其の五

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其の五

「あき」 「ん……?」 峻生の声に、意識が焦点を結ぶ。 どうやら、軽く意識を飛ばしてしまっていたようだ。 「突然、飛び下りて驚かせたな」 「……心の準備が全くできませんでした」 「すまん、すまん。言うと、飛び下りるのを嫌がるだろ?」 「……確かに前もって飛び下りるって言われたら、嫌がってたと思いますけど」 拗ねたような視線を峻生に向けると、明人は温かい胸から身を離して地に足をつけた。 「ありがとうございました」 「どういたしまして。もっと抱えててもよかったけどな」 「子供じゃないんですからっ。それより、ここはどこですか?」 明人は視線を巡らせた。 古い木造の小屋。いや、御堂か。 広さは十五畳ぐらいか。 板張りの床は随分と埃っぽい。 格子戸の向こうは冷たい夜で、光のない闇の中、滝のように雨が降っていた。 「ここは雨気が一際強い場所の近くだ。水妖がうじゃうじゃいる。ここまでとは予想外だな……」 一際強い場所。という事は中心部だ。 そんな、いきなりラスボスの城の中に移動してしまうような事をして、荒業すぎやしないか。 「大丈夫なんですか? こんな敵の中に来てしまって……」 「変にうろうろしてると、さっきみたいに追いかけ回される。多少は懐に入ってた方が、逆に見えなくなるもんなんだ」 「な、なるほど」 お互いの声もかき消してしまうほどの雨を、格子戸の隙間から見やった。 この雨闇の向こうに、おぞましい水妖達が大量にいるのかと思うとぞっとする。 逆に見えなくなるというのは分かるが、やはり敵に囲まれていると恐怖が募っていく。 見つかれば、また足手まといになってしまうだろう。 貧弱な人間は手を出すなと思われるかもしれないが、少しでも役に立って、これ以上のお荷物にはなりたくなかった。 「ほら、手」 床に胡坐をかいた峻生が手を差し出した。 「え……?」 「雨気もだが、陰気もかなり強い。体、重くないか?」 「特に不調は――」 そう言いながら峻生の手に触れると、体がふと軽くなって脱力するのが分かった。 「気付いてなかったか?」 「はい……」 明人は苦笑しながら、峻生の隣に座った。 気を張っていて気づかなかったが、また体に負担がかかっていたようだ。 「少し、こうしていよう」 「……毎回すみません」 だめだ。 当然のようにもらえる優しさに、いちいち心が熱く沸き立つ。 こんな時に何を考えているんだ。 「滝王は多少気配を消していても、俺の妖気を辿れる。自分の棲家が荒らされたのは感知してるだろうし、何か掴んだらすぐに来るはずだ。お徳達もそう遠くには行ってないだろうから、少し様子をみよう」 頷くと、峻生にぎゅっと手を強く握られた。 外は闇一色で灯りなど皆無なのに、峻生の力なのか、御堂の中はわずかに闇が薄い。 うっすらと浮かび上がる峻生の輪郭。 その影にさえ色気を感じて、明人の胸が跳ねる。 輪郭だけでも格好いいとは、もはや卑怯だ。 「水妖のうじゃうじゃした気配の奥に、変な妖気を感じるな……」 「変?」 「ああ。かなり強いが不安定な気配だ。こんな妖気、今まで感じた事がない……。妖気自体は大妖に匹敵するぐらいだ。そんな力を持ってて、俺が知らない奴なんてなぁ……」 峻生が首を傾げる。 大妖に匹敵するなんて相当だ。 そして、峻生が知らない未知の妖怪――。 「峻生さん……」 明人は強く峻生の手を握り返した。 改めて、己の身勝手さが胸に刺さる。 明人は自分の命惜しさに、未知の大妖と峻生を戦わせようとしているのだ。 いくら強い鵺とはいえ、知らない大妖と戦って無傷では済まないだろう。 峻生は何が来ようとも大丈夫だと言っているけれど――。 「あき~。また変な事考えてるだろ。あのなぁ、俺が平気って言ってんだから、誰が相手だろうが悩む必要はないんだ。分かったか?」 「…………」 そう言われても、やはり、とてつもない罪悪感を覚える。 無言で峻生をじっと見上げていると、紺碧の目がきゅっと細まった。 「明人くん。お返事は?」 「う……」 「返事!」 「……はい」 「よろしい」 峻生は明るく笑うと、握っている手を引き寄せた。 優しく肩が触れ合う。 「あー。早くあきと温泉でゆっくりしたいな~。もちろんお徳ちゃんは抜きで」 「千徳さん、すごい楽しみにしてたじゃないですか。皆で行きましょうよ」 小さく笑いながら答えると、峻生が拗ねたような視線をよこす。 「あきは俺と二人は嫌なのか?」 (おとがい)をとらわれて、紺碧の美しい瞳が間近に迫る。 「い、嫌じゃないですよ……」 「……本当に?」 峻生の視線が唇を舐め、頬が熱くなる。 声が出せなくて小さく頷けば、再び視線を絡め取られて吐息が唇を掠めた。 こんな時に、でも、いや、そんな――。 全身が口付けの予感に支配され、ゆっくりと瞼を閉じた瞬間。 外から雨音を切り裂く大きな衝撃音がした。 何かがぶつかったような、爆発したような。 「え、な、何っ?」 「あと五秒待って欲しかったな」 甘い空気が消えて、峻生は目元を険しくした。 「……魃鬼だ。水妖とやり合ってるようだが……」 妖気を読んだ峻生が格子戸の外を見ながら言う。 「え!? 魃鬼が!? やり合うって……外は水妖がうじゃうじゃいるんですよね?」 「ああ。妖力は魃鬼が上でも、数でやられるな」 「そ、そんな……」 再び大きな衝撃音が、雨に濡れた空気を揺らした。 峻生と違って妖気なんて読めないが、魃鬼が非常に危険な状況なのは雰囲気で分かる。 「峻生さんっ! このままだと魃鬼が……っ」 「分かってる」 峻生が表情を固くした。 「……明人。俺が帰ってくるまで、絶対にここから動くなよ。結界を張っていくから、誰が来ても戸を開けずに無視しろ。いいな」 「はい」 「いい子だ。何も不安になる事はないからな」 明人の頭を一撫ですると、峻生は軽やかに立ち上った。 「気を付けて……」 峻生は微笑みながら頷き、最後に明人の手をぎゅっと握ると、戸を静かに開けて絶え間ない雨の中に駆け出して行った。 鵺の気配が消え、瞬く間に孤独が御堂の中を支配する。 雨に冷えきった空気が今更ながらに肌を刺して、明人はぶるりと身震いした。 瀑声に似た雨音に、体が押しつぶされそうだ。 だめだめっ! 明人は恐怖に流されそうになる己の心を叱咤した。 不安になると、自分にかけられた辻の魔の呪が強くなってしまう。 峻生が傍にいない今。 恐怖に捕らわれてしまうと、きっと自力では逃れられない。 大丈夫。大丈夫。 すぐに峻生は戻ってくる。もちろん無事に魃鬼を連れて。 だから、何も心配せずに、待っていればいい。 鵺の結界が張ってあるのだ。気配も消してくれているし、水妖が御堂の中に入ってくる訳がない。 奥歯を噛みしめて、強く目を閉じた。 千徳と滝霊王は、もう辻の魔や水妖についての有力な情報を掴んでくれているかもしれない。 早く、この二人とも合流して、おかしな魔物や化け物達とはおさらばしないと。 皆が明人の為に動いてくれている。 平気。 全て上手くいく。絶対に上手くいく。 呪文のように心の中で唱えて、ガタガタと震え出しそうになる体を抑え込む。 足手まといのくせに、まともに待つ事すらできないなんて。 そんな無能な男には、なりたくない。 ぎゅっと膝を抱き寄せて顔を伏せる。 心を圧迫してくる激しい雨音を、少しでも意識の外にしようとしていると、格子戸を激しく叩かれた。 「……っ!?」 息が止まる。 誰――? 格子戸の向こうは雨ばかり。 何の気配もない。 なのに、戸が軋むほど叩かれる。 何度も、何度も。 ――何?誰?水妖?辻の魔――? 混乱と恐怖が身を固くし、噛みしめていた奥歯がカチカチと鳴り始めた。 入口は鍵なんてない。閉じてあるだけの古い格子戸だ。 これだけ叩かれても開かないのは、峻生の結界のおかげだろう。 ならば、進んで明人が出て行かない限りは、侵入される事はない。 ――このまま、峻生さんと魃鬼を待てばいい。怖がっちゃだめだ――。 鵺の結界が破れるなんてありえない。 平常心、平常心。 懸命に落ち着こうとしていると、バキリと派手な音をたてて、格子戸の一部が割れた。 ――そんなっ……!! 小さく悲鳴を上げそうになって、一層体を縮こまらせる。 戸を叩く音が増して、今にも中へ何かが入ってきそうだ。 ――少し戸が壊れただけ。絶対、絶対、峻生さんの結界は壊れないから――っ! 強く耳を押さえて、目を閉じる。 それなのに、鼓膜の奥から戸を叩く音が執拗に響いて、とうとう明人は短く悲鳴を上げた。 ――どうしてっ。耳、塞いでるのに……やだっ、やだ……峻生さんっ――。 ドグリ、ドグリと心臓が嫌な音を刻む。 心に冷たい不安が広がって、あの恐怖が、岩山で感じたおぞましい感情が、身体の奥から湧きあがってきた。 ――ああ……呪が僕の命を……――。 明人は座っている事すらできなくなり、床に倒れた。 涙がこめかみを伝い、床へと落ちていく。 耳を塞いでいないのに、今度は全ての音が去って遠くなるのを感じた。 闇が、心の奥を蝕んでいく。 ――このまま、僕、終わるんだ――。 遠く、格子戸の開く気配がする。 怖ろしい何者かが入って来たのだ。 ――喰われる――。 明人は諦念に身を投じた。 「おいっ! あきっ!? 何でぶっ倒れてんだよ!!」 そうして意識がなくなりかけた時。 魃鬼の声がした。 戸を開けたのは恐ろしい者ではなかったのか。 「呪にのまれかけてるな……」 耳触りの良い、この声。 明人は堕ちようしていた心を、どうにか引き止めた。 峻生だ。 そうだ。二人が帰って来てくれたのだ。 ならば安心だ。 戸を叩いていた何者かも、きっと二人がどうにかしてくれる。 そう思ったのに。 心からの安堵が訪れない。 不安も恐怖も一向に去らず、体が指一本動かない。 優しく体をすくい上げられた感触がして、明人は傍にいるだろう二人に、懸命に手を伸ばそうとした。 「……そ、外……何か、いて……」 「外に? 何もいねぇぞ。オレ達が戻ってくる前に、何かいたのか?」 「ずっと、戸をたたいてた……音が、耳の奥に――」 「俺達がいるから、もう誰も戸は叩かない」 「で、でも……怖いよ、いるんだ……見えないのに、いるんだよ……」 「あき……」 恐怖に囚われ、涙を零し続ける明人。 その苦しそうな姿を見て、焦燥の色を浮かべる魃鬼に、峻生は小さく頷いた。 「明人。俺が胸に手を置いてるのが分かるか?」 ゆっくりと優しい峻生の声が、真っ暗になった頭の中にじわりと沁み入る。 「あ……」 分かる。 手の温もりに胸を包み込まれているのが。 明人はその手に触れようとしたが、叶わなかった。 「いいか。戸を叩いてた奴は誰もいない。俺の結界を壊さずに、戸を叩くのは不可能だ」 「……ずっと、聞こえてたよ……? 戸がこわれるぐらい……」 「それは幻聴だ。辻の魔の呪と、あきの心が見せた幻」 「そ、んな……」 「だから、今、あきが何も見えないのも、体が動かないのも、極端に言えば気のせいだ。自分の心次第でどうにでもなる」 だって、だって、あんなにはっきりと聞こえたのだ。 何度も、何度も――。 体だって、全く自分の思い通りいならないというのに。 これが、全部……幻――? 「もうオレ達がいるんだしさ。呪なんかぶっ飛ばしちまえばいいじゃん。あきならすぐ出来るって」 魃鬼が励ますように明るい声音で言う。 「そうだな。あきの恐怖心は作られた偽物だ。もう何も残ってない。大丈夫。自分の心を探ってみるんだ。ゆっくりでいい」 胸を優しく撫でられて、強張っていた体が弛緩した。 心を探る――。 どうすればいいのだろう。 恐る恐る不安で満たされた感情の端に触れみると。 ――え!? ぱんぱんに膨らんでいた風船が割れるみたいに、恐怖が嘘のように霧散した。 「ほら、何もなかっただろ? 次は目を開けてみろ」 そう言われて、自分で固く目を閉じていた事を知る。 震えて上手く動かない瞼を、重い扉を開けるように、ゆっくりと持ち上げる。 「見えるか?」 魃鬼が明人の顔をのぞき込んで言う。 「ばっき……みえるよ……」 御堂の闇の中で浮かび上がる二つの顔。 二人の妖怪が、心配そうに明人を見下ろしている。 魃鬼の頬には擦り傷ができていた。 はっきりとしていく視界と共に、体に感覚も戻ってくる。 上半身を峻生に抱えられ、胸は温かな手にずっと撫でられていた。 もう一度、峻生の手に触れようと指を伸ばす。 今度は腕が動き、峻生の大きな手に掌を重ねる事ができた。 「温かいあきの手だ……よかった。もう呪の気配はないな」 峻生の紺碧の瞳が優しく細められた。 その表情に、明人は再び涙が出そうになる。 「何でこんなに呪が強くなってんだよ。まだ七日目には時間があるってのに。辻の魔の奴ら、非時香果を諦めて、あきを喰う事にしたのか?」 「それは俺が聞きたいな。魃鬼は辻の魔について調べてたんじゃないのか? 水妖に大挙して襲われてたようだが」 「えっ……いや、その……」 魃鬼は気まずそうに頭を掻いた。 「最初は辻の魔について聞き回ってたんだけどさ。雨気の中心にバカでかい妖気を感じたから、そいつが何なのか気になって……。水妖がうじゃうじゃいて驚いたけど、あんなもん蹴散らせるって思ったんだ」 「それで逆に囲まれて死にそうに?」 「……わ、悪かったって! 油断しました! あんたが来てくんなかったら死んでましたっ!」 魃鬼は早口に礼を言った。 その決まりの悪そうな様子に、峻生は小さく笑った。 「そんなにヤケクソで礼を言わなくてもいいだろ。別に説教なんてしない。水妖が団結すると、あんなに妖力が上がるもんなんだな。俺も初めて知った。お互い、油断や過信には気をつけような」 無言で頷いた魃鬼の頬に、明人は手を寄せた。 体の異常な重さもなくなり、己の身体がきちんと自分の元に戻ってきたようだ。 「どうした? どっか痛むか?」  「ううん。大丈夫。魃鬼こそ、傷……痛くない?」 かすかに血が滲む傷に障らないように、指先を頬に触れさせた。 「……何ともねぇよ。傷があるのを今知ったぐらいだし。あきの方が大事だろ。完全に非時香果の件を無視してきてんじゃん。辻の魔の奴ら」 明人は峻生に礼を言って、上半身を起き上がらせた。 魃鬼の力か。 この雨の中を水妖と戦ってきただろうに、二人の体には水気一つなかった。 「戸を叩く音と一緒に不安と恐怖に襲われて苦しくなって……。もし、あのまま意識を飛ばしちゃったら、辻の魔に食べられてたんだよね?」 「そうだな。だが、お徳との非時香果の約束もちゃんと生きていて、あきへの呪と同様に、あいつらを縛っている。だから、正面から喰いには来られない」 「え……でも、僕は何度も――」 「積極的に手を出せないから、呪を強めて、あきの心を闇に落として……つまりは自分達の方へおびき寄せて、取り込もうとしている」 「おかしな話じゃね? あいつらからすれば、爺との約束に損はねぇじゃん。七日後には上手くいけば非時香果が。無理なら喰い損じたあきが手に入る」 「もう七日も待機する余裕がないんだろ。俺があいつらの気配を察知する度に、魔力が減ってるのを感じる。精力を吸われ続けてるんだ」 「じゃあ、あきを襲ってからも、ずっと弱り続けてるって事か……そりゃ余裕なんてねぇな。でも一体誰が……」 「雨気の中心にいる異様な妖気……俺もずっと誰かと思ってたんだが。あれは水虎(すいこ)だ」 水虎(すいこ)という言葉に、魃鬼が目を(みは)った。 「はぁっ? いや、そんな訳ねぇだろ! あんなデカい妖気の水虎なんて見た事ねぇよ」 「俺だってないさ。だが、あの妖気の根本は水虎のものだ。力が膨れ過ぎて、最初は分からなかったが」 「力が膨れるって……あ……も、もしかして、水虎が辻の魔から精力を吸い続けてるって事か!!」 峻生が首肯する。 「……色々ありえねぇな。何だってんだよ」 明人は峻生と魃鬼の顔を交互に見た。 どうやら、その水虎とやらが辻の魔から精力を奪い続けているようだ。 それにより衰弱した魔物が、少しでも力を回復する為に明人を襲った。 そして、千徳との約束で非時香果を待っていたが、その間にも力を奪われ続けて余裕がなくなった魔物は、呪をかけている明人を食べる事にした。 という流れだろうか。 なるほど。よく分かった。と言いたい所だが。 「あの、ごめん……えっと、水虎って妖怪、だよね?」 「ああ、あきは知らねぇよな。水妖の仲間みたいなもんだ。やけに御大層な名前が付いてっけど、その辺の河童をちょっとばかり従えてるだけで、大将気取りしてる小者でさ。妖力だって大した事ねぇんだよ。本来ならな」 「それが、辻の魔の精力を奪って大妖並みの力を得て、何か良からぬ行動を起こしたっていう事?」 その通り、と峻生が続けた。 「辻の魔だけじゃない。相当数の妖怪を喰ったり、精力を吸ったりしてないと、あれだけの妖力にはならない。そして、何故か手に入れた膨大な力で、この雨を降らせている……思ったより手こずりそうだ」 水虎が雨気の中心にいると言っていた。 雨を降らせているのも水虎なのか。 「どうやったか知らねぇけど、大量の水妖まで侍らせてる。早めに叩いとかねぇと大惨事になるな」 魃鬼の言葉に、峻生は明人にお守りを出すように促した。 「これ、お前の方が詳しいだろ。水妖達が狙ってた。多分、水虎の指示だろう。雨乞いの櫛のようだが――」 明人は櫛の欠片を魃鬼の掌に乗せる。 そうか。 旱魃を起こす妖怪である魃鬼と雨乞いは、切っても切り離せないものだ。 「うわ……!」 魃鬼が掌に乗った欠片をまじまじと見て感心した。 「すげぇな……これ。欠片とはいえ、相当のもんだ。あきのもんなのか?」 明人は思いきり首を横に振った。 「いや、祖母のものだよ」 「婆さん、使った事ねぇんだよな? こんなもん使われたら、俺の妖力最大限でも、なかなか抑えられねぇな」 「これはずっと使われてなかったと思うよ。祖母はお守りって認識してたし、前の持ち主の曾祖母もきっとそう」 「長い間受け継がれている内に、本来の使用方法が忘れ去られたんだろ」 峻生がそう言って思案顔をした。 「しかし、魃鬼が及ばないぐらいの雨乞いの力があるとなると、これは雨どころか――」 峻生の言葉が消え、何の前触れもなく体が揺れた。 「わっ……!?」 急な事に頭がついていかないが、峻生に御堂の隅まで抱きかかえられたようだった。 「たかおさ――?」 何が起こったのか。 どうにか口を開いたと同時に、大きな隕石が落ちてきたような音と振動が響き渡った。 「ひっ……!」 明人は思わず峻生に抱きついた。 御堂が木端微塵になってもおかしくないぐらいの衝撃だ。 だが、御堂は壊れる事なく軋みながら振動に耐えきった。 「水妖に見つかったな」 明人に降りかかった天井からの木片を払ってやりながら、峻生は苦々しく言った。 「悪ぃ。オレのせいだ」 同じく木片を派手に払いながら、魃鬼が口を歪めた。 魃鬼を迎え入れた事で、水妖に気配を察知されてしまったのか。 「このまま揺さぶられ続けたら、結界が壊れる前に御堂が倒壊だな」 「うわ。どんどん水妖が集まってきてんじゃん……」 峻生と魃鬼が話している間にも、水妖の攻撃は止まずに、轟音と御堂の軋みは続いている。 バラバラと降る木片が鬱陶しい。 「……オレが囮になる。先に出て一通り暴れるから、その間に二人は逃げろ」 魃鬼の立候補に、峻生は眉を寄せた。 「また捕まる気か?」 「今度は上手くやるって」 「本当か? 心配だなぁ」 峻生は大袈裟に心配気な顔をした後に小さく笑った。 「囮は俺がなろう」 「いや、それは――」 「その方が都合がいい。俺が結界を消すと同時に、周囲の水妖を一挙に足止めする。魃鬼は明人と幽冥界へ向かってくれ」 「じゃあ、あんたはどうすんだよ。この数の――」 言い募る魃鬼の言葉の隙間。 「……きっ……わ……っ」 何かが聞こえて、明人は耳を澄ませた。 「ん?」 激しい雨音と水妖達の攻撃。 それらが重なって聞き取りづらいが、誰かの声がした気がした。 途切れ途切れでよく分からない。 水妖が話をしているのか。 いや、でも何かこちらに呼びかけているような。 「……あ、あきっ……!」 ――え!? 僕っ――!? 聞こえてきた形ある言葉に明人は驚いた。 それに、この呼び方。性別がよく分からない声。 馴染みのあるこの声は――。 「ちょっと待て。あのさ……オレ、すげぇ嫌な予感がすんだけど」 「俺もだ」 人間の明人でさえ、割とはっきり聞こえたのだ。妖怪の二人が聞こえないはずがない。 聞き覚えのある声を耳にして、三人は格子戸の向こうの雨闇に目を向けた。 「あきぃっ! そこにおるのか? わしじゃ、千徳じゃ。すまぬ、水妖に捕まってしもうた。こやつらは、あきの持っておる雨乞いの櫛と、わしの命を引きかえると言うておってな。あきはそんな物を持っておらんだろう? な?」 御堂の中の三人は静かに顔を見合わせた。 「……マジか。人の事は全く言えねぇけどさ。ここぞって時にさぁ……!」 魃鬼が自分の失態を大いに棚上げして(うめ)いた。 「お徳ちゃんのこれは昔っからだ。もう、愛嬌の一つとでも思わないとな」 御堂が激しく揺れる中、峻生が明るく笑う。 「んで、どうする?」 「そうだな……俺達の動きを察知して、上手くお徳が動いてくれる可能性は?」 「う~ん。ないな」 魃鬼も軽く笑い声を上げた。 「あき? 峻生もおるのだろう? なぁ聞いておるか!?」 二人の笑い声とは対極の、焦りを滲ませた千徳の声がする。 御堂も倒壊寸前で、もう時間がない。 「……ここまでくれば、水虎も俺達の存在を認識してるだろうな」 峻生がすっと表情を固くした。 「ここを出たら、俺は水虎を相手してくる。親分を倒せば、一番話は早いだろ。それまで、どうにか逃げきってくれ。いいな、魃鬼」 「……分かった」 「そ、そんな……! せめて滝霊王さんと合流してから……」 「待ってたら、あきが狙われ続ける。あいつも色々探って、上手く立ち回ってくれるだろ」 心配は無用だと、峻生はうららかな表情を見せた。 「俺よりあきの呪の方が心配だ。辻の魔は常に心を絡め取ろうとしてくる。不安や恐怖が何度も襲ってくるだろうが、決して一人じゃない。皆があきを想って手を差し伸べている事を忘れるな。もちろん、俺もだ」 「峻生さん……」 「鵺様カッコいい~!」 茶化す魃鬼の肩を、峻生がゆるく押した。 「魃鬼の役目は重大だからな。さっきのような失態はないよう、肝に銘じてくれよ」 「大丈夫だって!」 琥珀色の瞳が御堂の中で、きらりと光った。 「頼むな。魃鬼」 そう言葉を交わしながら戸口に足を向ける中、明人は気になっている疑問を口にした。 「その、千徳さんはどうするんですか……?」 「俺が拾って逃がすから大丈夫だ。二人は全力で、ここから離れてくれ」 峻生が余裕の笑みを見せる。 そう言われたら、明人には何も言えない。 どうか無事に逃げてくれと祈るばかりだ。 「あき。これ、落とさないようにしろよ」 魃鬼が持っていた櫛の欠片を明人に戻した。 「うん」 急いで小袋へ入れて、チノパンのポケットの奥深くへしっかりと突っ込んだ。 「俺が合図したら飛び出せ」 戸口の前に立ち、明人と魃鬼が静かに頷く。 ゆっくりと目を閉じて、峻生が神経を集中させる。 「落雷させる」 そう言いながら峻生が目を開いた瞬間。 「えっ……!」 外が昼間のように明るくなり、いくつもの稲光が御堂の周囲を走り抜けた。 「今だ! 行けっ」 雷になぎ倒された水妖達の悲鳴と雷鳴が重なる中、峻生が合図を出した。 「あき、来いっ!!」 魃鬼に手を引かれて、格子戸をぶち破るように御堂を飛び出した。 隣で、峻生が同じように走り始める。 稲光の余韻の中で、紺碧の瞳と視線が交わった。 わずかに目尻が細まり、優しい眼差しが明人の心を掴む。 どうか、気を付けて――。 そう口にする暇はなく、少しでも伝わるようにと一瞬だけ強く見つめ返した。
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