、幽冥界に来た時も暗くなっていた。ような。 何だか色々あり過ぎて、もはや遠い過去に感じる。 とにかく、ここは界の狭間という事か。 「すぐに明るくなる」 暗闇の中、体を支える魃鬼の腕の力が増して、心配するなとばかりにぎゅっと明人を引き寄せた。 優しい。 口が悪くて気ままなヤンチャ妖怪なのかと思いきや。 進んで明人を背負ってくれ、その上、恐怖を和らげようとさえしてくれている。 そのギャップに好感度が急上昇してしまうではないか。 小さく礼を言うと、吐息のような笑いの後、軽く体を揺すられた。 何だ、その余裕のあるリアクションは。 真のイケメンかよ。 中も外も整っていらっしゃる! なんて。 明人が心の中で騒いでいる間に、千徳と魃鬼は岩の怪物と化した闇色の洞窟の中をどんどん加速していく。 瀑声は大きさを増して、本来ならば視界に滝が現れていてもいいぐらいになった。 「よしよし、着いたな」 安堵に満ちた千徳の声の後に、前方から強い風が吹いてきた。 驚く事に、風が闇を吹き飛ばしている。 「嫌いな洞窟と、やっと別れられるな。あき」 魃鬼がからかってくるが、それに返事をしている余裕がない。 見た事もない前衛的な光景に、明人は開いた口が塞がらなかった。 風で闇が剥がれ飛び、後方へと追いやられ、遠くなっては消えていく。 黒い壁が剥かれて、周囲に現れたのは美しい森林だった。 どこまでも続く神秘的な緑。緑。緑。 青々とした木々は空を隠しているが、周りはとても明るい。 空気は凛と澄んでいて、しっとりと明人の身を包む。 立っているだけで心地の良い場所だ。 いつまでも深呼吸をしていたくなるような。 「魃鬼。もう歩けるからいいよ。ありがとう。本当に助かったよ」 瀑声は目前の繁みの奥から猛々しく響いている。 険しい洞窟から抜けたのだ。これ以上背負われてるのは、気恥ずかしい。 「平気か? 洞窟ん中じゃ瀕死だったじゃん」 「しばらく背中で休ませてもらったから大丈夫だよ」 本当は大丈夫ではないけれど。 「辛かったらすぐに言えよ」 優しく気遣われながら、静かに背中から下ろされた。 足を中心に体が怠いが、洞窟で進めなくなったほどではない。 一度水浸しになった革靴は歩きづらいが、柔らかな草の上ならば何でもない。 まるでその辺から小さな妖精でも現れそうな鮮やかな緑の間を行く。 「久しぶりじゃ」 太く涼やかな瀑声が空気を揺らしている。 「滝霊王さんとはあまり会わないの?」 「あやつは色々と出歩くような性質ではなくての。わしも棲家にわざわざ会いに行く事はせんからな。もう五十年は顔を見ておらん」 「へぇ、五十年……」 ちょうど明人の歳の二倍。 人間なら感動の再会レベルだ。 やはり、妖怪との感覚の違いはすごい。 感心しながら繁みを抜ければ、とうとう目の前に滝が現れた。 「すごい迫力……」 落差が二十メートルぐらいはあるだろうか。 清らかな激流が深蒼の滝つぼに叩き付けられている。 強大な岩に守られ、鮮やかな緑の中にある滝は大層美しくて。 水気をたっぷりと含んだ涼しい風が、明人の頬をくすぐる。 雄々しくも耳触りのよい瀑声。 もう何も考えずに、この滝を眺めながら横になりたい。 疲れた明人の体は、その心の声に従いそうになってしまった。 「こっちじゃ」 千徳が一跳ねして、滝つぼの(ふち)の岩に立った。 「この奥に滝霊王の棲家がある」 「この、奥……?」 奥と言われても、正面には滝しかない。 眼下には蒼い滝つぼ。 どういう事かと思った瞬間、千徳が滝へと飛び込んだ。 「千徳さんっ!?」 茶色い体が落水の中に消えた。 滝つぼに落下した様子もなく、気配が完全になくなった。 「滝が滝霊王ん所と繋がってんだ。ほら、先に行けよ」 魃鬼に背を押されて、思わず体を強張らせた。 滝に飛び込むのは勇気がいる。 滝霊王の棲家に繋がっていると分かっていてもだ。 「ち、ちょっと待って」 「何だよ」 「……心の準備が」 「はぁ? 準備もクソもねぇだろ! 早く行けって!」 背を強く押されて、体が大きくかたむいた。 「わぁぁぁぁっ」 「ほんっと怖がりだな」 「怖がらない方がおかしいってぇぇぇぇ!」 そのままバランスを崩すようにして、明人は滝に身を投じた。
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