其の三

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其の三

ぎゅっと目を閉じて、歯を食いしばる。 滝に打たれる覚悟をしたが、落水が襲ってくる事はなかった。 「着いたぞ」 後ろから魃鬼の声がする。 恐る恐る目を開けると、明人の前に広がったのは素晴らしく綺麗な庭だった。 「え……」 存在感のある苔むした庭石。 足元の小川の先にある池には彩り様々な錦鯉。 風にそよぐ紅葉や優美な松。 全てが穏やかに鮮やかに佇んでいた。 派手さも広さもないが、こんなに全てが目に優しく美しい庭は、二度と見る事は出来ないだろうと思える。 そんな庭の隅に、明人は立っていた。 「ここが滝霊王の棲家じゃ。立派な屋敷であろう?」 点々と続く敷石の一つに座って、千徳が言う。 明人は千徳の視線を追って右手を仰ぎ見た。 庭に気を取られて気付いてなかったが。 この美しい庭にぴったりの重厚な日本家屋が建っていた。 木目さえ計算されているだろう、今にも木の香りがしてきそうな艶やかな柱。 磨き上げられて光る縁側。 装飾の細やかな障子は全て閉められ、中は分からなかった。 「留守かな?」 「いや、おるはずじゃ」 千徳が敷石からひょいと縁側に飛び移った。 「滝霊王っ。わしじゃ。大貉の千徳じゃ。尋ねたい事がある。開けてくれ!」 庭に千徳の声が響くが、屋敷の中からは物音一つせずに静まり返っている。 「(じい)、無視されてんじゃん」 「そ、そんな事はありえんっ!」 千徳が言葉を続けようすると、目の前の障子が一息に全て開いた。 あまりの勢いに明人は思わず後ずさる。 視界いっぱいに畳を張り替えたばかりのような清々しい和室が広がった。 「よう、お徳ちゃん。久しぶりだな」 よく通る、低い声。 しっとりとした大人の男の声だ。 和室の奥から、錆鼠(さびねず)色の着物をゆるく着流した長身の男が出てきた。 年の頃は三十ぐらいか。もちろん、実年齢とは全くかけ離れているだろう。 少しクセのある濡羽色の髪。しっかりと弧を描く眉。男らしく高い鼻梁。 色香ただよう奥二重の紺碧の目は、理知的にも野性的にも感じる強い光を宿している。 形良い薄い唇はわずかに緩く、これでもかというほどの男の色気を感じさせた。 雄々しさと美しさを完璧に兼ね備えている。 凄まじいイケメンだ。 いや、イケメンなんて薄っぺらい言葉は似合わない。 失礼にすら感じる。 端整で精悍で、こんな格好いい男性がいるなんて。 魃鬼といい、妖怪は皆、容姿が整い過ぎているのだろうか。 明人が極上の男に視線を奪われていると、千徳が砂を噛んだような顔をした。 「た、峻生(たかお)っ。何故ここにおるのじゃ!?」 「何だよ、その顔は。不細工自慢か?」 「ぶ、不細工じゃと? 久々だというのに、相変わらず失礼な奴じゃ!」 この人は峻生(たかお)というのか。 怒る千徳をひとしきりからかうと、峻生の視線が明人に移った。 ど、どうしよう。 紺碧の瞳が明人を見つめてくる。 明人は、ぐしゃぐしゃのスーツ姿に羞恥が湧いた。 「お徳が人間を連れてるなんて珍しいな。大方、とんでもない厄介事でも作ったんだろ。お前の悪い癖だ」 男が口角をわずかに上げて笑む。 余裕溢れる表情に、峻生の懐の深さを感じた。 甲斐性も存分にあるに違いない。初見で感じてしまえるほどのいい男ぶりだ。 「う……悔しいが、その通りじゃ。探し物をしておっての。手がかりが滝霊王の元にあると聞いて来たのじゃ」 「探し物ねぇ……」 峻生の視線が再び明人を捕らえる。 視線が交わるだけで胸がざわざわして、思いきり目を逸らしてしまった。 失礼な態度だと思うが、峻生が格好良すぎるのが悪いのだ。 名を聞かれ、しどろもどろで答えると、千徳がぴょんと飛び跳ねた。 「わしらはあきと呼んでおる!」 「じゃあ、俺もあきって呼ぼうかな」 そう言って微笑んだ峻生の顔に、千徳が張り付いた。 「……お徳、何のつもりだ」 「だめ、だめじゃ! これ以上、あきに近づくなっ」 「失礼だな。人を猛獣みたいに」 「猛獣? 峻生に比べたら、その辺の猛獣など子猫のようなものじゃ」 「ひどい言いようだな」 峻生が顔から千徳を引きはがして、冗談めかして眉を寄せた。 二人の会話からして、峻生が滝霊王ではないようだ。 滝霊王は別にいるのか。 「あんた、(ぬえ)だよな? やっぱ滝霊王ぐらいの大物のとこには大妖がいるんだな。オレ、魃鬼ね。よろしく」 明人の疑問を解決するタイミングで、後ろから魃鬼の楽し気な声がした。 峻生も首肯しながら、笑顔で返事をしている。 という事は。 峻生はぬえ、ぬえ、鵺。 鵺――? そうだ。 中学生の頃に友達から借りた妖怪辞典で見た覚えがある。 ええと、ええと――。 記憶をかき寄せてみたが、無理だった。 鵺という妖怪がいたという事しか思い出せない。 そもそも、十年ぐらい前にさらっとしか読んでいないのだ。 こんな事ならば、せめて自分で妖怪辞典を買うぐらいして、きちんと読んでおくべきだった。 十年後の後悔なんて今更すぎるけど。 とにかく、魃鬼の発言からして、峻生と呼ばれる鵺と滝霊王は、強い力を持っている大物のようだ。 「滝霊王。上がらせてもらうぞ!」 千徳が屋敷の奥に声をかける。 魃鬼に襖を開けさせて、勝手知ったるとばかりに奥へとずんずん進んで行った。 早くついて行かないと。そう思うのに、疲れきった体が思うように動かない。 重く感じる体を懸命に動かして靴を脱いでいると、峻生が手を差し伸べてきた。 「今にも倒れそうだな。大丈夫か?」 「え、と……」 戸惑っていると、手をとられて縁側へと体を引き上げられた。 大きな峻生の手が、ほんのりと温かくて心地よい。 触れている掌からふわりと心地良さが広がって、体が少し軽くなったような気がした。 どうしてだろう。 驚いて峻生を見ると、静かに微笑まれた。 紺碧の美しい目が優しく細められる。 「あ、ありがとうございます……」 「礼はこっちだ。可愛い子と手が繋げるからな」 峻生はそう言って、明人の手をぎゅっと強く握った。 なんて軽やかな手腕だ。明人は感心した。 冗談だと分かっていても、男相手に胸がドキドキと高鳴ってしまう。 可愛い子供や綺麗な女性ならいいだろうが、こんなくたびれて汚れたサラリーマンの手なんか引いて迷惑でしかないだろう。 すぐに手を離さないと。 そう思うのに言いだせない。言いたくない。 峻生の手から不思議な心地よさが全身を巡り、心が蕩けるように落ち着いていくのだ。 疲れが小さくなって、体から消えているような。 明人は、半ば無意識に手を強く握り返してしまっていた。 「久しぶりじゃな! 滝霊王。元気そうで何よりじゃ」 千徳の声が躍るように跳ねた。 明人達は静謐(せいひつ)な美しさが漂う和室に導かれていた。 立派な床の間には水墨の荒々しい滝の掛け軸。 細工の優美な襖に、龍の透かし彫りが入っている欄間(らんま)。 そんな上質な座敷の中央に、すっと背筋の伸びた袴姿の男が座っていた。 この人が滝霊王か。 峻生と飲んでいたのだろう。男の前に、酒とつまみが盆に乗って置かれていた。 「あ! 峻生っ! 言ったそばから手など繋いでっ!」 明人と峻生の絡む手を見て、千徳が語気を強めた。 「あのな、お徳。あきは妖気に当てられて、体力がほとんどない状態だ。手でも繋いで俺の気を流してやらないと、すぐにぶっ倒れるぞ」 千徳と魃鬼が驚いた顔をした。 明人も同じような顔をして、峻生を見た。 こんなに心地よくて疲れが取れていくのは、峻生が気を流してくれていたからだったのか。 「慣れてない人間にとって、妖気は毒だ。幽冥界を少し歩くだけで、下手をすると死ぬ事もある。お前の事だ。あきが妖怪に襲われていた所を助けたか何かして、連れまわしてんだろうが。中途半端なお節介は感心しないな」 (さと)すような峻生の声音に、千徳が悲しげに尻尾を丸めた。 「す、すまん……わしのせいで……」 「悪ぃな。オレも気付いてなかったわ。そういや、人間って妖気に当てられる事もあんだったな」 「そんな、謝らないで……二人のおかげで僕の命は救われたんだから」 二人は人間の理に詳しくないと言っていた。 知らなくて当然だ。何も悪くない。 「そもそも、僕の体力がなさ過ぎたんだ。すごい疲れを感じてからは、魃鬼が背負ってくれたし。助けてもらったのに迷惑ばかりかけて。謝るのは僕の方だよ」 「あきぃ! おぬしは本当に良い子じゃのぅ!!」 「……話の途中で悪いけど、何の用?」 感激に茶色い体を震わせる千徳の横から、澄んだ低い声がすっと響いた。 流れるようでいて、決して弱くはない。それこそ、美しい滝みたいな声だ。 「おお、そうじゃ! 礼を欠いておったの。あき、魃鬼。この男が滝霊王じゃ」 先に挨拶した魃鬼にならって、明人も名を告げて、滝霊王に頭を下げた。 魃鬼と峻生に続き、滝霊王の容姿も非常に際立っていた。 綺麗な飴色の髪に、翡翠色に煌めく切れ長の目。 繊細に整った鼻先から口元は優しげな雰囲気で、気品さえ感じる。 藍色の袴が凛々しい容姿によく似合う、涼しげな美男子だ。 見た目の年齢は明人と同じ歳ぐらいか。 予想外だ。 滝霊王なんて名前から、もっと年嵩のある王様然とした容姿を想像していた。 「それで?」 皆で車座になると滝霊王が簡素に問う。それに応えるように千徳が通算三度目の説明を始めた。 改めて聞いていると、色んな妖怪を巻き込んでどんどん話が大きくなっている。 妖怪なんて普通に暮らしていれば一切縁のないものだというのに。 辻の魔や水妖に襲われて、パニックに陥っている間に千徳や魃鬼に助けられて。 鵺や滝霊王は相当力の強い大物のようだし、案山子神といい、ただの人間である明人が手を煩わせていい存在ではない事は確かだ。 明人の心に申し訳なさが募っていく。 しかし、協力を辞退して一人で行動した所で、七日後に命を落とすだけだ。 「……命を助けたかったのは分かるけど、そこで非時香果を出すのは無茶じゃない?」 魃鬼と同じような滝霊王の言葉に、千徳が身を縮こまらせた。 先程から千徳が自分のせいで責められてばかりなのが辛い。 「わ、分かっておる。しかし、腐っても元神じゃ。力では勝てんし、あきは喰われる寸前でな――」 「非時香果か……」 峻生が何とも複雑な表情をした。 妖怪の中でも大物であろう鵺でさえ、この表情だ。 本当に無謀なのだろう。 魃鬼の言う通り、難題を出す事で有名なかぐや姫でさえも驚くぐらいに。 「案山子神様にお尋ねしたら、滝霊王の名前をおっしゃったのじゃ。持っておらんでも、何か知っておろう?」 「何も知らないけど」 滝霊王が即答した。 「え……?」 千徳と明人が揃って言葉を失くした。 明人にとって、滝霊王だけが非時香果を探しだす為の手がかりだと言っていい。 案山子神は確実に滝霊王と教えてくれた。 「見た事もないし、噂を直接聞いた事もない」 「そんな……」 重ねられる滝霊王の言葉に、目の前が暗くなる。 「……何も知らぬはずはないっ! 絶対におぬしが非時香果へと繋がる何かを持っておる!」 千徳が尻尾の毛を逆立てた。 「そう言われてもね……本当に、非時香果は名を知っているだけだ」 「んー。案山子神が嘘とかねぇよなぁ。どういう事なんだ?」 魃鬼がのんびりと言う。 「……これから、どうすれば……」 明人は心に冷たい不安が広がっていくのを感じた。 案山子神の言葉に嘘はない。 でも、目の前の滝霊王は何も知らないという。 何かしらの手がかりは持っているのだとしても、非時香果に直接つながるものではないのかもしれない。 ならば、非時香果について聞いた所で無意味だ。 どうすればいい。 やはり、非時香果の在り処を知っている者を探した方がいいのか。 しかし、今から探し出す時間はあるのか。そもそも、非時香果はこの世に存在しているのか。 もし、間に合わなかったら。もし、この世になかったら――。 「明人」 峻生はしっかりと名を呼ぶと、隣に座る青年の顎に触れて己の方に顔を向けさせた。 不安に揺れる明人の綺麗な鳶色の瞳。 眉宇に浮かぶ悲壮感さえ、その美しさを際立たせている。 見つめ合うほどに惹きこまれていくのを感じて、峻生は心が沸き立つのを感じた。 「峻生さん……」 「……難しいだろうが、不安になるのはやめろ。あきには辻の魔の呪がかかってるから、不安や恐怖に心を持っていかれると、魔物に喰われやすくなる」 峻生の深く澄んだ紺碧の瞳と、明人は声もなく見つめ合う。 強さと優しさが溶け込んだ男らしい綺麗な瞳。 こんな美しい目を今まで見た事がなかった。 「心配するな。もし見つからなくても、俺が何とかする。案山子神が滝王に導いたのは俺と会う為だ。そう考えておけばいい」 峻生が力強く断言した。 何の躊躇(ためら)いもない大妖の言葉に、心に広がった不安の中にじわりと希望が生まれる。 「さっすが、鵺様」 「ううむ。峻生ならば、辻の魔相手に何とかなるやもしれんが……しかしのぅ」 「とりあえず皆で手分けして非時香果を探して、峻生は本当にどうにもならない時の最終手段として考えておけばいいんじゃない?」 「おお! 滝霊王も手伝ってくれるのか!」 「この状況で無視するほど冷たくないよ。何故か案山子神には指名されてるみたいだし」 滝霊王が涼しげな顔に微笑みを浮かべた。 皆、何て優しいのだ。 明人は目頭が熱くなった。 全く面識のないただの人間に、こんなに協力してくれるなんて。 「ありがとうございます。見ず知らずの僕の為に、皆さんが力を貸して下さって……本当に嬉しくて、有難くて――」 明人は深々と頭を下げた。 「何だよ。急に(かしこ)まって。気持ち悪ぃ事はやめろよ。別に、嫌々付き合ってんじゃねぇんだしさ」 「そうじゃ、そうじゃ。わしらはやりたくない事には、とことん無関心じゃ。おぬしと違って仕事に忙殺されておるわけでもないしのぅ」 「いや、忙殺ってほどじゃ――」 「何を言うておるっ。辻の魔に喰われようかという時に仕事の心配をしておったくせに」 「うわ、マジで? すげぇ仕事脳じゃん」 「……そんなに仕事って楽しいの?」 「え……」 純粋無垢な滝霊王の疑問に、ぐさりと心を刺される。 「いえ、別に楽しくはないです……けど、生きていく為には仕事は必要なので……」 大変だけど生き甲斐だ、辛いけど楽しくもある。 なんて、格好良く答えられないのが少し悲しかった。 「滝王。そういう無邪気な質問はやめろよな~」 峻生は軽く明人の体を抱き寄せた。 「あきだって、そんな落ち込む事ないだろ? 仕事との距離感なんて人それぞれだ。これから仕事以外にも何だって出来るんだ。辻の魔を片付けたら、俺がどこでも好きな所に連れてってやるよ。人間が行けないような場所でも良い所がいっぱいあるしな。ゆっくり温泉ってのも――」 「たーかーおー! おぬしは慰めるふりをして、すぐそうやってっ。あきをどこかに連れて行くのなら、わしも一緒じゃ!」 「……お徳ちゃん、正気か?」 峻生が心底嫌そうな顔をした。 「何じゃ、その顔は。あ、不細工自慢か?」 「お前っ……」 千徳が一本取ったとばかりに笑みを浮かべた。 その得意げな表情に、明人もつられて笑う。 ん――? 声を出して笑ったのに、何故だかほとんど聞こえない。 おかしいな。 不思議に思っていると、自分の行きたい所を話し始めた千徳の声と姿が遠く霞んでいく。 目を擦ってみたが、霞はひどくなる一方だった。 次第に眩暈もしはじめて、これは先程の異様な疲労感の続きだと悟った。 峻生と手を繋いでから、体の重さや不調がどんどん消えていたのに。 ぐらぐらと頭の中が回る。 「峻生さ……すみませ……」 自力で座っている事ができずに、明人は峻生に体を預けた。 「あきっ!? どうしたんじゃ!? 顔が真っ青じゃ!」 顔色を悪くして峻生にもたれかかる明人に驚いて、千徳はスラックスの膝に前足を乗せて声をかける。 「限界がきたみたいだ。俺が気を流してたが、体力をほぼ使い果たしていたからな。さすが体が悲鳴を上げたようだ」 「……大丈夫なのか?」 魃鬼が心配そうに明人の顔を見つめる。 「少し寝ればいい。起きたら体調も良くなってるだろ」 すぐ傍から聞こえる峻生の声を、明人はどうにか聞き取った。 「でも……時間が、ぼく……寝たくない……」 乱高下する意識を必死に繋げて、明人は峻生の言葉に反応した。 あと七日もないのだ。皆に協力をしてもらっているのに、明人自身が悠長に寝ているなんて。 そんな事はしたくない。 どんどん遠くなっていく意識に抗っている明人の頬を、峻生は優しく撫でた。 「一番大事なのは体調を戻す事だ。非時香果を探すのにも、こんな弱った体じゃ何もできない。いいから、何も考えずに寝ておけ」 「そうじゃぞっ。元気になって一緒に探せばよいのじゃ!」 茶色い毛がふわふわと手を包む。心地良さを感じて明人は四肢の力を抜いた。 「みんな、ごめんなさ……」 「謝んなって。オレらに気ぃ遣ってどうすんだよ。心配しねぇで寝とけよ」 「ん……」 皆の優しい言葉に、意識が零れ落ちていく。 わずかに笑みを浮かべて礼を言うと、明人は深い眠りの底に吸い込まれていった。 「一瞬でぐっすりじゃなぁ」 千徳が感心したように呟いた。 「もう少しで昏倒しそうだったからな」 「うぅ……反省しておる」 峻生は千徳を一撫ですると、眠りについた明人を持ち上げて完全に自分の胸の中に抱えた。 「で、どうすんの?」 気持ちよさそうに峻生の胸の中で眠る明人を見ながら、魃鬼が言う。 「単純に各々が片っ端から聞いて回るかのぅ。しかしなぁ……案山子神様の御言葉はどんな時でも絶対じゃ。本当におぬしは何も知らんのか?」 千徳が疑わしげな視線を滝霊王に向けた。 「本当に知らないって」 困惑を顔に浮かべる滝霊王を横目に、峻生が気まずそうに明人を抱えなおした。 「あー。多分、案山子神が滝王の名を出したのは、俺のせいだ」 「おぬしのせい? どういう事じゃ?」 「……怒るなよ?」 二人と一匹の胸に、嫌な予感がこれでもかと湧いて出た。 「早く言えよ。確実に怒るから」 トゲのように鋭くなる皆の視線。 己の癒しは明人だけだとばかりに、胸の中で眠る青年を抱き締めながら鵺は口を開いた。 「実は……俺、非時香果を食ってんだよ。九百年ぐらい前に」 「何じゃとぉ!?!?」 明人の命を絶望視させる事実に、千徳は冷水の中に飛び込んだような心地がした。 「何故、早く言わんのじゃ!」 「あきの耳に入ると不安に取り憑かれて魔物に喰われやすくなるだろうが」 「何で大妖の鵺が非時香果なんか食ってんだよ!」 「あの頃はいたずら盛りの弱っちいガキでさ。やんちゃが過ぎて人間に討伐隊組まれて死にそうになって、非時香果に飛びついたんだ。精力回復には一番だからな」 「そうそう。昔は弱いくせに、やけに尖ってたよね」 「……忘れてくれ」 おかしそうに口の端を上げた滝霊王に、峻生はバツが悪そうに視線を下げた。 「ならば、案山子神様は……もう非時香果はこの世にはないとおっしゃりたかったのか……」 千徳は体を震わせ項垂れた。 「わしは……わしは約束したんじゃ……絶対に非時香果を見つけて、あきを助けてやると。それなのに……」 「爺。そんなしょげんなって。九百年前に食ったのが最後の一個じゃねぇだろうしさ」 「そうだとしても、万事を見通す案山子神様が、滝霊王を通じて峻生の元に導いて下さったという事は、もうわしらに入手できる非時香果はないという事であろう……」 次第に声まで震えはじめて、千徳は黒々とした目から一筋の涙を零した。 「おいおい、お徳ちゃん。非時香果がなくても俺が何とかするって言っただろ? そう悲観するなよ」 峻生が千徳の耳辺りを優しくかき撫でる。 「……相手は元神じゃ。おぬしの力であきを救えたとしても、ただでは済まんぞ」 「分かってるって。そもそも、力技だけで押し通そうなんて思ってないからな」 峻生の言葉に滝霊王が首肯した。 「辻の魔の力が弱ってるって話。本来ならありえないよ。それこそ元神。人間に手を出すほどの衰弱なんて、異常極まりない。確実性のない非時香果より、衰弱の理由を探して対処した方が利口だと思わない?」 「言われてみれば、今までにない異常な事じゃ。しかし……」 魔に堕ちた神々の邪悪な気と強い力を千徳は思い出す。 弱っても尚、それらは圧倒的なものだった。 非時香果なしで相対して、上手く明人の命を救えるだろうか。 衰弱の理由を解明したとしても、もし祟られでもしたら――。 「弱ってる原因が分かれば、そっちを叩いた方が早いだろ。非時香果の存在に右往左往してたら、七日なんてすぐ過ぎる」 「うむ……うむ……そうじゃな……」 逡巡を色濃く残したまま小さく頷く千徳の体を、魃鬼が勢いよく持ち上げた。 「ば、魃鬼っ。突然何じゃ!?」 魃鬼と持ち上げられた千徳が同じ目線になる。 「なぁ。オレ達、勘違いしてたんじゃね? 案山子神は非時香果の手がかりをくれたんじゃねぇんだよ。あきの命を助ける為の手がかりをくれたんだ。だって、案山子神は全てを見通してんだからさ。中途半端な事は言わねぇだろ。そう思わね?」 「……あきを助ける為に滝霊王の所へ導いて下さったと……?」 千徳はすがりつくように、懸命に魃鬼の瞳の奥にある希望を見つめる。 「そういう事。大事なのは非時香果じゃねぇ。あきの命だ。案山子神は全部分かってんだからさ。その上で滝霊王を指名したとオレは考えるね」 「……峻生と滝霊王もそう思うか?」 「そうだな。非時香果は俺が食ったしな」 峻生に続き、滝霊王も無言で頷いた。 「わしは悪い癖を沢山もっておる。すぐに目の前の事しか見えなくなるのも、その一つじゃ……」 魃鬼の手から下ろされ、千徳は静かに眠る明人の足元に寄った。 見上げた先には、穏やかな寝顔がある。 寝る前よりは随分と顔色はよくなったが、深すぎる眠りは心身の激しい消耗を示していた。 助けてやると宣言しておいて、随分と負担をかけてしまった。 幽冥界に慣れない人間の体がどれだけ妖気に弱いか、知らなかったとはつまらない言い訳だ。 明人との出会いは、本当に偶然だった。 見るからに弱って暴走している魔物に、楚々とした雰囲気の目を引く青年が今にも喰われそうになっていた。 千徳は最初、触らぬ神に崇りなしの言葉通りだと思った。 それでなくとも相手はやっかいな辻の魔だ。関わると面倒な事になるのは分かりきっている。 襲われた人間は可哀想だが、運が悪かったのだ。そう思って、いつもならば無視して通り過ぎてしまっただろうが。 青年の、明人の姿を見ていたら、考える暇もなく助けに入っていた。 明人の肉体が、魂が、目を瞠るほど清廉で、美しくて。 それが魔物に喰われて汚されてしまうのが、千徳はどうしても我慢できなかったのだ。 「わしは……あまりにも無力じゃ」 「何言ってんだよ。大貉様が」 魃鬼の言葉に、千徳が苦笑する。 「実際、わしだけでは、あき……人の子一人さえ満足に助けてやる事ができん」 助けたい、死なせたくないと勢いのままに突っ走ったが、皆に言われた通りあまりにも無謀だった。 「でも、あきの命を繋ぎたいという気持ちは大きく、強いつもりじゃ。この子は本当に良い子で……あんな魔物に喰われて死んでいいような子ではない」 千徳は皆に向き直ると、静かに頭を下げた。 「改めて、あきの命を守る為に三人の力を借りたい。非時香果から目的を変えた今。辻の魔との真っ向勝負になるやもしれん。失敗すれば、とんでもない災いを背負う事になろう。だが、どうか……どうか、頼む」 千徳は床に鼻先を擦らんばかりだった。 「頭を上げろよ、お徳。話に乗った時点でそんな事は想定済みだ。だろ?」 峻生が問えば、残りの二人が笑顔を見せた。 「当然。逆にどんどん面白くなってきてんじゃん」 「最近、峻生と飲んでばかりで退屈してたから。ちょうどいいよ」 「俺は退屈しのぎかよ」 「まさか。しのぎきれてない」 端的な滝霊王の返答に千徳と魃鬼が声を出して笑った。 「……本当にありがたい事じゃ。こんなに頼りになるおぬし達の元に導いて下さったのに、わしは案山子神様の御言葉を疑っておった。恥ずかしい限りじゃ」 千徳は居住まいを正した。 案山子神の御言葉に報いる為にも、辻の魔から必ず明人を助けねば。 何が出来るだろうか。 力では全く及ばない己が――。 「よし、色々悩んでおっても仕方ないの。速攻が吉じゃ! わしは辻の魔が衰弱しておる理由を探してくる。幽冥界と人の世の狭間をうろついている奴らに手当たり次第に聞いて回れば、誰かは手がかりをくれるであろう」 「じゃあ、オレも。こっちは人間に混ざってる奴に聞いてみる」 千徳と魃鬼は我先にと立ちあがった。 「頼むな。俺はあきが目覚めるまで傍にいる。非時香果の件は不安にならないように誤魔化しておくから」 立ち上った二人は頷くと、すぐに背中を見せて姿を消した。 「滝王はどうする?」 「……水妖が気になる」 「俺もだ。襲われたのは偶然じゃないだろう」 「水妖達は団体行動なんて死んでもしないよ。集団に襲われたってどういう事か……。少し調べてみる」 「了解」 滝霊王は明人を気遣わしげに見ると、音もなく一瞬で姿を消した。 「急に静かになったな」 先程の騒がしさから一転して、音が消えた和室で峻生の声が響く。 「辻の魔やら水妖やら、あきは人気だな」 峻生の胸の中。 非時香果をまさか目の前の妖怪が食べてしまっているとは知らずに、ぐっすりと眠っている明人。 そのあどけない寝顔に誘われるように、滑らかな栗色の髪を峻生は何度も撫でた。 「皆の力を合わせれば、何も心配いらないからな」 ぎゅっと腕の力を強めれば、無意識に顔を綻ばせて擦り寄ってくる。 あまりにも可愛らしい仕草に、峻生は飢えた獣のような心地になった。 千徳が面倒な辻の魔を相手にしてでも助けたいと思ったのが、よく分かる。 魂の奥底から優しく輝いている、得も言われぬほど美しい青年だ。 なかなかお目にかかれないぐらいの魅力があるのに、本人に自覚がない鈍感な所も微笑ましい。 妖怪の類に会ったのは初めてのようだったが、よくここまで魑魅魍魎に目を付けられずに生きてこられたものだ。 「かなりの幸運の持ち主か?」 閉じられた白い瞼の縁に並ぶ長い睫を指先でくすぐる。 「ん……」 薄紅色の唇から漏れた吐息が峻生の掌を撫で、ざわりと胸が騒いだ。 心の奥底で。今まで微動だにしなかった激しい熱情が音をたて始めるのを感じる。 もう、引き返せそうにはないなと本能的に思った。 「あき……明人……」 柔らかい頬を撫で、唇をなぞる。 目を覚ませば、またこの可憐な顔は不安に覆われる事だろう。 早く降りかかった災いから解放してやらないと。 辻の魔はもちろんの事、水妖も怪しい動きをしている。 繋がっているのか無関係かは分からないが――。 久しぶりに怖ろしいほどの大きな禍事が襲ってくる予感がする。 もちろん、何者がやってこようとも明人を渡すつもりは毛頭ない。 例え、己の力を凌駕する相手だったとしても。 この美しい青年の満面の笑みを見る為ならば、全てに打ち勝ってやろう。 千年を生きる大妖の鵺は、明人の愛らしい寝顔を見ながら心に誓うのだった。
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